幻の日本初! 旧石器時代の遺跡発見 

幻の日本初! 旧石器時代の遺跡発見     
                  山岸 信雄(記)

現在の国分寺市域で、人が住み始めたのはいつ頃であろうか。およそ3万5千年前からである。
市内最古の遺跡である「多摩蘭坂(たまらんざか)遺跡」(内藤一丁目1~3、5、8、9及び同二丁目1、2、11付近)から3万5千年前頃と推定される旧石器時代の集落跡や打製石器が出土している。国分寺崖線の崖の上に位置し、南向きで陽当たりが良く、崖下に水が湧き、周囲の樹林地から食料や燃料を調達でき、富士山を眺望する一等地だ。
市内にはこの外、熊ノ郷(くまのごう)遺跡、恋ヶ窪遺跡、多喜窪(たきくぼ)遺跡、殿ヶ谷戸(とのがやと)遺跡、本町遺跡、光町遺跡など数多くの旧石器時代の集落跡が発見されている。
我が国では、縄文時代より前の遺跡や遺物が戦前には出土しておらず、無土器の時代には、日本列島に人類は居住していなかったと考えられていた。ところが、昭和21年(1946年)、独学で考古学を学んだ相沢忠洋(あいざわただひろ)が群馬県の岩宿で関東ローム層の中から旧石器(黒曜石の槍先型石器)を発見し、24年に明治大学による正式な調査を経て発表された。これは従来の定説を覆して、日本に旧石器時代が存在したことを証明する大発見として脚光を浴びた。
実はこの発表の2年前の22年、国分寺住職で郷土史家の星野亮勝(ほしのりょうしょう)は、西恋ヶ窪四丁目1付近で、道路整備のため崖が削られ赤土が露出しているところで、赤土の層の中に石が横一列に並んでいる箇所から黒曜石を発掘した。星野は「縄文とは違う!」と、後に国立音楽大学で文化人類学を教授する考古学者の甲野勇(こうのいさむ)を訪ねて相談した。甲野は「とにかく現地に出かけて一緒に調べてみましょう」と約束したが、黒曜石を机の抽斗にしまうと、そのまま忘れてしまった。
このとき、甲野が詳細な調査を行い、いち早く発表していれば、第一発見者は星野になったのである。後年、甲野は「私はとんだミスをしでかしたわけである。最初の発見者の星野氏には何とも申し訳ないことをしたと、未だに後悔している」と著書の「武蔵野を掘る」で述べている。
星野が発見した遺跡が「熊ノ郷遺跡」である(下の写真)。熊ノ郷遺跡は、日本で発掘された最初の旧石器時代の遺跡となり、中高の歴史の教科書にその名を留め、星野は第一発見者として永く栄誉を称えられるとともに、全国から考古学ファンが国分寺市に押し寄せ、西恋ヶ窪三丁目交差点界隈は観光バスで溢れ、府中街道には土産物店や食堂が軒を連ね、市の税収も多少は潤うはずであった。が、すべては「幻の日本初!」で終わることとなった。

日本の戦闘機がB-29に体当たり。自宅の裏に墜落!

日本の戦闘機がB-29に体当たり。 自宅の裏に墜落

①  B-29への体当たり攻撃
私(島崎幸男)は昭和17年の5月の生まれで、記憶があるのは終戦の昭和20年からです。
昭和20年の春は3歳になる頃で、激しい空襲の記憶です。西町の自宅より西の立川飛行機の工場が赤く燃え上がっている光景を覚えています。 
B-29爆撃機が飛来し、日本は高射砲で反撃しますが1万メートルの上空には届きません。そこで、日本は飛行機で体当たりをしてB-29を落としました。
その体当たりされたB-29が北町の畑に墜落。その途中で現国分寺高校近くの畑に数発の爆弾を落としました。
B-29の消火で私の父が消防団で行きました。「米国の兵隊の弁当はジャガイモとグリンピース。大して良い物を食べてない」との話を後年聞きました。

一方、日本の体当たりした飛行機がひらひらとわが家に向かって落ちてきました。
急いで祖母と防空壕に入りました。しばらくして出て見たら、裏の荒井さんの崖線の上の畑に落ちて燃え上がっていました、ガソリンが燃えて流れ下り物置が燃えてしまいました。
その時、家族の人が麦俵を運び出していました。ちなみに、荒井さんの家は戦国時代よりの家で16代目です。

