江戸時代、国分寺は月の名所だった

 大久保狭南は元文2年から文化6年(1736~1809)江戸後期の儒学者で幕臣。後年は狭山丘陵、入間郡山口(所沢市山口)に住んで郷土史を研究したという。
 大久保狭南が残している『武蔵八景』に「立野月出」として国分寺の秋を描写している一文がある。次のような漢詩を添えている。
「平野秋夕暮 草深多露濡 偏憐月出景 滿地如連珠」
『平野に秋晴れの夕べ 草深く濡れること多し 偏に愛でる月の出の景色見渡す限り連珠の如し』 
「立野月出」 「立野の月の出」は武蔵野八景の一つで月の名所であるといい、次いで「立野は一か所を指していうのではなく、ここでは府中より北、国分寺に到るまでの半里、左右の平原がこれである。昔、馬を曳いて府中の市に来た者はここで宿泊して、馬を立てたのでこの名がある
 今は府中街道の両側には、府中刑務所や東芝の工場はじめ家々がびっしりと建て込んでいるが、当時西の方は遠く山々が連なり、そのまた向こうに霊峰富士の山を仰ぐことが出来たのであろう。

 また、西国分寺駅より南に旧鎌倉街道と言われる道を1㎞あまり下るところの左手に小高い丘がある。塚のような高さ5m程の山であるが、狭南の言うところの“富士塚”であろうと思われる。また続けて「この塚に登れば一目で千里見渡せる。東は遥かに天地が接するのを見るばかり、秋晴れの夕べに月の出の光が草の間から生まれ、古歌に歌われた情景は幻ではない。そのために中秋の月の出を見に来る人が多い
 「この塚から東の方向に国分寺の甍が見える。国分寺に仁王門の跡がある。礎石の石があり大きいのに驚く。あたりには古い瓦の破片が沢山あり、国分寺はその昔大伽藍であったことが明らかである」と説明している。
 今この塚に上って東を見ても、あるいは西の方を見ても昔の情景は想像だに難しく、ただぎっしりと並んだ家並とビル群の林立を見るのみである。  
 200年前の国分寺や府中のたたずまいは、書物の中で眠っているだけである。

 因みに400年前の、林 羅山の漢詩にも同様の情景を歌っている。
 「武野晴月」と題して
『武陵秋色月嬋娟 曠野平原晴快然 輾破青青無轍迹 一輪千里草連天』
武蔵野は秋の月が美しい、草の原が続き、ただ丸い月が千里を照らし輝いている
と。

(記)眞宅康博

JR:国分寺駅・西国分寺駅の発車メロディ

この度、3月4日からJR中央線国分寺駅と西国分寺駅の発車メロディが変わりました。
国分寺駅は、国分寺で半生・40年を過ごした作曲家・信時潔の童謡「電車ごっこ」、西国分寺駅は「一番星見つけた」。

 武蔵野線西国分寺駅は“国分寺市の歌”が各々採用され、鳴り響いています。
信時潔は大阪出身で、父親は牧師で幼い時から讃美歌に親しみ、東京芸術大、ドイツ留学、芸大教授を経て、作曲部創設に尽力。作品は1000曲以上で、「海ゆかば」「紀元二千六百年頌歌」、文部省唱歌「電車ごっこ」「花火」等々。戦前戦後を通じて学校の音楽教科書の編纂や監修にも力を注ぎ、校歌・社歌・団体歌等の作曲も数多く手がけています。
国分寺市立小中学校の校歌作曲も多数あり、国分寺市内15校中6校(第一~第四小学校、第一・第二中学校)の校歌を作曲、6万人の生徒がこの校歌を胸に卒業しています。他に灘、桐朋、桜蔭高、慶応義塾、学習院、成蹊、専修大学など多々あります。
「電車ごっこ」の発車メロディは電車の駅風景として出来すぎ位にマッチしており、国分寺として誇れるものです。因みに近隣の発車メロディは武蔵小金井が“さくらさくら”小金井堤の関連、駒込も同じで、染井よしの発祥の地の関連。三鷹が“めだかの学校”、豊田が“たきび”、八王子が“夕焼け小焼け”、高田馬場が“鉄腕アトム”となっており、後れ駆せながら国分寺駅での楽しみが増えました。
この発車メロディは国鉄時代の1970年代後半から電子音のベル(「ピロピロピロ」という音)を使用していましたが、耳障りであるなどと不評であった為、1989年新宿駅と渋谷駅に導入し、順次採用、実施されています。
電車ごっこ(井上赳作詞)「運転手は君だ 車掌は僕だ、あとの4人が 電車のお客 お乗りはお早く動きます ちんちん・運転手は上手 電車は早い 次は上野の公園前だ お乗りはお早く動きます ちんちん」
一番星見つけた(生沼勝作詞)「一番星見つけた あれあの森の 杉の木の上に 二番星みつけたあれあの土手の 柳の木の上に 三番星見つけた あれあの山の上に 松の木の上に」
                                            清水元(記)

