お茶・紅茶の始まり(概観)

お茶・紅茶の始まり(概観)
                 清水元(記)

 1.お茶の始まり

 茶樹は永年性常緑樹で椿の仲間(学名カメリア・シネンシス)です。原産地は中国雲南省西南部の山間地域と言われています。後に18世紀にこの中国種とは異なる茶樹・アッサム種が北東インド・アッサムで自生しているのが発見されました。
 お茶と人の関わりについては諸説ありますが、人類の喫茶の歴史は大変古く、伝説によれば紀元前2734年頃の中国の農業の神、薬草の神(解毒と飲み水の浄化)、火の神となった創造上の神「神農」に遡り、およそ4800年前になります。
 伝説はさておいて、茶に関する記録としては周代・紀元前160年頃に発掘された木簡の埋蔵品リストに「茶」を意味する「價」の文字が記載されています。このことから前漢の頃には既に茶が利用されていたと思われます。製品としての茶、即ち茶の葉を鍋や釜の湯で煮てその抽出液(浸透液)を飲用するBoiling法と容器の上から湯を注ぐ・Brewing法で茶液を飲むようになるのは比較的新しく4世紀以降と思われています。
 唐の時代には茶は塩と共に交換経済社会の最古・最大の担い手になり、茶の「貯蔵、保管、流通」は様々工夫され、形状は「団子や餅茶」に、蒸してから乾燥した「散茶」にと変化してゆきました。唐の中期になると茶は中国国内各地に拡大し、いわゆる「煮茶(釜の中で箸を使って点てる)」で飲む風習が広まり、次第に漢族により東へ、南へと広がり、チベット、モンゴル、シベリア、中央アジア、アラブ、北アフリカ、ヨーロッパへと拡大してゆきます。16世紀以降には「ウーロン茶の原型」、18世紀頃からは酸化発酵度のより強い「紅茶の原型」へと発展してゆきます。19世紀になりインド、スリランカで本格的な「英帝国紅茶」が誕生し、中国からの茶に代わり「紅茶」が伝播され、現在では茶の総生産量の70%を占めるようになり、アルコールを除く嗜好飲料の中で世界で一番多く飲まれている飲料となりました。概算ではティーバッグ換算で一人毎日1杯以上です。

 日本に関しては、自生のヤマ茶が存在したと言う説もありますが、茶が最初に伝えられたのは聖徳太子が摂政となった593年頃で、仏教文化の伝来と一緒です。次いで729年に聖武天皇が皇居の庭に多数の僧侶を集めて「般若経」を講じさせ、翌日中国伝来のお茶を彼らに与えたと記録されています。平安時代の800年代には最澄や空海が中国から茶の種子を持ち帰ったと伝えられています。また鎌倉時代の禅僧栄西が中国より茶の種子を持ち帰り本格的な茶の製造法なども伝えたと言われております。これらお茶の歴史は緑茶の歴史であり、紅茶については主に明治以降になります。

2.紅茶の始まり

 同じ茶の樹の生葉を使って緑茶、紅茶、ウーロン茶を自由に作ることが出来ます。製茶方法の違いから、紅茶(発酵茶)、緑茶(不発酵茶)、ウーロン茶(半発酵茶)になります。
紅茶は緑茶から発展・変化してゆく中で、18世紀後半中国福建省でウーロン茶(武夷茶)の製法をさらに進化(強く発酵)させた工夫(コングー)茶が登場します、これが紅茶の源泉になります。
 16世紀の大航海時代、主役がポルトガルからオランダ、イギリスへと交替する中で、400年前に東洋の茶と喫茶の文化がポルトガルによってヨーロッパに伝えられたが、商業的な関心度は低かったようです。1600年初めにイギリス東インド会社とオランダ東インド会社が相次いで設立され、中国のお茶はまずオランダ東インド会社が自国に持ち帰り、上流社会で愛好され流行しました。イギリスはオランダ、フランスとのコーヒー貿易や生産(オランダはインドネシア、セイロンでコーヒーのプランテーション、フランスは同西インド諸島で)の主導権争に敗れたため、中国茶貿易を主体に国内での喫茶の普及に格別の配慮を試みました。紅茶普及策の優位点として、コーヒーは豆の選別、焙煎、淹れ方など一般家庭では扱い難いが「茶」は比較的簡単に淹れられることに加え普及を推進したものに「ティーガーデンズ(喫茶園」」と「コーヒーハウス」の展開があります。「コーヒーハウス」は1650年代にオックスフォードと次いでロンドンに開店、茶の流行の拠点として繁栄し、国内の出店が加速され、拡大しました。その後イギリスは西インド諸島での砂糖のプランテーションに成功、続いてインド、セイロン、ケニアなど茶の生産地を開拓し、プランテーションを展開し、併せて栽培方法や製法などを進化させ、中国茶一辺倒の供給から脱皮しました。徐々に今日の紅茶が誕生し、そして全世界に普及拡大してゆき

ました。蛇足ながら中国からの茶の運搬にはティークリッパー(快速茶運搬船、有名なカティサーク等)の時代を経て海運大国にもなりました。

 

3.日本での紅茶

 日本人として初めて紅茶を飲んだのは大黒屋光太夫で1791年10月、ロシア・サンクト・ペテルブルクで女帝エカテリーナⅡに謁見、お茶会に招かれ、西欧風の本格的なミルクティーを飲んだのとのことです。帰国の際には紅茶を手土産に持参したとの記録もあります。日本紅茶協会はこの史実に基づき、1983年に11月1日を「紅茶の日」に定めています。

 さて、日本への紅茶の登場は1856年ハリスが下田来航時に献上品として30kgを持参したことに始まります。1887年にはバラ茶80kgが輸入され、「鹿鳴館」などで使用されました。製品としては初めて明治屋によって1907年にリプトンの黄缶、青缶が輸入され発売されました。

 他方、明治政府は勧業政策として・即ち絹と紅茶の輸出を推進することで、外貨獲得を目指して大変活発な事業展開をしました。特に紅茶は1874年に「紅茶製法書」を作成して府県に布達、中国から2名の紅茶製造技術者を招いて「紅茶伝習所」を設けて中国式紅茶製法を試製しました。また1877年にはインド式紅茶製法を伝習させました。