②  過給機
 後年、B-29は過給機が付いていて空気の少ない上空でも飛べた事を知り、日本は遅れていた事を理解しました。
 戦後、自動車用のターボ(過給機)ではMHI,IHIが世界の主力メーカーになり、更には船や飛行機用に日本で作っています。小さなエンジンで大きな出力をだせるからです。私も就職してジェットエンジンの設計と生産にかかわりましたが、過給機が主力のコンポーネントで航空機や天然ガスの発電機、更には災害時のポンプや電気の動力として使われています。

③  戦後の国分寺市
 戦後の国分寺は、町は国分寺駅の北側のみで殆どが農村でした。麦とサツマイモが主で、秋には俵に入れたサツマイモを道路に並べて宝焼酎のトラックで集めてました。又、各家に戦地より兵隊さんが帰ってくるのを時々見ました。
私の父の弟がシベリヤに抑留されなかなか帰らず、祖母が近くの寺のお地蔵さんにお参りに行くのが日課でした。
 立川の基地より米兵がジープに乗って来て、鳩を鉄砲でとっていました。
弁天通りは一面の草で、リヤカーの轍がわずかに残るだけでした。
                                          (記)島崎幸男

日本最初の宇宙ロケットの水平発射実験v2

日本最初の宇宙ロケットの水平発射実験

 

国分寺が誇る歴史的に貴重なものは多くありますが、その中でも武蔵国分寺、新幹線の研究・開発(リニアモーターカーも)及び日本最初の宇宙ロケットの水平発射実験が行われたことなどがトップに挙げられます。
今回は昭和30年に糸川英夫博士等東京大学生産技術研究所が南部銃製造所跡地(現早稲田実業学校)で行った我が国初の宇宙ロケット発射実験にまつわる話を紹介致します。
ご存知のことと思いますが、国分寺市本町の早稲田実業学校校門前には「日本の宇宙開発発祥の地」の記念碑があり、また東側に隣接して「王貞治氏第1号国民栄誉賞」記念碑もあります。
現在日本の宇宙開発の諸事業は世界トップレベルにあり、先頭集団を走っておりますが
この原点は宇宙ロケット開発のパイオニアと言われた糸川英夫博士です。彼は昭和10年(1935年)に東京大学を卒業後、中島飛行機時代には有名な隼(はやぶさ)、鐘馗(しょうき)などの戦闘機の設計に参画、また大学の航空研究所で空気力学や航空機の操縦安全性などを研究していました。戦後に入り一時期、航空が禁止されておりましたが、それも昭和27年(1952年)サンフランシスコ講和条約締結を機に解禁され、その後彼はすぐに宇宙ロケット開発に着手しました。当時の状況から費用が少なく、多くの実験回数と多くのデータ収集が出来る小さなロケットからスタートしました。最初は長さ23cm,直径1.8cm、重さ約200gのペンシルロケットでした。このペンシルは中島飛行機(富士重工)の荻窪工場のテストスタンドでの燃焼実験の後、昭和30年(1955年)3月、国分寺の工場跡地(現早稲田実業学校)の半地下試射坑にて水平発射実験が行われました。試射は延べ29回行われ、設備も不充分なためにペンシルロケットが突き刺さる砂壁の向こうには中央線が走っており電車が来ると中止したとか。やがて、水平試射を終え、秋田県道川海岸で斜め発射実験に進み、ロケットもペンシルから、ベビー、カッパーと移り、失敗も重ねながら宇宙開発技術を発展させ今日に至っています。
皆様ご承知の通り、2003年に糸川博士が設計に関与した戦闘機の名を冠した小惑星探査機「はやぶさ」が小惑星「イトカワ」を探査し、現場の物質を採取してオーストラリアに帰還したことは世界的に高く評価されています。
因に小惑星イトカワの地名の一つに宇宙開発の発祥の地「こくぶんじ・国分寺」が命名されているとのこと、我々市民にとって大変うれしい話です。