小説の中の「国分寺」

 大岡昇平の代表作の一つに「武蔵野夫人」という小説があります。この小説、国分寺とその周辺を舞台に書かれた恋愛小説として有名です。この小説の書かれたのは、昭和20年代で、当時、作者は小金井に住んでいて、国分寺周辺をよく散策していたようで、我々には馴染みの深い場所が随所に出てきます。小説の第1章のタイトルは、「ハケに住む人々」で、中ほどには「恋が窪」という章もあります。小説の時代設定は戦後間もない昭和22,3年頃とのことですから当然かも知れませんが、この小説の中では、国分寺周辺が今では考えられないような武蔵野の自然が残るのどかな田園風景の広がる土地として描かれています。
 小池真理子の作品に「狂王の庭」という長編小説があります。これも国分寺にある大邸宅と庭園を舞台に繰り広げられる恋愛小説です。時代は「武蔵野夫人」より少し後、昭和27年頃になっています。これら小説にあるような情景も都市化とともに大きく変貌してゆきます。昔からこの地域に住んでいる人によると、都市化が急激に進んだのは、昭和40年代中頃からではないかとのことです。
 城山三郎の「毎日が日曜日」という小説があります。商社マンの転勤や定年を書いた小説で昭和50年代のはじめに出版され、当時のベストセラーになっています。この小説に国分寺が登場します。大手商社に勤務する主人公の自宅が、郊外の国分寺市という設定になっています。長い海外勤務を終え東京に戻った主人公が京都支店長に任命され、家族(妻、子供2人)を残して、京都に単身赴任します。東京、大阪に比較すれば、京都での勤務は毎日が日曜日″だなと、口の悪い同僚に皮肉られながら慣れぬ仕事に取り組むことになります。一方、留守宅の国分寺では、長男は小金井の高校に、小学生の長女は高田馬場にある帰国児学校に通学することになりますが、二人とも新しい環境への適応に苦労します。留守宅の設定が国分寺市になったのは、この当時、この地域が都心に通う人たちの代表的な町の一つになっていたということだろうと思います。
 椎名誠の著書に「サラバ国分寺書店のオババ」というエッセイ集があります。これも昭和50年代のはじめに書かれたものです。当時、作者はサラリーマンで小平市の津田町(津田塾大の近所)に住み、国分寺駅を経由して都心に通っていました。毎日利用する国分寺駅、駅前の交番、駅周辺の古本屋、ラーメン屋等での出来事を鋭い観察眼でユーモラスなエッセイにしています。本の題名となっている「サラバ国分寺書店のオババ」はその中の一つです。この古本屋、駅南口にあったそうですが、もちろん現在は残っていません。
 今年のノーベル文学賞はボブ、ディランに決まりました。今年も受賞ならず、多くの村上春樹フアン(ハルキスト)がガッカリしました。同氏は早稲田大学(文学部)在学中に国分寺南口にピーター。キャットというジャズ喫茶をやっていたことがあり、国分寺には縁がある作家です。代表作の一つ「ノルウェイの森」にも国分寺は登場します。主人公のガールフレンドは武蔵野の外れにある女子大に通い、国分寺のアパートで一人暮らしをしている、という設定になっています。
 このように、国分寺は過去いくつかの小説の舞台として登場しています。
 急速に都市化が進む中でも、何となくローカルな所が残る、この町の持つ歴史と雰囲気が小説の舞台になりやすいのかも知れません。
                                            青木 壯司  記

