東山道と鎌倉街道武蔵路

東山道武蔵路と鎌倉街道

1、東山道について

東山道は「律令時代に皇居が置かれた五畿内と諸国の国府を結ぶ幹線道路」であり、中路とされたのは近江・美濃・信濃・上野・下野・陸奥の各国国府を通る道であった。30里ごとに駅馬10匹を備えた駅家が置かれていた。陸奥国府・多賀城より北は小路。
奈良時代になり、東山道の枝道として「東山道武蔵路」が設けられた。これは上野国より武蔵国府(現・府中市)に至る道で、武蔵国は、東京湾岸の令制国の中で唯一、東山道に属していた。他の東京湾岸の国や甲斐、駿河、伊豆等は東海道に属していたが、その後相模国から武蔵国を経由して下総国に抜ける陸路が開かれたため、武蔵国は東海道に入れ替わった。当時は大河川に橋を架ける技術は未発達で、渡河困難な大河が続く東海道よりも東山道の方がむしろ安全と考えられていた。
江戸時代になると、江戸を中心とする五街道が整備され、幹線道路としての東山道は、中山道・日光街道・奥州街道などに再編された。泉町1丁目一帯には約340mの直線道路跡が発掘され、側道跡や道路幅をアスファルト上に「東山道武蔵路跡」と表記(下左の写真)されており、また平成18年には南延長上に道路跡、住居跡、祭祀の痕跡がみつかり(下右の写真)歴史公園として解放されておりその広大さなど実感できる。 

 2、鎌倉街道について

古道としての鎌倉街道は、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網である。
鎌倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道で、鎌倉時代の関東近郊の主要道である。その呼び名が一般的に用いられるようになったのは江戸時代以降で、吾妻鏡や諸文献に「鎌倉街道」の呼び名は見られず、江戸時代の書物である新編武蔵風土記や江戸名所図会などに「鎌倉街道」が散見されている。
府中街道、都道18号府中町田線(下の写真)は通称「鎌倉街道」である。

 
余談ながら能の「鉢の木」(観阿弥・世阿弥作ともいわれるが作者不詳)は武士道を讃えるものとして江戸時代に特に好まれ、「いざ鎌倉」の語源となった。また「質素だが精一杯のもてなし」ということでこの名を冠した飲食店、菓子店(阿佐ヶ谷)などもある。内容は佐野に住む貧しい老武士、佐野源左衛門尉常世の家に、ある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を求める。常世は粟飯を出し、薪がないからといって大事にしていた鉢植えの木を切って焚き、精一杯のもてなしをする。常世は僧を相手に「一族の横領により落ちぶれてはいるが、一旦緩急あらば痩せ馬に鞭を打ちいち早く鎌倉に駆け付け、命懸けで戦う所存である」と語る。その後鎌倉から召集があり、常世も駆け付けるが、あの僧は実は前執権・北条時頼だった ことを知る。時頼は常世に礼を言い、言葉に偽りがなかったのを誉めて恩賞を与える。(Wikipedia)
                                          (記)清水元

国分寺建立と我が「武蔵国分寺」についてv2

国分寺建立と我が「武蔵国分寺」について

 