 国産紅茶の生産量は農商務省によれば1880年~1895年までに計1,259tトンが記録されています。その後1937年には4655t、1955年には8,625tを生産しましたが、国産紅茶産業は、品質問題、コスト上昇、相対的な価格、為替問題などで徐々に衰退し、緑茶生産の方が有利となり、1971年外国産紅茶輸入自由化になりました。

    (以上)

 


 

「紅茶の日、11月1日」に関わる物語

 1年365日には○○の日と言うのがたくさんあります。皆さんが良く知っている語呂合わせでは、砂糖の日(3/10)、救急の日(9/9)、豆腐の日(10/2)、虫歯予防デイ(6/4)、などがあります。一方その謂れからは、時の記念日(6/10)、防災の日(9/1)などがあります。最近では11月12日は「いい皮膚の日」、11月26日は「いい風呂の日」、11月22日は「いい夫婦の日」等とアイデァ豊富です。

 さて、「紅茶の日」ですが、11月1日になります。これは1983年に日本紅茶協会が定めた記念日で、謂れにはストリーが有ります。
1782年(天明2年)12月、大黒屋 光太夫・伊勢国白子(鈴鹿市)の船頭一行12名は、紀州藩のお米などを積み江戸へ向かう途中で嵐のため回船が漂流。アリューシャン列島(ロシア領アラスカの一部)のアムチトカ島に漂着。そこで暮らす中で光太夫らはロシア語を習得し、4年後(1787年)に女帝エカテリーナⅡ世に帰国の許可を得るためにシベリアを横断。当時のロシアの首都サンクト・ペテルブルクまで過酷な生活・冒険をしました。ありあわせの材料で造った船でカムチャツカ、オホーツク、ヤクーツクを経由して1789年(寛政元年)イルクーツクに到着。道中、カムチャツカでジャン・レセップス(フランス人探検家・スエズ運河を開削したフェルディナン・ド・レセップスの叔父)に会い、後にレセップスが著した旅行記には光太夫についての記述があります。イルクーツクでは日本に興味を抱いていた博物学者キリル・ラクスマンと出会い、キリルを始めとする協力者に恵まれ、1791年(寛政3年)キリルに随行して彼等の尽力によりサンクト・ペテルブルクに到着しました。

 そして当時ロシアの上流社会に普及しつつあったお茶会に招かれる幸運にも恵まれました。とりわけ1791年11月には女帝エカテリーナⅡ世に接見の栄に浴し、茶会にも招かれ初めて外国での正式の茶会で紅茶を飲んだ最初の日本人して、この日が定められました。
 光太夫一行は漂流から約9年半後の1792年(寛政4年)根室へ上陸、紅茶など貴重品を持参し帰国を果たしました。白子出港時は15人でしたが、磯吉、小市と3人の帰国でした。なお小市はこの地で死亡したために、残る2人が江戸へ送られました。

 他に有名な漂流・冒険物語はジョン万次郎がいます。彼は高知県土佐清水市中浜の出身で、1841年に嵐で漂流。伊豆諸島の鳥島で米国捕鯨船に救助されて米国本土に渡り、成長して1852年に故郷に帰国しました。その後幕府に招聘されての大活躍は良く知られている通りです。

 なお大黒屋 光太夫の漂流記・冒険記は桂川甫周の『北槎聞略に資料として残されており、また井上靖は「おろしや国粋夢譚」を著し、緒方拳の主役で映画化されています。

(記)清水 元

 

国分寺サロン「世界の紅茶と三大銘茶」を開催(2015年9月20日(日))

第3回国分寺サロン「世界の紅茶と三大銘茶」を開催しました。
9月20日(日)、国分寺市本多公民館に日本紅茶協会より幹部・インストラクターをお呼びし、約50名が参加。
紅茶の歴史、紅茶の作り方、美味しい紅茶の入れ方、世界三大銘茶 などを講義。
そしてお待ちかねのインストラクターによる紅茶を全員で試飲。
一口に紅茶と言っても奥が深く、ためになる2時間半でした。
 

 

第7回 「セイロン紅茶と日本の紅茶産業小史」

1.「セイロン紅茶の誕生・コーヒーから紅茶へ」

ご承知の通り「セイロン紅茶」は日本の紅茶輸入の50%~67%(最大時)と、永く良質紅茶のスタンダードとして日本人に愛飲されている紅茶です。スリランカは15世紀以降ポルトガル・オランダ・イギリスの植民地支配を受け1948年に独立しました。経済的には永年、ココナッツ・天然ゴムなどの一次産品の生産・輸出に依存してきました。1978年国名は「スリランカ共和国」になりましが、紅茶は国際的にも「セイロン紅茶」と呼称して世界の紅茶産業をリードしています。
「コーヒーと紅茶」は共に薬用から始まり、ヨーロッパへは1650年オックスフォード、翌年ロンドンに開店したコーヒーハウスを通じて広まりました。その後、砂糖やミルクを入れることで世界的な飲料として普及した点が共通しています。
17世紀からのオランダ・イギリスの両東インド会社の競合関係の中で、お茶は「イギリス東インド会社」がオランダを抑え優位に展開しており、一方コーヒーに関してはオランダがインドネシアのジャワ島でのプランテーションの成功で優位でした。オランダは当時の植民地セイロンへもコーヒー栽培を紹介(既にポルトガル人が16世紀初めにコーヒー持ち込んでいた経緯があります)しましたが着手しませんでした。
19世紀セイロンでは、コーヒーはシナモンなどの香辛料と並び海外の投資品目として注目されており、1820年代にジャフナでの綿花やココナツ・ネゴンボ・ゴールなどでのシナモンのプランテーションが既に始まっていました。これら生産物はコーヒーに比較して栽培規模や効率などで見劣りすることから陰りを見せていました。「コーヒー」は初めて1690年オランダ人により紹介されました。1796年にはイギリスの植民地になりましたが1825年までは着手しなかったようです。20年後の1845年に本格的に栽培が始まり、1857年には80,950エーカーに達し、その後急速に発展して行き世界最大のコーヒー産地となり経済を潤して行きました。しかし乍ら繁栄を極めたコーヒー産業も世界のコーヒー史上最大の事件である「サビ病(枯凋病・コーヒーの樹の葉が枯れ落ちる)」が1869年にバドゥラのコーヒー農園で発見され、翌年全島に拡がって187セイロン:ウバ、ハイランズ.jpg9年に最悪の状態となり、そのうちにコーヒー産業は滅びました(現在では銅の殺虫剤が有効であることが判っている)。この事件が起こり、コーヒープランター達はコーヒーに代わる栽培植物を探し、カカオ樹やシンコナなどの栽培・試作をしながら、やがて1867年より紅茶栽培が始まり、本格的な転換をして行くことになります。