※写真は、クリックすると拡大表示されます。

国分寺駅と中央線の歴史

国分寺停車場(てんしゃば)の交通網の変遷
                                加藤 勝三(S29年 商)
明治5年(1872)新橋~横浜間に鉄道が開通した当時[駅]と呼んでいる施設を示す日本語はなく、ステーションと表現されていた。明治13年頃から、 [停車場]という言葉が用いられるようになるが、[駅]は古代以来の宿駅制の用語としての歴史を持っているため、明治22年町村制が施行され、旧来の駅が制度として廃止されるまで、鉄道施設としての呼び名として使うことは出来なかったようです。正式に法令用語として停車場や駅が定義ずけられたのは大正10年(1922)である。
明治18年3月新宿駅が開設されると、新宿~立川間の路線開設の請願が取り上げられ、甲武鉄道により測量が開始された。
当時町らしい所は府中、調布、田無ぐらいしかなく、鉄道も府中の明星学園あたりに駅を作る予定で測量を始めたところ、汽車の煙で[蚕]が死ぬ、汽車の煙突から出る火の粉が沿線の草屋根に降りかかり火事になると大反対運動が起こり計画変更、現在の位置に決定。停車場については中野-境-小金井-立川の予定だったそうですが、国分寺で駅の敷地を献納してもらえれば国分寺でも良いとのことだった。
そこで本村(東元町)の大地主小柳九一郎氏が6000坪といわれるほどの土地を犠牲にして敷地を確保献納、元市議小柳実氏の父親孫四郎氏の祖父である、小柳孫三郎氏が補足献納し国分寺停車場が誕生した。
かくして武州鉄道により、明治22年(1889)4月11日新宿へ立川間で営業が開始された。これは毎年4月中旬に大勢の人が訪れる玉川上水の桜見物を当て込んでの営業でもあった。

●明治22年8月八王子駅開設。
●明治27年には川越鉄道が国分寺~久米川間に開通。翌年には久米川~川越間(現西武新宿線)も開業し全線開通する。
●明治36年(1903)八王子~甲府間が国有の官設鉄道中央線として開通。
●明治39年には政府の鉄道国有化政策により国に買収され官設鉄道中央線の一部となり、明治44年(1911)には甲府~名古屋問が開業、中央線の全線が開通。
●明治43年多摩川の砂利運搬専業の東京砂利鉄道が国分寺~下河原問に開通。
●大正5年(1916)軍用鉄道になり、大正9年鉄道省に移管、下河原線となる。
●昭和9年(1934)府中競馬場が出来て、競馬場駅が開設され、競馬開催日に限り国分寺から乗客を輸送するようになった。

戦時下の昭和19年、沿線の軍需工場、東芝電気、日本製鋼などの通勤専用車として運行.昭和24年一般旅客者の運行を開始。昭和48年武蔵野線開通により西国分寺駅を開設、国分寺えの運行が打ち切られた。
中央線は新宿~国分寺間は大正11年に、更に立川までは昭和5年12月までに電化された。
多摩湖鉄道は、昭和3年(1928)に国分寺~萩山間、昭和5年には萩山~村山貯水池(現多摩湖)が開業。この鉄道は箱根土地会社が学園都市として開発を始めた小平学園への交通路の確保、村山貯水池の観光客誘致として施設されたといわれている。駅は現在とは違い、東国分寺~桜堤~商大予科前(一橋大学) ~小平学園~青梅街道であった。
中央線は大正11年に電化ざれたが、昭和30年頃まで蒸気機関車が走っていた。現在はSLといわれて人気があるが、当時は線路沿いの家では、洗濯物が汽車のすすで汚れてしまうので、苦労したと母親がよくこぼしていた。時代が変われば変わるものだとつくづく思う次第である。

国分寺てんしゃば(停車場)の集落の形成
                               加藤 勝三(S29年 商)