「国分寺市の野鳥」

 国分寺市は、平成26年に市制施行50周年「未来へはばたく年」を記念して国分寺市の鳥として「カワセミ」を制定しました。カワセミは、市内にある都立武蔵国分寺公園の池・姿見の池・日立中央研究所構内の池などで一年中、高い頻度で見ることができます。カワセミ以外に、国分寺市内では50種類くらいの野鳥を観察できることにお気付きでしょうか?
 私が所属する国分寺バードウオッチングクラブ(KBWC,1987年創立,会員数75名)は、2003年より都立武蔵国分寺公園において毎月早朝に野鳥の定期観察を継続しており、また市内・日立中央研究所構内の野鳥観察も定期的に実施しております。この観察で得られたデータに基づき国分寺に生息する野鳥についてお話してみましょう。
 市内のあらゆる場所で常時観察される野鳥は、観察頻度順にならべると、ヒヨドリ,ハシブトガラス,キジバト,シジュウカラ,メジロ,ハクセキレイ,ハシボソガラス,スズメ,ムクドリ,オナガ,ツバメ(夏季)などです。また、武蔵国分寺公園・黒鐘公園・日立中央研究所・市内に残存する樹木が多い所では、コゲラ,エナガ,カワラヒワ,冬季にはツグミ,シメ,モズ,イカル,アオジなども比較的高い確率で観察でき、また、ヤマガラ,アオゲラ,カケス,ジョウビタキ(冬季),シロハラ(冬季),カシラダカ(冬季),キセキレイ,セグロセキレイなども運が良ければ遭遇することができます。 
武蔵国分寺公園・姿見の池・中央研究所内池などの水場では、常時カルガモがおり、マガモ,カワセミ,カイツブリ,コサギ,上空には多摩川あたりから飛来するカワウの姿も確認でき、夏場には、市内の随所でカッコウの声を聞くこともできます。市民プールそばのエックス山、中央研究所構内、史跡通りなどでは肉食系猛禽類のツミを観察でき、上空にはオオタカの姿も垣間見ることができます。ダイサギなども見る機会も高く、姿見の池ではオシドリ・クイナが観察されたこともあります。

(写真:カルガモとオシドリ(姿見の池)2015.12)
 観察記録をたどってみると、国分寺市内の野鳥の種類は減少していませんが、宅地化で林・畑などが減少している影響か、野鳥の観察される頻度と数量は、毎年漸少の傾向にあることがうかがえます。
 野鳥の細かな羽色・雌雄の区別などを観察するには、20~40倍のフィールドスコープが必要となりますが、姿・種類を判別し野鳥の美しさ・かわいらしさを楽しむなら、倍率8倍程度の双眼鏡でも充分です。
 都内でもいまだ武蔵野の面影が残存し、数多くの野鳥が観察できる国分寺の地で、野鳥観察を体験されたらいかがでしょうか? 心豊かなひと時と新たな美の世界が広がるはずです。
(S43年理工学部卒、国分寺稲門会副会長、国分寺バードウオッチングクラブ代表幹事 中山斌雄)