 2.「ジェームス・テーラー」 「トーマス・J・リプトン」 について

当時スコットランド人のジェームス・テーラーはコーヒー農園で働く傍ら、茶の栽培と製茶に格別の関心を持ち、研究していました。彼は1867年に初めてテスト茶園をプッセラワの東ヘワヘタのルーラコンデラ(Loolcondeella)に開設して紅茶の栽培に関し試行錯誤を続けながら、試作に努めていました。漸く1872年にはルーラコンデラ茶のセイロン紅茶が初めて取引されました。1887年には、彼によりセイロンで初めて採算の取れる商業的規模の茶園がデルト―タ(Deltota)地区に拡張されました。
1880年代は茶の栽培が国の最優先経済課題であったことから、インドアッサムの成功者達からの協力なども得て徐々に成果を上げて行きました。一方ロンドンの茶商達からはアッサムや中国紅茶とは異なる固有のフレーバーが評価されて、プランター達は栽培面積を増やし紅茶事業は更に前進し、産業として大発展して行くことに成ります。
この成功要因としてセイロン特有の天候である南西・北東モンスーンや、東部・中部の地形と特徴ある土壌などが良品質の紅茶栽培に大きな貢献したことも見逃せません。
加えて道路や鉄道・港湾設備の改善もあり、かつてのコーヒー農園が茶園に生まれ変って発展し、今日では世界の紅茶産業をリードする存在になった訳です。
トーマス・J・リプトンはスコットランドの港町グラスゴーの食料品店の息子として生まれ、少年時代にアメリカに渡り広告・宣伝・販売技術を修得して帰国しました。丁度1890年代のイギリスでは急速に紅茶を飲む習慣が広まり、紅茶ブームに湧いていました。彼は茶商達が莫大な利益を享受しているのをみて、薄利多売の考え方で広告宣伝に注力し、良品質紅茶の供給など顧客満足度を更に高めました。また、正確な秤量と品質・鮮度保証を周知する為、それまでの量り売りから包装紅茶販売に変更しました。更に各都市の水質に合ったブレンド紅茶を考案するなどで、一躍進リプトン紅茶の人気は高まりました。やがて彼は自己の茶園での生産と良品質で安価なお茶を大量に供給することを目指して「茶園からティーポット」のスローガンを引っさげて1890年にセイロンに渡りました。
早速コロンボにオフィスを開設し、茶の樹の栽培に適した高地にある優良農地を買収し、広大な茶園を開拓して製茶工場の建設をすすめて17の紅茶のプランテーション経営に乗り出しました。そして、本格的にセイロン紅茶をイギリスはもとよりアメリカや他諸国に売り込み、広く一般大衆の日常飲料に定着させて「世界の紅茶王」と称せられるようになりました。
ジェームス・テラーとトーマス・J・リプトンの両名はともにスコットランド出身であり、夫々「セイロン紅茶の生みの親」「セイロン紅茶の育ての親」 と称されています。

3.「日本の紅茶産業の生い立ち」について

ご承知の通り、お茶と人の関わりについては大変古く、伝説によれば紀元前2780年頃の中国の「神農」に遡ります。商品としての茶を飲用するようになるのは比較的新しく4,5世紀頃と思われています。日本に関しては、自生の茶が存在したと言う説もありますが、平安時代に中国留学僧がもたらし、鎌倉時代に禅僧栄西が茶の種子を持ち帰り本格的な茶の製造法などを伝えたと言われています。しかしこれらお茶の歴史は緑茶の歴史であり、紅茶については江戸末期・明治以降になります。世界に目を向けると、17世紀にオランダ・イギリスの両東インド会社がお茶を中国からヨーロッパへ広めました。その後、栽培方法や規模・製法などの進化に伴い徐々に今日の紅茶が誕生し、そして全世界に普及拡大していった訳です。
国内の紅茶に関する主な出来事は、1856年に下田に来航した米国使節(ハリス)が江戸幕府に30kgを手土産に献上し、1887年にはバラ茶80kgを輸入し、主に鹿鳴館で使用された。1906年には初の外国銘柄紅茶としてリプトン紅茶が輸入され、1917年には「日本紅茶㈱」が設立されて紅茶を生産・輸出し、1927年には国産銘柄紅茶第一号「日東紅茶」が誕生しました。
遡ってみると、実は政府は明治初期に紅茶が生糸と並び世界の需要が多いことに着目し、日本においても紅茶を輸出しようと未知の紅茶生産に関して種々の施策を講じ輸出に努めていたのです。それを追ってみると、1874年に「紅茶製法書」を作成して府県に布達、1875年には中国から2名の紅茶製造技術者を招き、「紅茶伝習所」を設けて中国式紅茶製法を試製・伝習させ、さらに1876年には多田元吉他2名をインド等に派遣して、著名産地に赴き、紅茶や磚茶の製造方法や栽培方法を視察し、加えて製茶機械や良種の茶種子を購入して帰国しました。1877年には「紅茶製造伝習規則」を発布してインド式紅茶製法を伝習・試製紅茶による海外品評調査を実施しました。その結果、緑茶の生産・輸出に比べれば僅かな数量ではありましたが、国産紅茶の生産量は増加し、当時の農商務省によれば1880年210トン、1882年150トン、あと1895年までに計1,259トンと記録されています。
其の後は国産紅茶の生産は品質問題などでしばらく停滞しましたが、戦後1947年には「国産品種紅茶産業化」事業として30年間研究されてきた「国産優良品種」べにほまれ・はつもみじ・べにかおりなどの国産品種紅茶の育苗・生産の拡大と輸出促進に努めました。その間、1954年の紅茶生産量は7,210トン、輸出は5,568トンを記録したものの、品質・コスト高・国際情勢の変化などのハンデにより国産紅茶の生産は翌年1955年の8,521トンをピークに、1970年には殆んど無くなり、ついに1971年に「紅茶輸入自由化」が行われました。国産紅茶生産終焉の主な要因はコストと品質で、半面需要は1961年(昭和36)年に西独製ティーバッグ自動包装機械「コンスタンタ」が輸入により、ティーバッグの生産・消費が急拡大して行きました。ティーバッグの登場で、紅茶の需要は2,000トンから7,000トンに急速に増加し、又包装紅茶の中に占めるティーバッグの割合が1963の4%から輸入自由化の1971年には45%に増大。1976年に66%となり、その後生活様式の欧米化などで今では約75%に拡大して消費構造は大きく変化して行きました。
自由化前後輸入量は16,000トンから19,000と増加、また紅茶=イギリスのイメージから、輸入先もスリランカ・インド・ケニア・インドネシアに拡大、需要は缶入包装茶・TBに加え紅茶ドリンク・フレーバーティー・インスタントティーなど製品のバラエティ化も進み、健康志向面からもマーケットは活性化しています。
世界のお茶生産量490万トン(内緑茶155万トン)、換算するとざっと紅茶は一日40億杯、緑茶15億杯、コーヒー19億杯になり、世界で一番飲まれている飲料,一番普及している飲料は「紅茶」と云うことになります。
                             (記) 清水 元(前日本紅茶協会 専務理事)