前回の交通網の変遷の記事の[てんしやば]は[ていしやば】の間違いではとの問い合わせがありましたが、 [てんしやば]のほうが勢いがよいとして使われたようである。
明治22年に甲武鉄道により開設された国分寺停車場の周辺はそれまでは人家もなく、山林が広がっていたといわれる。駅の開設により停車場(てんしやば)と呼ばれるしゆうらくが新たに形成され、現在では[本町]と呼ばれる地区が誕生した。江戸時代からの国分寺村の集落は駅からは離れ、南側部のハケ
(崖)を下りた場所今の[お鷹の道]付近にあり[国分寺本村]と呼ばれていた。
駅の出来た当初は、えきまえには国分寺本村や近隣に本家のある人達が移入してきた。
小柳九一郎氏が鉄道を利用する貨物の運送店を開き、弟さんが分家して店を継いだという。小柳孫三郎氏の弟夫婦が茶屋を開業し後に料理屋や旅館を営業するようになった。現在の[柳家]である。そのはか本村からは[糸苗亭][ぎゅうや]の料理店も22年に開かれた0 23年には府中より[百足屋]という足袋屋が出店、 26年には武蔵村山で村山大島の出機業を営む[中高]の娘夫婦が貫井新田(小金井)の茜屋という親戚の土地を借りて呉服の小売を始めた。
機万呉服店の前身である。
その後明治後期にかけて、越中屋肥料店、野川屋、浅見染物店、戸塚燃料店、野口魚店、茜屋材木店、越後屋、中久酒・雑貨店、矢野肥料店、森田屋酒店、桝田屋菓子店、古川時計店、鈴木米店、宍戸薪炭店等が続いた。
甲武鉄道の開通により、宿場として栄えていた府中も、街道を通る人や物が急激に減り、甲州街道を通っていた馬車の乗客も減り商売が立ち行かなくなっ
てきた。府中付近の人は国分寺駅から東京方面に出てゆくものが多くなり、国分寺まで馬車が通うようになり、ケヤキ並木のところに発着所が出来た。
馬車の交通が甲州街道から国分寺停車場とを結ぶ国分寺停車道(現国分寺街道)に代わり、人力車による往来も増えたという。乗合馬車が、国分寺・府中閏に開通したのは、川越鉄道が開通した明治28年であった。
国分寺停車場を経由して人や物が往来するようになった府中では、甲武鉄道との連絡が大きな関心事になり、明治35年(1902)には国分寺停車道の直線化や拡幅などの改修を行った。昭和初期まで、停車場の主要道路は府中へ向かう道であった。この道は今の東栄会大学通り(西友の通り)で200メートル先に踏み切りがあり、線路を越えて南へ向かい殿ヶ谷戸公園の東側の崖の脇を通り府中へと続く。当然商店も大半がこの駅前の道路沿いに出店していた。大正から昭和にかけて、そのほかの停車場周辺の道も整備され、現在の本町の主要道路の原型が出来上がっている。
大正2年には府中・国分寺間にバスが運行された。
府中との往来に利用された府中道では、中央線の踏み切りで自動車と列車の事故が多発した。昭和2年(1927)2月11日の東京新聞には、 [魔の踏み切りに最新式自動ベル]の見出しで、踏切事故防止のための警報機設置が報じられている。その後、昭和5年に踏み切りの東側に中央線のガードが出来、 [魔の踏
み切り]を閉鎖し、合わせて府中道の道筋を規在の位置に改修された。
大正時代に入ると電灯もつくようになり、別荘の建設が始まった。
今村別荘(現本町4丁目)江口(岩崎)別荘(現殿ヶ谷戸公園) 、天野別荘(現東元町) 、竹尾別荘(現東元町2丁目)など大正時代前半に集中している。
今村別荘は、今村銀行頭取の今村繁三氏の別荘で、屋敷内に守護神として正一位穀豊大明神が祭られておりました。本町の氏神である八幡神社の社殿は今村氏から譲り受けた稲荷社の祠を元にしてできあがったといわれており、現在の社地も戦後に今村氏から譲り受けた土地である。
大正5年( 1916)に国分寺停車場内で国分寺郵便局が郵便の集配業務を開始し、大正11年に電話が開通した。当初の加入者は局用を除き36件に過ぎなかった。昭和2年に東京商科大学(現一橋大学)が国立に移転してきたが、中央線は国分寺までしか電化されておらず。電車通学の学生は、国分寺より歩いて通学した。昭和4年(1929)には南部銃製造所が現早稲田実業の場所に設立され、現東京経済大学の場所に宿舎を含めた付属の建物が出来た。初期は軍事訓練用の銃を製造していたが、昭和11年(1936)に大倉財閥系の中央工業となり、拳銃・鄭弾簡・軽機関銃・戦闘機に搭載する機関砲などを作るようになった。従業員も終戦時には6000名を超えたという。
昭和15年8月に国分寺本村のハケ上(現東元町3丁目)に小林理化学研究所が創立、生産工場として小林理研製作所が並びに作られた。現リオンの前身である。昭和17年に日立中央研究所が発足。
昭和21年大倉経済専門学校(規東京経済大学)が中央工業敷地の一部(三晩南町1T目)に移転。同年、東京第二師範学校男子部(現東京学芸大学)も陸軍第三技術研究所の跡地(現小金井市貫井北町)に移転してきた。当時は国分寺駅の南口は開設しておらず、学芸大学の学生は勿論、東経大の学生も、北口から東に伸びる道(規西友前どおり)を通学路にしたので、この通りを[大学通り]と呼ばれるようになった。
昭和31年(1956)国分寺駅に南口が開設。明治22年(1989)に開設した国分寺駅や駅前に広がった町並みは、ここにきて近代的な都市空間に変革する必要性が高まってきた。
国分寺駅の改良は、昭和63年に南北自由通路を設置、平成元年に駅ビルがオープンし、平成2年西武多摩湖線ホームを移設するなど、事業が推進されて国分寺駅の様相を一変させた。更に国分寺駅北口の再開発事業も進められており、停車場(てんしやば)と呼ばれた町並みは、急激な変貌を遂げようとしている。

