第6回 「世界三大嗜好飲料とその普及について」

1、はじめに

紅茶・コーヒー・ココアの三大嗜好飲料は、カフェインを含有している事が共通点です。 お酒・たばこを入れて5大嗜好品と言われています。

世界統計では、お茶はここ5年間で40%upと消費量が大幅に増大しています。お茶の健康面での効能が認められ、またコミュニケーションツール、寛ぎシーンに合う飲料として高く評価されている為だと思います。
お茶の原産国は中国です(19世紀初めにインドでアッサム種が発見)、コーヒーはエチオピアが原産、ココアはメキシコが原産です。
需要の流れ・変遷は下記の通り、
①     コーヒー:中南米生産されEUで58%,アメリカで30%消費、
②     ココア: アフリカで生産され、主として、オランダ中心にヨーロッパで60%消費、
③     お茶: 紅茶、緑茶に分けなければなりませんが、紅茶はインド・スリランカ・ケニア・インドネシアで生産され、ヨーロッパ・中東・アジアで消費。緑茶は中国・日本・台湾で生産され、主に中国・日本で飲まれています。
はからずも17世紀に、茶・コーヒー・ココアの3大嗜好飲料がヨーロュパに伝わり、ココアは南米からスペイン経由で、コーヒーはアラビアからトルコを経て、紅茶はオランダ人がヨーロッパへ、イギリス人の手で世界各国に広まりました。

2、砂糖と紅茶について

両者とも当時は一般の人々にはあまりにも高価で、上流の市民や貴族のものでしかありませんでした。17世紀の初め頃、砂糖も茶も薬屋で扱われる貴重な「薬品」でした。紅茶に砂糖をいれれば二重の効果が期待できるわけで、茶や砂糖は、貴族やジェントルマンといった高貴な身分の人々には文句なしの「ステイタス・シンボル」になったのです。多分その頃にロンドンを中心に普及したコーヒー・ハウスでは、紅茶に砂糖が入れられるようになったと思われます。
この時代にはアジアやアメリカ、アフリカなどの珍しい商品が輸入されはじめましたから、貴族やジェントルマン、豊かな人達は競ってこうした「舶来品」を買っていたのです。特にアジアやアメリカから来たものは高価だっただけに何でも「ステイタス・シンボル」になりやすかったのです。茶や砂糖はその典型でした。タバコでさえはじめは上流階級のシンボルとして利用されたくらいです。今日では砂糖はお茶やコーヒーには欠かせない必需品になりましたが、この時代、お茶・コーヒーの普及に比例して、砂糖の輸入増大が急務になり、亜熱帯の国・島では競って「さとうキビの栽培」が始まることのなります。
砂糖の原産地はインドですが、地中海・中央アジアのルートに加え、ポルトガル・スペインの世界進出にあわせて栽培に適したカリブ海域・亜熱帯の植民地へそのルートが拡大されて行きました。即ちポルトガルはブラジル、スペインはカリブ海域、英国がキューバで砂糖を栽培するなど需要に対応しました。その後キューバの帰属は2,3転することになりますが。
今日カリブ海の諸島はイギリス・オランダ・フランスの領土になっています、これこそお茶やコーヒーの消費の拡大ともに、必需品である砂糖の供給地であったことを物語っています。現在砂糖の供給先はインド・ブラジル・中国・北アメリカで、キューバは10番目です。

(参考)
イギリスの宮廷貴族に最初にお茶の習慣を広めたクイーンとして有名なキャサリンについて、お茶と砂糖の興味深い話があります、それは1662年、王制復古を成し遂げた国王チャールズ2世の許にポルトガルのプラガンサ家出身のキャサリンが王妃として迎えられました。彼女は当時すでにポルトガルの貴族や上流階級の間で既にできていた「喫茶の習慣」を身につけていて、嫁入り道具には、中国製の茶器や茶箱ごとの中国茶が含まれていました。又持参金として英王室が求めた銀塊の代わりに、当時これと同じ位貴重であったブラジル産の砂糖(当時砂糖と銀はグラム当たり同価格)を持ってきました。インドのボンベイと北アフリカのタンジールの土地も、持参金としてイギリスにもたらしたことで知られています。そしてイギリス王室でお茶を飲む習慣を広め、普及させました。

3、アメリカの独立とお茶

アメリカ独立戦争の導火線なった、ボストンティーパーティ(騒乱事件)の背景はイギリス東インド会社がお茶の輸入権を独占し、植民地アメリカには重税を課していました。そのためアメリカはオランダから密輸して対応、イギリス東インド会社のお茶は買わない“ノーティー運動”などで対抗しました。常々英本国議会におけるでたらめな課税政策に対し、「英国製品ボイコット運動」など、植民地政策に不満をつのらせていました。そんな折、東インド会社の持つ中国茶の過剰在庫分をアメリカ市場で特価処分してもよいとの認可がされたのをきっかけに、1773年12月16日にボストン市民の抗議が頂点に達し「ジョウジ3世のティーパーティだ」とし、急進派の市民の面々が、手や顔にランプの煤やペンキをぬり、毛布を肩に巻き、モホークインディアンと間違える扮装で、ボストン港に停泊中のダートマス号、エリーナ号、ビーバー号の積み荷のお茶を海中に投げ込みました。そのお茶は中国産の武夷茶342箱で「ボストン港が茶色に染まった」と云われていますが、そんな訳はないでしょう。その後チャールストン、フィラデルフィア、ニューヨーク、アナポリスなどで同様な騒乱を起こし、これがきっかけで独立運動に突き進みます。ヘンリーパトリックの「我に自由を与えよ、然らずんば死を」という有名な演説を経て、1775年4月独立戦争に突入しました。
1776年に米国は独立し、その後1784年には「エンブレス オブ チャイナ号」が中国から直接茶を輸入するためニューヨークを出帆、茶を満載して帰国。アメリカ国民は歓呼してこれを迎えたと云われています。

4、アヘン戦争とお茶

16・17世紀はスペイン・ポルトガル・オランダの時代、18・19世紀はイギリスの時代、20世紀はアメリカ、21世紀はどうなるかBRICs? リーダーなき国際化が進むのか? 南北、東西、宗教、人種問題など複雑化する中でますます混沌として行くようです。
さて18世紀になりイギリスは中国からのお茶の輸入で優位にありましたが、イギリス国内ではお茶の需要が急増し、輸入量も増大し、併せて高価な絹の輸入も増大したため。当時国際間の決済に使う銀が不足となりました。当初中国で医薬品として輸入していたアヘンの独占販売権を手にし、インドで栽培したアヘンを中国に売り、その代金をお茶代金の支払いに充てました。
これにつれ中国の銀が流出し、風紀も悪化するなどで社会的に弊害の大きいアヘンを中国は輸入禁止にします。その報復措置として始まったのが「アヘン戦争」です。中国が敗戦し、1842年南京条約により中国は香港を割譲させられました。1997年7月に返還。マカオは1557年からポルトガル人が移住。ポルトガルの植民地で、遅れて返還されています。
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