 

第6回 「世界三大嗜好飲料とその普及について」

1、はじめに

紅茶・コーヒー・ココアの三大嗜好飲料は、カフェインを含有している事が共通点です。 お酒・たばこを入れて5大嗜好品と言われています。

世界統計では、お茶はここ5年間で40%upと消費量が大幅に増大しています。お茶の健康面での効能が認められ、またコミュニケーションツール、寛ぎシーンに合う飲料として高く評価されている為だと思います。
お茶の原産国は中国です(19世紀初めにインドでアッサム種が発見)、コーヒーはエチオピアが原産、ココアはメキシコが原産です。
需要の流れ・変遷は下記の通り、
①     コーヒー:中南米生産されEUで58%,アメリカで30%消費、
②     ココア: アフリカで生産され、主として、オランダ中心にヨーロッパで60%消費、
③     お茶: 紅茶、緑茶に分けなければなりませんが、紅茶はインド・スリランカ・ケニア・インドネシアで生産され、ヨーロッパ・中東・アジアで消費。緑茶は中国・日本・台湾で生産され、主に中国・日本で飲まれています。
はからずも17世紀に、茶・コーヒー・ココアの3大嗜好飲料がヨーロュパに伝わり、ココアは南米からスペイン経由で、コーヒーはアラビアからトルコを経て、紅茶はオランダ人がヨーロッパへ、イギリス人の手で世界各国に広まりました。

2、砂糖と紅茶について

両者とも当時は一般の人々にはあまりにも高価で、上流の市民や貴族のものでしかありませんでした。17世紀の初め頃、砂糖も茶も薬屋で扱われる貴重な「薬品」でした。紅茶に砂糖をいれれば二重の効果が期待できるわけで、茶や砂糖は、貴族やジェントルマンといった高貴な身分の人々には文句なしの「ステイタス・シンボル」になったのです。多分その頃にロンドンを中心に普及したコーヒー・ハウスでは、紅茶に砂糖が入れられるようになったと思われます。
この時代にはアジアやアメリカ、アフリカなどの珍しい商品が輸入されはじめましたから、貴族やジェントルマン、豊かな人達は競ってこうした「舶来品」を買っていたのです。特にアジアやアメリカから来たものは高価だっただけに何でも「ステイタス・シンボル」になりやすかったのです。茶や砂糖はその典型でした。タバコでさえはじめは上流階級のシンボルとして利用されたくらいです。今日では砂糖はお茶やコーヒーには欠かせない必需品になりましたが、この時代、お茶・コーヒーの普及に比例して、砂糖の輸入増大が急務になり、亜熱帯の国・島では競って「さとうキビの栽培」が始まることのなります。
砂糖の原産地はインドですが、地中海・中央アジアのルートに加え、ポルトガル・スペインの世界進出にあわせて栽培に適したカリブ海域・亜熱帯の植民地へそのルートが拡大されて行きました。即ちポルトガルはブラジル、スペインはカリブ海域、英国がキューバで砂糖を栽培するなど需要に対応しました。その後キューバの帰属は2,3転することになりますが。
今日カリブ海の諸島はイギリス・オランダ・フランスの領土になっています、これこそお茶やコーヒーの消費の拡大ともに、必需品である砂糖の供給地であったことを物語っています。現在砂糖の供給先はインド・ブラジル・中国・北アメリカで、キューバは10番目です。

(参考)
イギリスの宮廷貴族に最初にお茶の習慣を広めたクイーンとして有名なキャサリンについて、お茶と砂糖の興味深い話があります、それは1662年、王制復古を成し遂げた国王チャールズ2世の許にポルトガルのプラガンサ家出身のキャサリンが王妃として迎えられました。彼女は当時すでにポルトガルの貴族や上流階級の間で既にできていた「喫茶の習慣」を身につけていて、嫁入り道具には、中国製の茶器や茶箱ごとの中国茶が含まれていました。又持参金として英王室が求めた銀塊の代わりに、当時これと同じ位貴重であったブラジル産の砂糖(当時砂糖と銀はグラム当たり同価格)を持ってきました。インドのボンベイと北アフリカのタンジールの土地も、持参金としてイギリスにもたらしたことで知られています。そしてイギリス王室でお茶を飲む習慣を広め、普及させました。