関連サイト:国分寺バードウオッチングクラブ(KBWC)ホームページ
写真集:国分寺市内で観察される主な野鳥の写真

日本の戦闘機がB-29に体当たり。 自宅の裏に墜落

①  B-29への体当たり攻撃
私(島崎幸男)は昭和17年の5月の生まれで、記憶があるのは終戦の昭和20年からです。
昭和20年の春は3歳になる頃で、激しい空襲の記憶です。西町の自宅より西の立川飛行機の工場が赤く燃え上がっている光景を覚えています。 
B-29爆撃機が飛来し、日本は高射砲で反撃しますが1万メートルの上空には届きません。そこで、日本は飛行機で体当たりをしてB-29を落としました。
その体当たりされたB-29が北町の畑に墜落。その途中で現国分寺高校近くの畑に数発の爆弾を落としました。
B-29の消火で私の父が消防団で行きました。「米国の兵隊の弁当はジャガイモとグリンピース。大して良い物を食べてない」との話を後年聞きました。

一方、日本の体当たりした飛行機がひらひらとわが家に向かって落ちてきました。
急いで祖母と防空壕に入りました。しばらくして出て見たら、裏の荒井さんの崖線の上の畑に落ちて燃え上がっていました、ガソリンが燃えて流れ下り物置が燃えてしまいました。
その時、家族の人が麦俵を運び出していました。ちなみに、荒井さんの家は戦国時代よりの家で16代目です。

②  過給機
 後年、B-29は過給機が付いていて空気の少ない上空でも飛べた事を知り、日本は遅れていた事を理解しました。
 戦後、自動車用のターボ(過給機)ではMHI,IHIが世界の主力メーカーになり、更には船や飛行機用に日本で作っています。小さなエンジンで大きな出力をだせるからです。私も就職してジェットエンジンの設計と生産にかかわりましたが、過給機が主力のコンポーネントで航空機や天然ガスの発電機、更には災害時のポンプや電気の動力として使われています。

③  戦後の国分寺市
 戦後の国分寺は、町は国分寺駅の北側のみで殆どが農村でした。麦とサツマイモが主で、秋には俵に入れたサツマイモを道路に並べて宝焼酎のトラックで集めてました。又、各家に戦地より兵隊さんが帰ってくるのを時々見ました。
私の父の弟がシベリヤに抑留されなかなか帰らず、祖母が近くの寺のお地蔵さんにお参りに行くのが日課でした。
 立川の基地より米兵がジープに乗って来て、鳩を鉄砲でとっていました。
弁天通りは一面の草で、リヤカーの轍がわずかに残るだけでした。
                                          (記)島崎幸男

国分寺サロン「世界の紅茶と三大銘茶」を開催(2015年9月20日(日))

第3回国分寺サロン「世界の紅茶と三大銘茶」を開催しました。
9月20日(日)、国分寺市本多公民館に日本紅茶協会より幹部・インストラクターをお呼びし、約50名が参加。
紅茶の歴史、紅茶の作り方、美味しい紅茶の入れ方、世界三大銘茶 などを講義。
そしてお待ちかねのインストラクターによる紅茶を全員で試飲。
一口に紅茶と言っても奥が深く、ためになる2時間半でした。
 

 