掲題について遅ればせながら改めておさらいをしてみましょう。
奈良時代、全国67の各地に国分寺・国分尼寺が建立されました。

 聖武天皇(在位724-749)の頃、天災、飢饉が相次ぎ、天然痘が猛威をふるっていました。その終息、日本の独立性、護国、国を鎮めるため、741年に国分寺造営の詔を聖武天皇が発布、寺の正式名は僧寺を金光明四天王護国之寺、尼寺を法華滅罪之寺と定めました。
特に「中央に廬舎那仏(大日如来)、右に薬師如来、左に千手観音」が鎮座し、この「三仏」を配すること、また「七重塔を持つ寺(国分寺)は「国の華」であり、必ず良い場所を選んで、まことに長く久しく保つようにしなければならない」と命じていました。
七重の塔には紫紙金字金光明最勝王経を納入する事としました。  
東大寺は、金光明四天王護国之寺、大華厳寺、恒説華厳寺ともよばれ、全国67ヶ寺の総国分寺としての役割も持っていました。
 東大寺という名は、平城京の「大寺(おおでら)」という意味であり、天皇の勅願寺という性格をもつ国立の寺院でありました。
武蔵国分寺の建設が始まったのは、737741(天平913)年の間と考えられ、20年弱の歳月をかけてようやく完成しました。敷地は東西8町、南北5町半と推測され(東大寺は東西南北各8町)、各地の国分寺の中でも相当大規模なものでした。金堂、講堂、中門、七重の塔で構成されていました。
昨今、ここ武蔵国分寺や東大寺では七重塔の再建が話題に上っているようで、これが実現すると魅力的な観光の目玉になるでしょう。
 一方、総国分尼寺の法華寺は「法華滅罪之寺」と呼ばれた大寺で、東大寺並みに「造法華寺司」と云う役所まで組織して造営された総国分尼寺としての風格を備えた大規模な寺院でした。
 法華寺が誕生した経緯は、藤原氏の権勢を高め磐石にする目的で不比等の邸宅を後娘の「光明子・光明皇后」が引き継いで皇后宮となり、その皇后宮が宮寺、大和の国分尼寺、法華寺と変遷していったのです。尼寺である法華寺の寺名の由来は、女人成仏を説く「法華経」から取り入れられたのでしょう。法華経といえば大乗仏教の基本的な経典で、「聖徳太子」、「最澄」、「日蓮」が重要な経として崇拝されました。
武蔵国分尼寺は跡地の発掘が進んでいますが、未伽藍の配置は不明で中門、金堂、尼房、跡などが判ってきたが、鐘楼、経堂、南大門などの位置は判っていなく今後の発掘を待ちたいと思います。
尚近隣地域では相模国分寺は海老名市・甲斐は笛吹市・安房は館山市・常陸は石岡市、に夫々国分寺遺跡があります。
                             (引用「東大寺」などより)   清水元(記)

恋ヶ窪の話

恋ヶ窪恋物語
                         谷田成雄(記)、野部明敬(補記)
皆様ご存知の落語「崇徳院」は、
百人一首「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の割れても末に会わんとぞ思う(崇徳院)」に題材をとった若い男女のめでたしめでたしの恋物語ですが、こちらの方は悲恋物語です。
エピソードを交えた谷田成雄氏の文でご紹介します。

恋ヶ窪の伝説(抜粋、一部加筆)
10数年前、御殿場のスペイン陶人形で有名なリヤドロの店で「サムライの別れ」と題する「馬に跨った鎧を着た武士が和服の麗人と別れるシーンを象った大きな陶塑」が目に飛び込んで来た。
一目見るなり「恋ヶ窪に伝わる畠山重忠と遊女・夙妻太夫の悲恋物語」から題材を取ったと感じた。聞いてみると「もう廃盤になり在庫はこれしかない」という。
考えてみると戦場に赴く人を送るこのシーンは人類の永遠のテーマで、子供の頃に出征軍人を送ったことが思い出された。勿論、戦争末期には送る人も少なく帰らぬ人が多かった。
色々なことが連想されたが、兎に角国分寺のためにも買っておかねばならぬと思った。
それは、いつか国分寺駅北口再開発が出来たとき、昭和19年以来住んで居る「第二の故郷:国分寺市にこの像を寄付しよう」と思ったからである。
私、谷田成雄が最初に住んだのは、恋ヶ窪4丁目の6畳一間であった。
戦後食糧不足の折、農家は潤っており、各部落のお祭りは競い合って盛んに行われた。背中一面に丸く囲った戀の字の半纏を纏って、ささくれ立った青竹を地面に叩きつけながら喚く様は中々迫力があった。
然し、戀ヶ窪の「戀」の字には参った。中学で住所変更を書けと言われたが、戀の字が思い出せず、戀ケ窪を変が窪と書いてしまった。そしたら国語の先生に「へんがくぼ・・・、変な地名だな」と言われた。これは思い出しても汗顔の至りである。
この戀ケ窪の地名は「畠山重忠と夙妻太夫の悲恋物語」から来ていると昔から言われている。
鎌倉幕府の武士中の武士と謳われた畠山重忠は、鎌倉への往還に途中の恋ヶ窪に泊まり、名妓夙妻太夫と恋仲であった。然し義経に従って平家追討している時、夙妻太夫は言い寄る男に「畠山は戦死した」と言われ、絶望し姿見の池に身を投じてしまった。
いつの世の中にも嫌な男は居るものだ。村人は夙妻の哀れな女心に同情し、手厚く葬り松を植えた。それが一葉松なのです。
その後無事帰ってきた重忠は、事の顛末に慟哭し「無量山道成寺」を建立し、阿弥陀如来像を安置して夙妻太夫の御霊を弔ったとのことです。