3、アメリカの独立とお茶

アメリカ独立戦争の導火線なった、ボストンティーパーティ(騒乱事件)の背景はイギリス東インド会社がお茶の輸入権を独占し、植民地アメリカには重税を課していました。そのためアメリカはオランダから密輸して対応、イギリス東インド会社のお茶は買わない“ノーティー運動”などで対抗しました。常々英本国議会におけるでたらめな課税政策に対し、「英国製品ボイコット運動」など、植民地政策に不満をつのらせていました。そんな折、東インド会社の持つ中国茶の過剰在庫分をアメリカ市場で特価処分してもよいとの認可がされたのをきっかけに、1773年12月16日にボストン市民の抗議が頂点に達し「ジョウジ3世のティーパーティだ」とし、急進派の市民の面々が、手や顔にランプの煤やペンキをぬり、毛布を肩に巻き、モホークインディアンと間違える扮装で、ボストン港に停泊中のダートマス号、エリーナ号、ビーバー号の積み荷のお茶を海中に投げ込みました。そのお茶は中国産の武夷茶342箱で「ボストン港が茶色に染まった」と云われていますが、そんな訳はないでしょう。その後チャールストン、フィラデルフィア、ニューヨーク、アナポリスなどで同様な騒乱を起こし、これがきっかけで独立運動に突き進みます。ヘンリーパトリックの「我に自由を与えよ、然らずんば死を」という有名な演説を経て、1775年4月独立戦争に突入しました。
1776年に米国は独立し、その後1784年には「エンブレス オブ チャイナ号」が中国から直接茶を輸入するためニューヨークを出帆、茶を満載して帰国。アメリカ国民は歓呼してこれを迎えたと云われています。

4、アヘン戦争とお茶

16・17世紀はスペイン・ポルトガル・オランダの時代、18・19世紀はイギリスの時代、20世紀はアメリカ、21世紀はどうなるかBRICs? リーダーなき国際化が進むのか? 南北、東西、宗教、人種問題など複雑化する中でますます混沌として行くようです。
さて18世紀になりイギリスは中国からのお茶の輸入で優位にありましたが、イギリス国内ではお茶の需要が急増し、輸入量も増大し、併せて高価な絹の輸入も増大したため。当時国際間の決済に使う銀が不足となりました。当初中国で医薬品として輸入していたアヘンの独占販売権を手にし、インドで栽培したアヘンを中国に売り、その代金をお茶代金の支払いに充てました。
これにつれ中国の銀が流出し、風紀も悪化するなどで社会的に弊害の大きいアヘンを中国は輸入禁止にします。その報復措置として始まったのが「アヘン戦争」です。中国が敗戦し、1842年南京条約により中国は香港を割譲させられました。1997年7月に返還。マカオは1557年からポルトガル人が移住。ポルトガルの植民地で、遅れて返還されています。
                                         (以上)

第5回 「ティーパーティー雑感」

今回は、第3回でご紹介した「3つのティーパーティー」について詳しくお話し致します。
 お茶(緑茶)の歴史は伝説を含めると約4,800年でありますが、「紅茶」の登場については歴史的には、そんなに古い時代ではなく、せいぜい300年位です。
 皆様は「ティーパーティー」と言えば英国紅茶文化から生まれたものを頭に浮かべると思います。ここでは3つの「ティーパーティー」を紹介致します。

その1.「アフタヌーンティー」などのティーパーティー 

 「ティーパーティー」ですが本来はイギリスにおいて、17世紀中頃から東洋の珍品・貴重品であるお茶が普及して行く過程で、有産階級においてティーとティーフーズで親密な会話を楽しむ社交・親睦のためにお茶を飲む習慣が英国の伝統的な生活文化としてライフスタイルに定着、発展したものです。一般にティーパーティーといえば「アフタヌーンティー(午後のお茶会)」を意味しますが、これはビクトリア時代の1840年頃のことです。
 「アフタヌーンティー」は1840年頃に、第7代ベッドフォード侯爵夫人のアンナ・マリアが発案者といわれ、社交のための中食としての習慣です。豪華な朝食と夜遅い夕食の間、午後5時に空腹をしのぐため、お茶とバター付のパンをとったことが始まりで、これが貴婦人の間に広まったといわれています。ビクトリア王朝の1850年からエドワード7世、ジョウジ5世まで1910年までにすべての階層に定着、お茶は国民飲料になりました。まさにイギリスの栄光を誇示する英国の紅茶文化が完成した訳です。
 なかでも公式のアフタヌーンティー(ビクトリアンティー)にはマナーやエチケットとは別に、少し条件があり、それは「優雅なテーブルセッティング」「多種類でたっぷりのティーフーズ」「主にインド、セイロン紅茶をミルクティーで正しくいれて楽しむ」もので、これこそイギリスの紅茶文化を象徴するものです。
現在日本でも、略式ですがホテルやレストラン、紅茶専門店などで楽しむことができます。

その2.「アメリカの独立」と「ボストンティーパーティー」

 アメリカ独立戦争の導火線なったのがボストンティーパーティー(騒乱事件)です。
当時イギリス東インド会社がお茶の輸入権を独占しており、植民地であるアメリカはイギリス本国の茶の重税に対抗し、オランダから密輸するなどで対応していました。常々英本国の課税政策に対し、「英国製品ボイコット運動」など、不満をつのらせていた折に、英政府の東インド会社の持つ中国茶の過剰在庫分をアメリカ市場で特価処分してもよいとの認可が出されたことに反発し、1773年12月16日にボストン市急進派の市民が正体を見破られないように、手や顔にランプの煤やペンキをぬり、毛布を肩に巻き、モホークインディアンと間違える扮装で、ボストン港に停泊中のダートマス号・エリーナ号・ビーバー号の積み荷のお茶を海中に投げ込み、ボストン港を紅茶色に染めたと言われている騒乱事件です。そのお茶は中国産の武夷茶342箱でありました。
 その後チャールストン・フィラデルフィア・ニューヨーク・アナポリスなどで同様な騒乱が起き、これがきっかけで独立運動に拡大。1774年には2回目のボストンティーパーティーが起こるなど騒乱が続き、1775年4月にボストン郊外レキシントンで英軍隊と武力衝突が勃発。独立戦争に突入し、1776年に独立を成し遂げました。
 独立後、1784年には「エンブレス オブ チャイナ号」が中国から直接茶を輸入するためニューヨークを出帆。茶を満載して帰国し、アメリカ国民は歓呼してこれを迎えたとのことです。アメリカ独立戦争の導火線なったのはこのボストンティーパーティーです。