国分寺建立と我が「武蔵国分寺」について

掲題について遅ればせながら改めておさらいをしてみましょう。
奈良時代、全国67の各地に国分寺・国分尼寺が建立されました。

 聖武天皇(在位724749)の頃、天災、飢饉が相次ぎ、天然痘が猛威をふるっていました。その終息、日本の独立性、護国、国を鎮めるため、741年に国分寺造営の詔を聖武天皇が発布、寺の正式名は僧寺を金光明四天王護国之寺、尼寺を法華滅罪之寺と定めました。
特に「中央に廬舎那仏(大日如来)、右に薬師如来、左に千手観音」が鎮座し、この「三仏」を配すること、また「七重塔を持つ寺(国分寺)は「国の華」であり、必ず良い場所を選んで、まことに長く久しく保つようにしなければならない」と命じていました。
七重の塔には紫紙金字金光明最勝王経を納入する事としました。  
東大寺は、金光明四天王護国之寺、大華厳寺、恒説華厳寺ともよばれ、全国67ヶ寺の総国分寺としての役割も持っていました。
 東大寺という名は、平城京の「大寺(おおでら)」という意味であり、天皇の勅願寺という性格をもつ国立の寺院でありました。
武蔵国分寺の建設が始まったのは、737741(天平913)年の間と考えられ、20年弱の歳月をかけてようやく完成しました。敷地は東西8町、南北5町半と推測され(東大寺は東西南北各8町)、各地の国分寺の中でも相当大規模なものでした。金堂、講堂、中門、七重の塔で構成されていました。
昨今、ここ武蔵国分寺や東大寺では七重塔の再建が話題に上っているようで、これが実現すると魅力的な観光の目玉になるでしょう。
 一方、総国分尼寺の法華寺は「法華滅罪之寺」と呼ばれた大寺で、東大寺並みに「造法華寺司」と云う役所まで組織して造営された総国分尼寺としての風格を備えた大規模な寺院でした。
 法華寺が誕生した経緯は、藤原氏の権勢を高め磐石にする目的で不比等の邸宅を後娘の「光明子・光明皇后」が引き継いで皇后宮となり、その皇后宮が宮寺、大和の国分尼寺、法華寺と変遷していったのです。尼寺である法華寺の寺名の由来は、女人成仏を説く「法華経」から取り入れられたのでしょう。法華経といえば大乗仏教の基本的な経典で、「聖徳太子」、「最澄」、「日蓮」が重要な経として崇拝されました。
武蔵国分尼寺は跡地の発掘が進んでいますが、未伽藍の配置は不明で中門、金堂、尼房、跡などが判ってきたが、鐘楼、経堂、南大門などの位置は判っていなく今後の発掘を待ちたいと思います。
尚近隣地域では相模国分寺は海老名市・甲斐は笛吹市・安房は館山市・常陸は石岡市、に夫々国分寺遺跡があります。
                             (引用「東大寺」などより)   清水元(記)

第7回 「セイロン紅茶と日本の紅茶産業小史」

1.「セイロン紅茶の誕生・コーヒーから紅茶へ」

ご承知の通り「セイロン紅茶」は日本の紅茶輸入の50%~67%(最大時)と、永く良質紅茶のスタンダードとして日本人に愛飲されている紅茶です。スリランカは15世紀以降ポルトガル・オランダ・イギリスの植民地支配を受け1948年に独立しました。経済的には永年、ココナッツ・天然ゴムなどの一次産品の生産・輸出に依存してきました。1978年国名は「スリランカ共和国」になりましが、紅茶は国際的にも「セイロン紅茶」と呼称して世界の紅茶産業をリードしています。
「コーヒーと紅茶」は共に薬用から始まり、ヨーロッパへは1650年オックスフォード、翌年ロンドンに開店したコーヒーハウスを通じて広まりました。その後、砂糖やミルクを入れることで世界的な飲料として普及した点が共通しています。
17世紀からのオランダ・イギリスの両東インド会社の競合関係の中で、お茶は「イギリス東インド会社」がオランダを抑え優位に展開しており、一方コーヒーに関してはオランダがインドネシアのジャワ島でのプランテーションの成功で優位でした。オランダは当時の植民地セイロンへもコーヒー栽培を紹介(既にポルトガル人が16世紀初めにコーヒー持ち込んでいた経緯があります)しましたが着手しませんでした。
19世紀セイロンでは、コーヒーはシナモンなどの香辛料と並び海外の投資品目として注目されており、1820年代にジャフナでの綿花やココナツ・ネゴンボ・ゴールなどでのシナモンのプランテーションが既に始まっていました。これら生産物はコーヒーに比較して栽培規模や効率などで見劣りすることから陰りを見せていました。「コーヒー」は初めて1690年オランダ人により紹介されました。1796年にはイギリスの植民地になりましたが1825年までは着手しなかったようです。20年後の1845年に本格的に栽培が始まり、1857年には80,950エーカーに達し、その後急速に発展して行き世界最大のコーヒー産地となり経済を潤して行きました。しかし乍ら繁栄を極めたコーヒー産業も世界のコーヒー史上最大の事件である「サビ病(枯凋病・コーヒーの樹の葉が枯れ落ちる)」が1869年にバドゥラのコーヒー農園で発見され、翌年全島に拡がって187セイロン:ウバ、ハイランズ.jpg9年に最悪の状態となり、そのうちにコーヒー産業は滅びました(現在では銅の殺虫剤が有効であることが判っている)。この事件が起こり、コーヒープランター達はコーヒーに代わる栽培植物を探し、カカオ樹やシンコナなどの栽培・試作をしながら、やがて1867年より紅茶栽培が始まり、本格的な転換をして行くことになります。

