(続)紅茶の話あれこれ 「一杯の美味しい紅茶」その5

50年来の友人、紅茶人で業界第一人者である荒木安正氏の著作から興味あるエッセンスを抜粋しました。 紅茶への理解を深めていただければ幸甚です。
     (記)日本紅茶協会 元専務理事 清水元(国分寺稲門会)

一杯の美味しい紅茶(その5)

1, シノワーズリ

17世紀の後半から18世紀にかけて、ヨーロッパ貴族・上流社会で「シノワーズリ」(シナ趣味)が流行した。とりわけ、ルイ13世からルイ14世のブルボン王朝最盛期のフランスは、ヨーロッパの覇者としてアジア・アフリカに植民地を開発し、高度の文化を享受していた。当時、王侯の居城や邸宅には後期バロックやロココ様式の壮麗な室内装飾品に加えて、はるばる東洋から危険を冒して運ばれてきた多数の陶磁器(大壷や大皿)や漆器の調度品は、決して欠かすことのできない重要な構成要素として加えられた。
 こうした「シノワーズリ」はヨーロッパの人々の“東洋への憧憬”(あこがれ)であったが、同時に“東洋の先進文化に対するコンプレックス(劣等感)でもあったと解されている。また、オランダ商人の豪邸では飾り棚の中や、暖炉と煙出し部分の飾りとしても東洋の陶磁器がびっしりとはめ込まれていた。
 そして、ヨーロッパ独自のエキゾチックな調度品、絵画などが東洋の工芸品をマネて次々と創作されていった。モチーフ(表現の主体的な動機となるもの)は、当然「シナ」の人物・花かご・菊花などが多く、東洋的な雰囲気を強調したものぱ欠くべからざるもの”(必須条件)とされた。「シノワーズリ」は更にドイツやイギリスにも流行し、その刺激のおかげで各国製の陶器や磁器装飾品が創作され地道に流行し、各国の人々のライフスタイルにまでも影響が及んだ。東洋から西欧へと伝わった「シノワーズリ」の典型的なものは[喫茶の習慣]で、これに必要な東洋の文物を獲得するための“見栄の張り合い”や“マネのし合い”が富裕階層の間で流行現象となった。
 17世紀の中頃、東洋貿易のリーダーであるオランダ人により発注された[シナのコーヒーカップと、同じ絵柄の受け皿セット]が大量に輸出されていた。中国・江西省景徳鎮窯が主体であった。
     景徳鎮古窯

明末清初の中国国内の混乱で陶磁器輸出が停止したため、日本の佐賀県有田窯の磁器が代わって輸出された。しかも“伊万里港”からの輸出であったため、その名にちなんで“古伊万里”と称された。初期のカップには「ハンドル」がなく、コーヒーにもティーにも共用されたと想像される。大きさは酒杯・猪口程度で、カップの縁の差し渡しは4センチ前後。因みに「コーヒー/ティーポット」などは、絢爛豪華なサロン(客間)などでくつろいだ楽しい社交の場面にピッタリであった。また、チョコレート(ココア)用は全く別仕様で、今日の蓋椀か茶碗蒸し用の茶碗に似たフタつきの縦長カップであった。

 

