国分寺停車場(てんしゃば)(2)

国分寺てんしゃば(停車場)の集落の形成
                                          加藤 勝三(S29年 商)

前回の交通網の変遷の記事の[てんしやば]は[ていしやば】の間違いではとの問い合わせがありましたが、 [てんしやば]のほうが勢いがよいとして使われたようである。
明治22年に甲武鉄道により開設された国分寺停車場の周辺はそれまでは人家もなく、山林が広がっていたといわれる。駅の開設により停車場(てんしやば)と呼ばれるしゆうらくが新たに形成され、現在では[本町]と呼ばれる地区が誕生した。江戸時代からの国分寺村の集落は駅からは離れ、南側部のハケ
(崖)を下りた場所今の[お鷹の道]付近にあり[国分寺本村]と呼ばれていた。
駅の出来た当初は、えきまえには国分寺本村や近隣に本家のある人達が移入してきた。
小柳九一郎氏が鉄道を利用する貨物の運送店を開き、弟さんが分家して店を継いだという。小柳孫三郎氏の弟夫婦が茶屋を開業し後に料理屋や旅館を営業するようになった。現在の[柳家]である。そのはか本村からは[糸苗亭][ぎゅうや]の料理店も22年に開かれた0 23年には府中より[百足屋]という足袋屋が出店、 26年には武蔵村山で村山大島の出機業を営む[中高]の娘夫婦が貫井新田(小金井)の茜屋という親戚の土地を借りて呉服の小売を始めた。
機万呉服店の前身である。
その後明治後期にかけて、越中屋肥料店、野川屋、浅見染物店、戸塚燃料店、野口魚店、茜屋材木店、越後屋、中久酒・雑貨店、矢野肥料店、森田屋酒店、桝田屋菓子店、古川時計店、鈴木米店、宍戸薪炭店等が続いた。
甲武鉄道の開通により、宿場として栄えていた府中も、街道を通る人や物が急激に減り、甲州街道を通っていた馬車の乗客も減り商売が立ち行かなくなっ
てきた。府中付近の人は国分寺駅から東京方面に出てゆくものが多くなり、国分寺まで馬車が通うようになり、ケヤキ並木のところに発着所が出来た。
馬車の交通が甲州街道から国分寺停車場とを結ぶ国分寺停車道(現国分寺街道)に代わり、人力車による往来も増えたという。乗合馬車が、国分寺・府中閏に開通したのは、川越鉄道が開通した明治28年であった。
国分寺停車場を経由して人や物が往来するようになった府中では、甲武鉄道との連絡が大きな関心事になり、明治35年(1902)には国分寺停車道の直線化や拡幅などの改修を行った。昭和初期まで、停車場の主要道路は府中へ向かう道であった。この道は今の東栄会大学通り(西友の通り)で200メートル先に踏み切りがあり、線路を越えて南へ向かい殿ヶ谷戸公園の東側の崖の脇を通り府中へと続く。当然商店も大半がこの駅前の道路沿いに出店していた。大正から昭和にかけて、そのほかの停車場周辺の道も整備され、現在の本町の主要道路の原型が出来上がっている。
大正2年には府中・国分寺間にバスが運行された。
府中との往来に利用された府中道では、中央線の踏み切りで自動車と列車の事故が多発した。昭和2年(1927)2月11日の東京新聞には、 [魔の踏み切りに最新式自動ベル]の見出しで、踏切事故防止のための警報機設置が報じられている。その後、昭和5年に踏み切りの東側に中央線のガードが出来、 [魔の踏
み切り]を閉鎖し、合わせて府中道の道筋を規在の位置に改修された。
大正時代に入ると電灯もつくようになり、別荘の建設が始まった。
今村別荘(現本町4丁目)江口(岩崎)別荘(現殿ヶ谷戸公園) 、天野別荘(現東元町) 、竹尾別荘(現東元町2丁目)など大正時代前半に集中している。
今村別荘は、今村銀行頭取の今村繁三氏の別荘で、屋敷内に守護神として正一位穀豊大明神が祭られておりました。本町の氏神である八幡神社の社殿は今村氏から譲り受けた稲荷社の祠を元にしてできあがったといわれており、現在の社地も戦後に今村氏から譲り受けた土地である。
大正5年( 1916)に国分寺停車場内で国分寺郵便局が郵便の集配業務を開始し、大正11年に電話が開通した。当初の加入者は局用を除き36件に過ぎなかった。昭和2年に東京商科大学(現一橋大学)が国立に移転してきたが、中央線は国分寺までしか電化されておらず。電車通学の学生は、国分寺より歩いて通学した。昭和4年(1929)には南部銃製造所が現早稲田実業の場所に設立され、現東京経済大学の場所に宿舎を含めた付属の建物が出来た。初期は軍事訓練用の銃を製造していたが、昭和11年(1936)に大倉財閥系の中央工業となり、拳銃・鄭弾簡・軽機関銃・戦闘機に搭載する機関砲などを作るようになった。従業員も終戦時には6000名を超えたという。
昭和15年8月に国分寺本村のハケ上(現東元町3丁目)に小林理化学研究所が創立、生産工場として小林理研製作所が並びに作られた。現リオンの前身である。昭和17年に日立中央研究所が発足。
昭和21年大倉経済専門学校(規東京経済大学)が中央工業敷地の一部(三晩南町1T目)に移転。同年、東京第二師範学校男子部(現東京学芸大学)も陸軍第三技術研究所の跡地(現小金井市貫井北町)に移転してきた。当時は国分寺駅の南口は開設しておらず、学芸大学の学生は勿論、東経大の学生も、北口から東に伸びる道(規西友前どおり)を通学路にしたので、この通りを[大学通り]と呼ばれるようになった。
昭和31年(1956)国分寺駅に南口が開設。明治22年(1989)に開設した国分寺駅や駅前に広がった町並みは、ここにきて近代的な都市空間に変革する必要性が高まってきた。
国分寺駅の改良は、昭和63年に南北自由通路を設置、平成元年に駅ビルがオープンし、平成2年西武多摩湖線ホームを移設するなど、事業が推進されて国分寺駅の様相を一変させた。更に国分寺駅北口の再開発事業も進められており、停車場(てんしやば)と呼ばれた町並みは、急激な変貌を遂げようとしている。