 2.「ジェームス・テーラー」 「トーマス・J・リプトン」 について

当時スコットランド人のジェームス・テーラーはコーヒー農園で働く傍ら、茶の栽培と製茶に格別の関心を持ち、研究していました。彼は1867年に初めてテスト茶園をプッセラワの東ヘワヘタのルーラコンデラ(Loolcondeella)に開設して紅茶の栽培に関し試行錯誤を続けながら、試作に努めていました。漸く1872年にはルーラコンデラ茶のセイロン紅茶が初めて取引されました。1887年には、彼によりセイロンで初めて採算の取れる商業的規模の茶園がデルト―タ(Deltota)地区に拡張されました。
1880年代は茶の栽培が国の最優先経済課題であったことから、インドアッサムの成功者達からの協力なども得て徐々に成果を上げて行きました。一方ロンドンの茶商達からはアッサムや中国紅茶とは異なる固有のフレーバーが評価されて、プランター達は栽培面積を増やし紅茶事業は更に前進し、産業として大発展して行くことに成ります。
この成功要因としてセイロン特有の天候である南西・北東モンスーンや、東部・中部の地形と特徴ある土壌などが良品質の紅茶栽培に大きな貢献したことも見逃せません。
加えて道路や鉄道・港湾設備の改善もあり、かつてのコーヒー農園が茶園に生まれ変って発展し、今日では世界の紅茶産業をリードする存在になった訳です。
トーマス・J・リプトンはスコットランドの港町グラスゴーの食料品店の息子として生まれ、少年時代にアメリカに渡り広告・宣伝・販売技術を修得して帰国しました。丁度1890年代のイギリスでは急速に紅茶を飲む習慣が広まり、紅茶ブームに湧いていました。彼は茶商達が莫大な利益を享受しているのをみて、薄利多売の考え方で広告宣伝に注力し、良品質紅茶の供給など顧客満足度を更に高めました。また、正確な秤量と品質・鮮度保証を周知する為、それまでの量り売りから包装紅茶販売に変更しました。更に各都市の水質に合ったブレンド紅茶を考案するなどで、一躍進リプトン紅茶の人気は高まりました。やがて彼は自己の茶園での生産と良品質で安価なお茶を大量に供給することを目指して「茶園からティーポット」のスローガンを引っさげて1890年にセイロンに渡りました。
早速コロンボにオフィスを開設し、茶の樹の栽培に適した高地にある優良農地を買収し、広大な茶園を開拓して製茶工場の建設をすすめて17の紅茶のプランテーション経営に乗り出しました。そして、本格的にセイロン紅茶をイギリスはもとよりアメリカや他諸国に売り込み、広く一般大衆の日常飲料に定着させて「世界の紅茶王」と称せられるようになりました。
ジェームス・テラーとトーマス・J・リプトンの両名はともにスコットランド出身であり、夫々「セイロン紅茶の生みの親」「セイロン紅茶の育ての親」 と称されています。