その3.アメリカのティーパーティー運動

 昨年11月、アメリカでは大統領選挙が行われ、現オバマ大統領が再選されました。
共和党のロムニー前マサチューセッツ州知事は惜しくも落選。一時、共和党・保守派の強力な運動母体にティーパーティー運動があります。これは2010年のマサチューセッツ州知事の補欠選挙や中間選挙で一大旋風を巻き起こしました。
 遡れば2007年12月に共和党ロン・ポー下院議員が記念集会で初めて使った言葉で、反オバマ運動として、また税金の無駄遣いを廃止し、小さな政府を目指す保守的な運動です。2010年の中間選挙では共和党の躍進に大いに寄与し、今以て保守派の政治運動として大きな力をもっており、躍進が急であります。その名から一時T.Bを手紙で送っていたので、ティーバッガーとも呼ばれたようであり、対抗して民主党のリベラル派でコーヒーパーティーを立ち上げたとのこと。まさにこのティーパーティーという呼称は、1773年のボストン茶会事件という歴史的な言葉を蘇らせたものです。
 共和党の目指すところは保守の復権で、政府の役割をスリムにし、古き良き米国の自由と独立を目指すものです。この民主・共和の二大政党の対立軸は社会保障分野では国民皆保険を目指すオバマ(民主)、国の干渉は不要とのロムニー(共和)、財政再建では公共事業・景気刺激の民主、大幅な歳出削減の共和、エネルギー政策ではクリーンエネルギー重視の民主、エネルギーの自給・ガスや石油の採掘促進の共和と論点が鮮明でした。日本も暮れの総選挙では、民主、自民二大政党の争いが熱を帯びましたが、自民の独り勝ち、民主の惨敗で幕を閉じました。しかし、争点はどうも政局や顔の違いを争点にしているようで、米国のように明確な国家観を背景にした政策の争いとはほど遠いように思えました。これでは国民の期待を失い、政治不信を招き、盛り上がりを欠く政治ショーです。
 さて、肝心の米国のティーパーティー運動の状況ですが、共和党指導部との対立やら、力も各地に分散し、政策の確立も弱く指導者不在など課題が多いことで、やや輝きも薄らいではいますが、今後の運動の行方が注目されています。

エピローグ. 英国式の「ティータイム」

 最後にイギリス人の喫茶習慣について概要を紹介します。
 これらは「日常の生活の中に習慣的に定着したティータイム」と日常生活とは別のイベントとして「特別なお茶会を楽しむティータイム」の2通りに区分できます。
 前者には①ベッドティー:朝起きぬけのティー、②ブレックファストティー:朝食時のティー、③モーニングティーブレーク(イレヴンジイズ):10時~11時の休憩時のティー、④ティ・アット・ランチ:昼食時のティー⑤アフターヌーンティーブレーク:15時~16時の休憩時のティー⑥就寝前のティー:元来は正餐(ディナー)の後で応接間などで団欒と社交目的に楽しんだティーの概ね6つがあります。
 後者には①アフターヌーンティー:特定な日の午後に、サロンや応接間にて親密な交際を目的とし開くもの、②ハイティー:労働者階級発信の文化として、有産階級が楽しむアフターヌーンティーにあやかって午後6時頃に子供たちとともにとった夕食のティー、③クリームティー:アフターヌーンティーほどの伝統や儀式にとらわれない「田舎風のティータイム」でティーとスコンのおやつで、イチゴジャムとクロテッドクリームで食べ、ティーを楽しむティータイムです。以上の概ね3つがあります。
                      (資料提供日本紅茶協会)
                        清水 元(前日本紅茶協会 専務理事)(記)

第4回 ”紅茶の正しい入れ方”

紅茶にまつわる話を3回に亘りご紹介致しましたが、キーポイントである、紅茶を美味しく飲むには如何したらよいか、“ゴールデンルール”にそってご説明致します。
紅茶の注出法には基本型の①茶葉の上から熱湯を注ぐ、淹茶法(Brewing Method)他に②湯の中に茶葉を投入しての煮出(込)し法(Boiling/Stewing Method)③ティーバッグのような濾過法(Filtering Method)④その他として濃縮、粉末、液体紅茶飲料(RTD)などがあります。ここでは基本型の淹茶法での入れ方について説明します。

日本紅茶協会による紅茶の入れ方
茶漉しネットに適当な量の茶葉を入れて上から湯を注ぐだけでは、単に色付きのお湯でしかなく、飲んだときの紅茶の持つフレーバーやコク味が望めない。これは紅茶の持つおいしい味や香りなどの有効成分が充分出て来ないためで、茶葉をポットの中で熱湯により蒸らすことが大切である。
日本紅茶協会では我が国のライフスタイル、水質、品質レベルなどを勘案して、「日本人が紅茶をおいしく入れるためのヒント、目安(ゴールデンルール)」を策定しました。

リーフティーの入れ方

①    必ず蓋のついたティーポットを使うこと
②    茶葉の分量はティースプーンで正確に量ること
③ (水道の蛇口から)汲みたての新鮮な水を強火で沸かし、沸騰直後の勢いのよい熱湯を使うこと
④    ティーポットの中で茶葉を充分に蒸らすこと


 1.ティーポット
 陶磁器製、銀製、ガラス製、ステンレス製、ホーロー製などを使用する。
 鉄製のものは紅茶のタンニンと鉄分が化合して紅茶の色が黒ずんでしまうので避けること。形は「熱対流」がスムーズに起こり、茶葉の「ジャンピング」が起こりやすくなるので胴丸でシンプルなものが良い。

2.茶葉の分量
 ティーカップ一杯分の標準分量は、茶葉のサイズにより、細かい葉(ブロークンタイプ)は中山1杯(約2.5g~3g)、大きな葉(リーフタイプ)はティースプーン大山1杯(約3g)を目安にする。
 紅茶缶などに書いてあることがある「ポットのためのもう1杯(One for the pot)」については、今は茶葉の品質が改良され、日本の水は軟水なので標準量で充分であり、特に必要ではなく、濃いのが好きな方やミルクティーが好きな方はもう1杯を加えても良い。