JR:国分寺駅・西国分寺駅の発車メロディ

この度、3月4日からJR中央線国分寺駅と西国分寺駅の発車メロディが変わりました。
国分寺駅は、国分寺で半生・40年を過ごした作曲家・信時潔の童謡「電車ごっこ」、西国分寺駅は「一番星見つけた」。

 武蔵野線西国分寺駅は“国分寺市の歌”が各々採用され、鳴り響いています。
信時潔は大阪出身で、父親は牧師で幼い時から讃美歌に親しみ、東京芸術大、ドイツ留学、芸大教授を経て、作曲部創設に尽力。作品は1000曲以上で、「海ゆかば」「紀元二千六百年頌歌」、文部省唱歌「電車ごっこ」「花火」等々。戦前戦後を通じて学校の音楽教科書の編纂や監修にも力を注ぎ、校歌・社歌・団体歌等の作曲も数多く手がけています。
国分寺市立小中学校の校歌作曲も多数あり、国分寺市内15校中6校(第一~第四小学校、第一・第二中学校)の校歌を作曲、6万人の生徒がこの校歌を胸に卒業しています。他に灘、桐朋、桜蔭高、慶応義塾、学習院、成蹊、専修大学など多々あります。
「電車ごっこ」の発車メロディは電車の駅風景として出来すぎ位にマッチしており、国分寺として誇れるものです。因みに近隣の発車メロディは武蔵小金井が“さくらさくら”小金井堤の関連、駒込も同じで、染井よしの発祥の地の関連。三鷹が“めだかの学校”、豊田が“たきび”、八王子が“夕焼け小焼け”、高田馬場が“鉄腕アトム”となっており、後れ駆せながら国分寺駅での楽しみが増えました。
この発車メロディは国鉄時代の1970年代後半から電子音のベル(「ピロピロピロ」という音)を使用していましたが、耳障りであるなどと不評であった為、1989年新宿駅と渋谷駅に導入し、順次採用、実施されています。
電車ごっこ(井上赳作詞)「運転手は君だ 車掌は僕だ、あとの4人が 電車のお客 お乗りはお早く動きます ちんちん・運転手は上手 電車は早い 次は上野の公園前だ お乗りはお早く動きます ちんちん」
一番星見つけた(生沼勝作詞)「一番星見つけた あれあの森の 杉の木の上に 二番星みつけたあれあの土手の 柳の木の上に 三番星見つけた あれあの山の上に 松の木の上に」
                                            清水元(記)