3.「日本の紅茶産業の生い立ち」について

ご承知の通り、お茶と人の関わりについては大変古く、伝説によれば紀元前2780年頃の中国の「神農」に遡ります。商品としての茶を飲用するようになるのは比較的新しく4,5世紀頃と思われています。日本に関しては、自生の茶が存在したと言う説もありますが、平安時代に中国留学僧がもたらし、鎌倉時代に禅僧栄西が茶の種子を持ち帰り本格的な茶の製造法などを伝えたと言われています。しかしこれらお茶の歴史は緑茶の歴史であり、紅茶については江戸末期・明治以降になります。世界に目を向けると、17世紀にオランダ・イギリスの両東インド会社がお茶を中国からヨーロッパへ広めました。その後、栽培方法や規模・製法などの進化に伴い徐々に今日の紅茶が誕生し、そして全世界に普及拡大していった訳です。
国内の紅茶に関する主な出来事は、1856年に下田に来航した米国使節(ハリス)が江戸幕府に30kgを手土産に献上し、1887年にはバラ茶80kgを輸入し、主に鹿鳴館で使用された。1906年には初の外国銘柄紅茶としてリプトン紅茶が輸入され、1917年には「日本紅茶㈱」が設立されて紅茶を生産・輸出し、1927年には国産銘柄紅茶第一号「日東紅茶」が誕生しました。
遡ってみると、実は政府は明治初期に紅茶が生糸と並び世界の需要が多いことに着目し、日本においても紅茶を輸出しようと未知の紅茶生産に関して種々の施策を講じ輸出に努めていたのです。それを追ってみると、1874年に「紅茶製法書」を作成して府県に布達、1875年には中国から2名の紅茶製造技術者を招き、「紅茶伝習所」を設けて中国式紅茶製法を試製・伝習させ、さらに1876年には多田元吉他2名をインド等に派遣して、著名産地に赴き、紅茶や磚茶の製造方法や栽培方法を視察し、加えて製茶機械や良種の茶種子を購入して帰国しました。1877年には「紅茶製造伝習規則」を発布してインド式紅茶製法を伝習・試製紅茶による海外品評調査を実施しました。その結果、緑茶の生産・輸出に比べれば僅かな数量ではありましたが、国産紅茶の生産量は増加し、当時の農商務省によれば1880年210トン、1882年150トン、あと1895年までに計1,259トンと記録されています。
其の後は国産紅茶の生産は品質問題などでしばらく停滞しましたが、戦後1947年には「国産品種紅茶産業化」事業として30年間研究されてきた「国産優良品種」べにほまれ・はつもみじ・べにかおりなどの国産品種紅茶の育苗・生産の拡大と輸出促進に努めました。その間、1954年の紅茶生産量は7,210トン、輸出は5,568トンを記録したものの、品質・コスト高・国際情勢の変化などのハンデにより国産紅茶の生産は翌年1955年の8,521トンをピークに、1970年には殆んど無くなり、ついに1971年に「紅茶輸入自由化」が行われました。国産紅茶生産終焉の主な要因はコストと品質で、半面需要は1961年(昭和36)年に西独製ティーバッグ自動包装機械「コンスタンタ」が輸入により、ティーバッグの生産・消費が急拡大して行きました。ティーバッグの登場で、紅茶の需要は2,000トンから7,000トンに急速に増加し、又包装紅茶の中に占めるティーバッグの割合が1963の4%から輸入自由化の1971年には45%に増大。1976年に66%となり、その後生活様式の欧米化などで今では約75%に拡大して消費構造は大きく変化して行きました。
自由化前後輸入量は16,000トンから19,000と増加、また紅茶=イギリスのイメージから、輸入先もスリランカ・インド・ケニア・インドネシアに拡大、需要は缶入包装茶・TBに加え紅茶ドリンク・フレーバーティー・インスタントティーなど製品のバラエティ化も進み、健康志向面からもマーケットは活性化しています。
世界のお茶生産量490万トン(内緑茶155万トン)、換算するとざっと紅茶は一日40億杯、緑茶15億杯、コーヒー19億杯になり、世界で一番飲まれている飲料,一番普及している飲料は「紅茶」と云うことになります。
                             (記) 清水 元(前日本紅茶協会 専務理事)

 