3.使用する水と熱湯の分量
 水は基本的に水道水がよく、蛇口から勢いよく汲み出した新鮮な、空気をいっぱい含んだ水を使用する。日本の水は一部の地域を除き紅茶に適した軟水である。
 この水をヤカンで沸かし、香気成分など充分に引き出すために完全に沸騰した時点の熱湯を使うこと。
 なお水道水のカルキ臭やトリハロメタンが気になる場合は、2~3分余分に沸かすこと。カルキ臭が抜け、トリハロメタンも気化してしまうと言われている。
なお熱湯を注ぐ時はヤカンをポットに持ってゆくのではなく、「ポットをヤカンの方に持ってゆく(Take the tea pot to the kettle, not vice versa)」こともポイントの1つです。
注いだらすぐに蓋をしてじっくり蒸らすこと。

 4.蒸らし時間
 蒸らし時間の目安は、細かい葉(ブロークンタイプ)は2.5分~3分で、大きな葉(リーフタイプ)は3分以上です。これは飽くまでも基準であり、お茶の有効成分が充分に抽出されることが大切な要件です。
蒸らしている間など、熱を逃がさないための保温道具としてティーコージーがありますのでポットにかぶせて使用すること。
なお紅茶の味が変化しますのでウォーマーなどの直火にかけないこと。
 紅茶が濃く入りすぎた場合はイギリス式では、ホットウォータージャグに熱湯を入れておき茶液を薄めることが出来ます。
 出来上がりは清潔な「茶漉しネット」などを使って手早くティーカップに注ぎ分けること。

5.ティーカップについて
 紅茶のおいしさはカップに注がれた水色と味及び香りが重要な要素です。
水色の美しさを出すためには、カップの内側はなるべく白く、形は口が大きく広がって、底が浅く、持ちやすく、飲みやすいいものが良い。

ティーバッグの入れ方
ティーバッグは、茶葉を計量する手間を省き、茶殻の後始末を簡便にしたもので、リーフティー同様ゴールデンルールに従ってティーポットやサーバーを使い、汲みたての新鮮な水を強火で沸かして、沸騰直後の勢いの良い熱湯を注ぎ、充分蒸らすこと。

 蒸らし時間の目安
   CTC茶が主体のティーバッグ  = 約1~1.5分
   オーソドック茶主体のティーバッグ= 約1.5分~2分

 ティーカップやマグカップ等で1杯分を入れる場合は、熱湯を注いだ後で小皿やソーサーで蓋をして蒸らすと良い。
*各社製品に記載の入れ方の要領を参考にして下さい。

アイスティーの入れ方
アイスティーは2倍の濃さの茶液を作ってオンザロック方式で手早く入れるのが最も望ましい。
他に水出し(差し)方式等もあり、また水出し用のティーバッグも市販されている。

オンザロック方式の入れ方
 
1.標準量の茶葉にホットティーを作る時の半分の量の熱湯を注ぎ、蒸らし時間は2~3分程度で2倍の濃さの紅茶液を作る。(お湯の量は1杯分70ml~80mlが標準)
2.ホットティーを、茶漉しを通して別のポットに移す。
  甘みをつける場合はホットティーの時の1.5~2倍のグラニュー糖を完全に溶かす。
  (人間の味覚は冷たいと鈍感になるため砂糖は多目で良い。)
3.氷をなるべく細かく砕きグラスにたっぷり入れる。
4.2倍の濃さの紅茶液を氷の上から手早く注ぎ、冷やす。

クリームダウンについて

アイスティーを入れた後に茶液が白く濁る現象で、熱い紅茶液を急激に冷やすと、紅茶液の温度が下がるにつれタンニンとカフェインの複合物が凝固するためである。
この現象をクリームダウンあるいはミルクダウンという。
防ぐ対策としてはタンニンの多い紅茶が発生し易いので、タンニンの含有量の少ない茶葉を選ぶ、中国紅茶のアールグレイ、ニルギリ、セイロンローグロウンなど。
また蒸らし時間を短くすなど工夫すること。                                 
                                               (以上)

第3回”3つのティーパーティーについて”

本来ティーパーティーといえば、イギリスにおいて、17世紀中頃から東洋の珍品・貴重品であるお茶が普及して行く過程で、有産階級においてティーとティーフーズで親密な会話を楽しむ、社交・親睦の為の「ティーパーティー」として発展し、やがて英国の伝統的な生活文化としてライフスタイルの中に定着した訳です。一般にティーパーティーと言えば「アフタヌーンティー(午後のお茶会」を意味しますが、これはビクトリア時代の1840年頃のことです。
アメリカのティーパーティー運動を知っていますか、今年アメリカでは大統領選挙が行われます、共和党の候補者選びも熱を帯びてきました。現代のティーパーティー運動は、2007年12月に共和党ロン・ポー下院議員が記念集会で初めて使ったもので、反オバマ運動として、また税金の無駄遣いを廃止し、小さな政府を目指す保守的な運動です。2010年の中間選挙では共和党の躍進に大いに寄与し、今以て保守派の政治運動として大きな力をもっており、躍進が急であります。その名から一時T.Bを手紙で送っていたので、ティーバッガーとも呼ばれたようであり、対抗して民主党のリベラル派でコーヒーパーティーを立ち上げたとのこと。
実はこのティーパーティーと云う呼称は、1773年のボストン茶会事件と云う歴史的な言葉を蘇らせたものです。では、アメリカ独立戦争の導火線なったボストンティーパーティーとはどんな事件かご紹介いたしましょう。当時植民地アメリカではイギリス本国の茶の重税に対抗し、オランダから密輸するなどで対応していました。常々英本国の課税政策に対し、「英国製品ボイコット運動」など、不満をつのらせていた折に、英政府の東インド会社の持つ中国茶の過剰在庫分をアメリカ市場で特価処分してもよいとの認可が出されたことに反発し、1773年12月16日にボストン市急進派の市民が、手や顔にランプの煤やペンキをぬり、毛布を肩に巻き、モホークインディアンと間違える扮装で、ボストン港に停泊中のダートマス号、エリーナ号、ビーバー号の積み荷のお茶を海中に投げ込みボストン港を紅茶色に染めたと言われている騒乱事件です。そのお茶は中国産の武夷茶342箱である。その後チャールストン、フィラデルフィア、ニューヨーク、アナポリスなどで同様な騒乱を起こし、これをきっかけで独立運動に拡大し、1775年4月独立戦争に突入、やがて1776年に独立を成し遂げました。
現代のティーパーティーは「税金はたくさんだ(Taxed Enough Already)」・TEA・の意味もあるとか。
共和党の目指すところは保守の復権で、政府の役割をスリムにし、古き良き米国の自由と独立を目指すものです。折しも経済格差に不満を持つ若者を中心にデモが勃発するなど、政府批判が起こっています、今後のティーパーティー運動の動きが注目されます。