国分寺の歴史 「電気が供給された日」

電灯(イラスト)1914年(大正3年)10月1日、国分寺村に初めて電灯が灯りました。 
行灯やランプの生活に慣れた村の人達は、その明るさに驚き目を見張りました。
国分寺村に電気が供給されたのは、北多摩郡の中では前年に供給された府中町・調布町・西府村・多磨村に次いで早かったのです。しかし、電気が供給されたからと云って、村の家全てに電灯がついた訳ではなく、だんだんと増えていったのです。
当時、電気の供給は今の東京電力ではなく、京王電気軌道会社(現京王帝都電鉄)でした。京王電気軌道会社は、1913(大正2)年4月、笹塚・調布間に電車運転を始めると同時に、電気供給事業も行いました。つまり、京王電車が開通したおかげで、国分寺村をはじめ、北多摩郡の各町村に電気が供給される様になったのです。けれども、いくら電気が供給されたからと云っても、今の様にラジオ、テレビ、洗濯機、掃除機など家庭用電気製品があろうはずも無く、全て電灯用のものでした。
ところで、当時の電気の供給に当たっては、現在使われているメートル制と定額制のどちらかを選ぶシステムになっていました。電灯の数を多くすれば、電気の使用量の多少によって料金を支払うメートル制で、1~2灯と電灯の数が少なければ、使用量もそう多くならないので毎月一定額の料金を払えばよい定額制となっていました。ですから、メートル制を選んだ家は僅かで、定額制が殆どでした。しかも、電灯のつくのは夕方から朝迄で、昼間はつかず、使用した電球にしても40ワットか20ワットが多く、居間には40ワット、廊下や蚕室などは20ワット電球を使った様です。今の照明から考えれば随分と暗いように思えますが、それでもランプに比べれば遥かに明るかったのです。最初電灯を引かなかった家でも、ランプよりはずっと良いと云うので、その後4年位の間に殆ど全村に引かれる様になりました。

ランプ(イラスト)それでは、ランプを使っていた頃、村の人達の生活はどうだったのでしょうか。 
1897(明治30)年頃迄は、手ランプが使われていましたが、その後、柱などに吊るす事ができる「つるしランプ」が使われました。この頃からランプには石油が使われる様になり、なたね油を使った手ランプとは、比べものにならない程明るくなりました。ランプを使っていて困るのは油切れです。石油が足りないと気付きますと、それを夕暮れ近くになってから一升(1.8リットル)瓶をさげて石油を買いに走らされるのは子供でしたし、ランプを少しでも明るくするために、日暮れになると手をすすで真っ黒にしてランプのほや掃除をするのも、大抵は年寄りか子供の仕事でした。
当時は、火災が怖いので、寝る時はランプの灯りを全て消してしまうので、月のない夜などは村中真っ暗闇で、急用で夜道を行く時、いくら提灯を持ったとしても相当に怖かったようです。今の市内の明るさからみれば、想像もつかない程の暗さだったのです。
                                     (記)田中康義[S-35 政経]
 協力:国分寺市教育委員会、峯岸桂一氏 /参考資料:市の刊行物より

小説の中の「国分寺」

小説の中の「国分寺」

 