この伝説は儚くも美しく、ペンシルロケット・新幹線と並んで国分寺の誇るべき宝であると思っています。
この像は国分寺市に寄贈致し、北口再開発ビル開館時に、ウエスト5階に一時展示されました(写真)。

落語「崇徳院」は「一目ぼれして恋の病に陥った若旦那と大店の御嬢さんが、互いの名・所を知らず、崇徳院の上句だけを頼りに互いの出入り人が探しまくるお噺」です。最終場面では、床屋で双方出会い、喜びも束の間、今度はどちらの先に報告に行くかで揉み合い、床屋の鏡を壊してしまう。
床屋のオヤジが「どうしてくれるんだ!」、二人が「心配ない。割れても末に買わんとぞ思う」がオチとなります。
国分寺の陶人形も「割れずに」末永く展示されることを願っています。
(以上)


「姿見の池」にまつわる「恋ヶ窪」伝説

鎌倉の源頼朝に仕えた秩父の庄司:畠山重忠は鎌倉街道の恋ヶ窪宿で遊女:夙妻太夫と出会い、深く結ばれる仲となりました。 
重忠が平家追討のため西国へ旅立つ際に、夙妻太夫は重忠の身を案じ、一諸に連れて行って欲しいと頼みましたが、戦いに女性を連れてゆくことが出来ないため、重忠は一人で出征し、残された夙妻太夫は、毎日重忠の身を案じて暮らしていました。夙妻太夫に思いを寄せる男が、この二人の仲を裂こうと「重忠が戦いで討ち死にした」と嘘を告げると、夙妻太夫は悲しみにくれて、姿見の池に入水自殺をしてしまいました。
夙妻太夫の死を憐れんだ村人が手厚く葬り、墓印として松を植えると、その松は夙妻太夫の悲しみのために一葉になっていました。その後、戻った重忠が夙妻太夫の死を知り、供養のために、無量山道成寺を建立して、阿弥陀如来立像を安置しました。
(国分寺市観光協会・国分寺歴史・観光マップより)

お鷹の道 湧水園

 

湧水園は「お鷹の道」沿いにあり、国分寺崖線の豊かな自然を残しています。園内は、崖線の下から流れ出た湧水が池を作り、欅などの大木が生い茂るなど季節ごとに地域の原風景が楽しめます。
園の入口には、江戸時代後期の弘化5年(1848年)に建てられた旧国分寺村の名主の長屋門があります。また、園内の北には、自然のままの湧水源を観察できる場所もあります。
  「お鷹の道」は江戸時代、尾張徳川家の御鷹場だったことに由来して、名づけられた散策道です。国分寺市を代表する名所として親しまれ、四季折々の自然が楽しめます。湧水群の清流には、アブラハヤなどの小魚や、スジエビなどが生息し、ホタルの繁殖にも取り組んで」いる団体もあります。

 

姿見の池 (都名湧水57選)

鎌倉時代、恋ヶ窪は宿場町として栄え、遊女たちが池で朝な夕なに自らの姿 を映していたことから「姿見の池」と呼ばれるようになったと伝えられています。恋ヶ窪と言う地名の由来の一つとも言われています。
昭和に入り一度埋め立てられましたが、現在は緑地保全地区として整備され、かつての武蔵野の里山風景を見ることが出来ます。「武蔵野夫人」(大岡昇平著)に登場したほか、野鳥が観察できるスポットとしても人気の名所です。

 

真姿の池湧水群(東京都指定名勝、全国名水百選(昭和60年)、都名水57選)

 嘉祥元年(848)、絶世の美女・玉造小町が重い病気に苦しみ、国分寺の薬師如来に祈ると、一人の童子があらわれ池の水で清めるように言いました。
小町が身体を洗うとたちまち病気が治癒し、元の美しい姿に戻ったという伝承から、この池を「真姿の池」と呼ぶようになりました。この真姿の池湧水群などの国分寺市内の湧水は「野川」の源流です。「野川」は世田谷区の二子玉川で多摩川に合流しています。