2, ティーカップのつぶやき

一般に「飾り壹/花瓶」、「大剛、「ティーアーン/サモワール」(湯沸かし)、「ティーポット」(急須)などはサイズも大きく存在感あり、装飾価値も高いために古くから詩歌・小説・絵画・音楽などの対象物とされてきた。しかし「ティーカップ」は小物であり、“単なる酒杯か小茶碗(ティーボウル)にハンドル部分がついただけのもの”で、陶磁器や食器研究家や骨董収集家などによる研究も限られたものであった。
 つまり、液体の水を飲む時、(1)水面に直接顔をつけて飲む、(2)両手を使って水をすくって飲む、(3)陶土や磁土が火力によって堅く焼き上がることを発見して、陶磁器のカップを発明する、(4)そのうち(ミルク酒などは例外)水・ワイン・エール/ビール等々の[生温かいか、冷たいかの飲料を飲むためのカップ]というよりタンカード・ジャック・マッダなどという容器が生まれ、ガラス・木・玉・金属・獣角などなどを材質としたカップ類が出現した。(5)これらを原型として、コーヒーが[より男性向きの街角の飲料]としての地位を確保するにつれて、各地各様の飲み方や材質の違いによる、容量の一定しない(100~220ml)多様なコーヒーカッブが出現した。
特に、大型で深型(200~220mlサイズ)のコーヒー専用カップがあり、他方、満中容量で60~100m1中心の小型デミタス・コーヒーカップも多様なものがあり、一般的にはティーカップに比べて全体が縦長型が多く、実用的だが優雅さに欠けるものも多い。
 他方、中国・景徳鎮や有田(伊万里)磁器の小型の酒杯から進化した「ティーボウル」は、希少で高価な緑茶をチピチビ飲むために輸入され、「マイセン」などの欧州大陸の磁器メーカーや英国内でも模造された。茶の供給が安定し、茶価も下がり、茶の消費量が増えると共に、陶磁器への需要も増えた。茶碗の形状も洗練され多様化され、サイズも大型化していった。茶液容量が増え熱く重くなる為、砂糖をカップの中で充分溶かす為にも合理的にハンドルがつけられた。これとは別に、徳川時代には決められていたという日本古来の木製の“飯椀”=“茶碗”の満中容量の基準は200mlで、若干の余裕を見たもので230mlであったらしい。形状は総じて広口で浅め、口径は114~122mm(標準は120mm)、高さは口径の約半分というのが基準であったという。
いずれにせよ、東洋の磁器生産の先進技術やソフトを欧州大陸で“マネ”し、それぞれの“特徴“を加えて多種多様に進化させていった。
     ティーボール(マイセン)

 

3, お茶会にはぜひモーツアルトさんを!

1742年4月5日、ロンドン南西部チェルシーの高級住宅地に『ラネラー喫茶園』(1742~1803)が新らしく誕生した。
     ラネラー喫茶園

事前の広報がゆきとどいた結果、開園式の当日、ロンドン中が大騒ぎとなった。まず広大な緑地公園(15,000平米)の中に、この喫茶園の呼び物の一つとしてローマのパンテオンを模して建造された直径46m二階建ての「円形大会場」(ロタンダ)があった。雨天などの悪天候であっても、そして夜でも利用することができるように天井が特設され、中央には巨大な暖炉が設けられた。
 ラネラー喫茶園は貴族・上流階級を中心に高級な顧客が集まり、先発の名園たち「ヴォクスオール喫茶園」(1732~1859)、「キューパース」(1730~1759)、「メアリルポーン」(1738~1776)などよりも高い評価を得ていた。これらの喫茶園では老若男女の誰であろうとも料金(2シリング6ペンス)を支払うことによって入場ができ、当時の一般庶民にとっては[戸外のティー、またはコーヒーとバター付のパンやケーキ]を楽しむことができたため、以後50年間も好評を博していたという。
 同園を訪れた数多くの知名人の中にはW・A・モーツァルト(1756~1791)がいた。彼はカンバーランド公爵(ヘンリー・フレデリック王子)のためにオーケストラと一緒になってピアノを演奏したことがあった。この公爵は音楽と家具と庭園を愛したジョージⅢ世の弟にあたるが、モーツァルトに対する敬愛の心は誰よりも強かったという。
 18世紀の人間にとってはビックリするくらい刺激的で革新的であったと評されるモーツァルト白身によるピアノの生演奏を聞きながらの“ティー’を楽しめた人達の幸せそうな表情が推察できよう。一説では、モーツァルト自身による一公演の収入は、現在の価値に換算して1,000~1,500万円に上るほどであったという。
 さてその後、19世紀の初め頃までの間にロンドンは世界貿易の中心地として更に拡大・開発が進み、これらの結果、ロンドン市街地には住宅が立ち並び、世界都市に必要なホテル、会議場、劇場など娯楽設備が急速に増えた。
その結果、新しい時代の新しい社交・団槃が花開き、広大な敷地と季節的な遊覧・食事サービスのための喫茶園の経営は成り立たず、順次に閉園していった。

(つづく)