鎌倉街道と東山道武蔵路

1、東山道について

東山道は「律令時代に皇居が置かれた五畿内と諸国の国府を結ぶ幹線道路」であり、中路とされたのは近江・美濃・信濃・上野・下野・陸奥の各国国府を通る道であった。30里ごとに駅馬10匹を備えた駅家が置かれていた。陸奥国府・多賀城より北は小路。
奈良時代になり、東山道の枝道として「東山道武蔵路」が設けられた。これは上野国より武蔵国府(現・府中市)に至る道で、武蔵国は、東京湾岸の令制国の中で唯一、東山道に属していた。他の東京湾岸の国や甲斐、駿河、伊豆等は東海道に属していたが、その後相模国から武蔵国を経由して下総国に抜ける陸路が開かれたため、武蔵国は東海道に入れ替わった。当時は大河川に橋を架ける技術は未発達で、渡河困難な大河が続く東海道よりも東山道の方がむしろ安全と考えられていた。
江戸時代になると、江戸を中心とする五街道が整備され、幹線道路としての東山道は、中山道・日光街道・奥州街道などに再編された。泉町1丁目一帯には約340mの直線道路跡が発掘され、側道跡や道路幅をアスファルト上に「東山道武蔵路跡」と表記(下左の写真)されており、また平成18年には南延長上に道路跡、住居跡、祭祀の痕跡がみつかり(下右の写真)歴史公園として解放されておりその広大さなど実感できる。 

 2、鎌倉街道について

古道としての鎌倉街道は、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網である。
鎌倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道で、鎌倉時代の関東近郊の主要道である。その呼び名が一般的に用いられるようになったのは江戸時代以降で、吾妻鏡や諸文献に「鎌倉街道」の呼び名は見られず、江戸時代の書物である新編武蔵風土記や江戸名所図会などに「鎌倉街道」が散見されている。
府中街道、都道18号府中町田線(下の写真)は通称「鎌倉街道」である。

 
余談ながら能の「鉢の木」(観阿弥・世阿弥作ともいわれるが作者不詳)は武士道を讃えるものとして江戸時代に特に好まれ、「いざ鎌倉」の語源となった。また「質素だが精一杯のもてなし」ということでこの名を冠した飲食店、菓子店(阿佐ヶ谷)などもある。内容は佐野に住む貧しい老武士、佐野源左衛門尉常世の家に、ある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を求める。常世は粟飯を出し、薪がないからといって大事にしていた鉢植えの木を切って焚き、精一杯のもてなしをする。常世は僧を相手に「一族の横領により落ちぶれてはいるが、一旦緩急あらば痩せ馬に鞭を打ちいち早く鎌倉に駆け付け、命懸けで戦う所存である」と語る。その後鎌倉から召集があり、常世も駆け付けるが、あの僧は実は前執権・北条時頼だった ことを知る。時頼は常世に礼を言い、言葉に偽りがなかったのを誉めて恩賞を与える。(Wikipedia)
                                          (記)清水元

「国分寺市の鳥」とマンホール

「市の鳥」をご存知でしょうか?
国分寺市は、市制施行50周年「未来へはばたく年」を記念して2014年11月3日に市の鳥として「カワセミ」を制定しました。
カワセミは「飛ぶ宝石箱」 といわれる美しい野鳥で、市内では武蔵国分寺公園池・姿見の池などで頻繁に観察されます。小枝にとまり、狙いをさだめて魚・エビなどを一気に急降下して捕らえます。空中でのホバリングも得意です。
国分寺市では「カワセミを図案化したマンホール蓋」を市内に設置しています。現在、姿見の池、市役所周辺で見ることができます。
ちなみに、市の木は「けやき」、市の花は「さつき」。
国分寺市は「爽やかなケヤキの葉音が聞こえ、サツキの花が咲きほこる小道の先に、カワセミが住む池がある」というイメージでしょうか。

    武蔵国分寺公園 カワセミ   市役所前のマンホール(左の写真を図案化したもの)
  (写真:国分寺バードウオッチングクラブ 国竹  正之氏 撮影)

                      (記)中山斌雄(国分寺稲門会幹事、国分寺バードウオッチングクラブ会長)