第2回“2つの「ティーロード」と「お茶の呼称」について”

世界でお茶の呼称は大きく分けて2つで、中国からの伝来ルートが陸路か海路かで異なります。概して「チャ」か「ティー」のいずれかで、いれ方はティーは抽出法、チャ、チャイは煮出し法になります。
「陸のティーロード」の呼称はチャー、チャイ、シャーで、語源は広東語系のチャ、ツァです。伝播はロシア(チャイ、シャイ)、ルーマニア、トルコ、ポーランド(チャイ)のルートと北方は蒙古、満州、シベリア、東は朝鮮、日本、北はチベット高原、カシミール、アフガニスタン、イラン(ペルシア)、イラク、トルコ、ウクライナ、北アフリカのアルジェリア、モロッコになります。但しポルトガルは海路伝来ですがチャになります。それは永年統治していたマカオなどの国の言葉(ビンナン語)を使用したためであります。
一方「海路のティーロード」はテ、テー、テイーで、語源は福建省のアモイやビンナン語など各地の方言といわれています。最初にお茶を伝えたオランダ人は宿敵である旧教徒のポルトガル人の呼ぶチャではなくテーと呼び海路で伝えました。後に東インド会社を通じイギリスが更に世界に広めました。オランダ(テー)、イギリス、アメリカ(ティー)ドイツ(テー)、フランス(テ)、フィンランド(テー)、スウェーデン(テ)、デンマーク、スペイン、イタリアなどは(テ)になります。

お茶の話あれこれ

先日、朝日新聞の1ページを使い、静岡県、日本茶業中央会、茶業技術センターがお茶と健康に関連するPR記事を掲載していました。
我々国分寺市民にとって興味ある内容は、厚労省の統計で、ガンによる死亡率の低い、人口10万以上の都市の順位で男性は国分寺市が第一位で、以下掛川市、藤枝市、飯田市と続き、女性は一位掛川市、以下藤枝市、うるま市、磐田市でした。国分寺市の女性の順位は不明ですが、何れ上位にあると思います。その秘密はどうやらお茶の摂取量に関係するのではとのこと、また地中海クレタ島ではオリーブオイルやナッツ類の摂取に関係すると言われています。
お茶の効能として、ガン、循環器疾患や脳梗塞での死亡リスクが大きく低下する調査結果がでています。
ここで、まずお茶についての「起源」、「伝播」、「三大嗜好飲料」について紹介いたします。起源は紀元前2737年神農伝説に始まります-神農(シェンナン皇帝)・生水は万病のもとの考えから、「煮立てて飲むべし」という事で、庭で大きな釜を使い、生水を煮立てていたところ、偶然にも数枚の葉が湯に落ち、その結果、その葉から、優雅な香りと素晴らしい味を発見した、これが野生の茶の発見と言われています。
また510年頃インドの達磨大師が面壁九年の修行中5年目に眠気をもよおし、そばの木の葉を噛んだ処、眠気が去り不眠の苦行を成し遂げたという伝説もあります。この葉が茶であったと云われています。
茶の学名はカメリアシネンシスで、中国種とアッサム種で、原産地は中国西南部四川省、雲南省あたりが有力で、アッサム種は比較的新しく、1823年インドで発見されました。具体的な茶の飲用は茶の渋みを取り除く工夫がされ、天日で乾かし、火で炙る等の製法が工夫されて、貯蔵、保存も可能になり、「薬から飲料へ」発展していった訳です。
最初はバラ(散茶)でありましたが、固形茶(保存、運搬に良いから)が作られました。
8世紀末には茶葉の売り買いに課税されるなど、また近隣諸国から中東、北アフリカのモロッコまで伝わり、なかでも茶と馬とを交換する「茶葉交易」は有名であります。釜炒茶は960年宋の時代で、明の時代にはウーロン茶の原形が作られました。
日本には805年最澄が茶の種子を持ち帰り、比叡、近江に植えました。永忠(35年滞唐)が本格的に栽培した最初といわれています。12世紀(鎌倉時代)で栄西が「喫茶養生記」を著し、源実朝に茶を献上し、公家、武家社会に飲まれました。14世紀から徐々に武士、一般に普及して行きました。このように世界的にみて茶の歴史は古く、かれこれ伝説から数えても5,700年、飲用習慣からでは1,800年の歴史があります。
しかし紅茶は17世紀からになります。
紅茶の木や緑茶の木があるわけではない。
「チャ」は椿や山茶花の仲間で、ツバキ属ツバキ科の永年性の常緑樹で、お茶はこの新芽や若葉、および柔らかい茎などを主な原材料とした世界的な飲料であります。茶は製茶法からみて、発酵の程度の違いにより、発酵させないもの、『不発酵茶―緑茶』、発酵させているもの『発酵茶―紅茶』、半分程度発酵させているもの『半発酵茶―烏龍茶』の3つに区分されます。
現在では1986年にISO3720で紅茶の定義は国際的に規定されていますが、緑茶は検討中です。
世界三大嗜好飲料とその普及については紅茶、コーヒー、ココアの三大嗜好飲料はカフェインを含有しているのが共通で、原産国は遡ると、茶が中国、コーヒーはエチオピア、ココアはメキシコになります。
需要はコーヒーが中南米生産されEUで58%,アメリカで30%、ココアは アフリカで 生産され、主として、 オランダ中心にヨーロッパで60%、お茶は 紅茶(70%)、緑茶(30%)に分けなければなりませんが、紅茶はインド、スリランカ、ケニア、インドネシアで生産、ヨーロッパ、中東、アジアで消費、緑茶は中国、日本、台湾で生産、主に中国、日本で飲まれています。これら3品は17世紀にヨーロッパに伝わり、ココアは南米からスペイン経由で、コーヒーはアラビアからトルコを経て、紅茶はオランダ人がヨーロッパへ、イギリス人の手で世界各国に広まりました。