 大岡昇平の代表作の一つに「武蔵野夫人」という小説があります。この小説、国分寺とその周辺を舞台に書かれた恋愛小説として有名です。この小説の書かれたのは、昭和20年代で、当時、作者は小金井に住んでいて、国分寺周辺をよく散策していたようで、我々には馴染みの深い場所が随所に出てきます。小説の第1章のタイトルは、「ハケに住む人々」で、中ほどには「恋が窪」という章もあります。小説の時代設定は戦後間もない昭和22,3年頃とのことですから当然かも知れませんが、この小説の中では、国分寺周辺が今では考えられないような武蔵野の自然が残るのどかな田園風景の広がる土地として描かれています。
 小池真理子の作品に「狂王の庭」という長編小説があります。これも国分寺にある大邸宅と庭園を舞台に繰り広げられる恋愛小説です。時代は「武蔵野夫人」より少し後、昭和27年頃になっています。これら小説にあるような情景も都市化とともに大きく変貌してゆきます。昔からこの地域に住んでいる人によると、都市化が急激に進んだのは、昭和40年代中頃からではないかとのことです。
 城山三郎の「毎日が日曜日」という小説があります。商社マンの転勤や定年を書いた小説で昭和50年代のはじめに出版され、当時のベストセラーになっています。この小説に国分寺が登場します。大手商社に勤務する主人公の自宅が、郊外の国分寺市という設定になっています。長い海外勤務を終え東京に戻った主人公が京都支店長に任命され、家族(妻、子供2人)を残して、京都に単身赴任します。東京、大阪に比較すれば、京都での勤務は毎日が日曜日″だなと、口の悪い同僚に皮肉られながら慣れぬ仕事に取り組むことになります。一方、留守宅の国分寺では、長男は小金井の高校に、小学生の長女は高田馬場にある帰国児学校に通学することになりますが、二人とも新しい環境への適応に苦労します。留守宅の設定が国分寺市になったのは、この当時、この地域が都心に通う人たちの代表的な町の一つになっていたということだろうと思います。
 椎名誠の著書に「サラバ国分寺書店のオババ」というエッセイ集があります。これも昭和50年代のはじめに書かれたものです。当時、作者はサラリーマンで小平市の津田町(津田塾大の近所)に住み、国分寺駅を経由して都心に通っていました。毎日利用する国分寺駅、駅前の交番、駅周辺の古本屋、ラーメン屋等での出来事を鋭い観察眼でユーモラスなエッセイにしています。本の題名となっている「サラバ国分寺書店のオババ」はその中の一つです。この古本屋、駅南口にあったそうですが、もちろん現在は残っていません。
 今年のノーベル文学賞はボブ、ディランに決まりました。今年も受賞ならず、多くの村上春樹フアン(ハルキスト)がガッカリしました。同氏は早稲田大学(文学部)在学中に国分寺南口にピーター。キャットというジャズ喫茶をやっていたことがあり、国分寺には縁がある作家です。代表作の一つ「ノルウェイの森」にも国分寺は登場します。主人公のガールフレンドは武蔵野の外れにある女子大に通い、国分寺のアパートで一人暮らしをしている、という設定になっています。
 このように、国分寺は過去いくつかの小説の舞台として登場しています。
 急速に都市化が進む中でも、何となくローカルな所が残る、この町の持つ歴史と雰囲気が小説の舞台になりやすいのかも知れません。
                                   青木 壯司  記

国分寺市の野鳥

「国分寺市の野鳥」

 国分寺市は、平成26年に市制施行50周年「未来へはばたく年」を記念して国分寺市の鳥として「カワセミ」を制定しました。カワセミは、市内にある都立武蔵国分寺公園の池・姿見の池・日立中央研究所構内の池などで一年中、高い頻度で見ることができます。カワセミ以外に、国分寺市内では50種類くらいの野鳥を観察できることにお気付きでしょうか?
 私が所属する国分寺バードウオッチングクラブ(KBWC,1987年創立,会員数75名)は、2003年より都立武蔵国分寺公園において毎月早朝に野鳥の定期観察を継続しており、また市内・日立中央研究所構内の野鳥観察も定期的に実施しております。この観察で得られたデータに基づき国分寺に生息する野鳥についてお話してみましょう。
 市内のあらゆる場所で常時観察される野鳥は、観察頻度順にならべると、ヒヨドリ,ハシブトガラス,キジバト,シジュウカラ,メジロ,ハクセキレイ,ハシボソガラス,スズメ,ムクドリ,オナガ,ツバメ(夏季)などです。また、武蔵国分寺公園・黒鐘公園・日立中央研究所・市内に残存する樹木が多い所では、コゲラ,エナガ,カワラヒワ,冬季にはツグミ,シメ,モズ,イカル,アオジなども比較的高い確率で観察でき、また、ヤマガラ,アオゲラ,カケス,ジョウビタキ(冬季),シロハラ(冬季),カシラダカ(冬季),キセキレイ,セグロセキレイなども運が良ければ遭遇することができます。 
武蔵国分寺公園・姿見の池・中央研究所内池などの水場では、常時カルガモがおり、マガモ,カワセミ,カイツブリ,コサギ,上空には多摩川あたりから飛来するカワウの姿も確認でき、夏場には、市内の随所でカッコウの声を聞くこともできます。市民プールそばのエックス山、中央研究所構内、史跡通りなどでは肉食系猛禽類のツミを観察でき、上空にはオオタカの姿も垣間見ることができます。ダイサギなども見る機会も高く、姿見の池ではオシドリ・クイナが観察されたこともあります。

(写真:カルガモとオシドリ(姿見の池)2015.12)
 観察記録をたどってみると、国分寺市内の野鳥の種類は減少していませんが、宅地化で林・畑などが減少している影響か、野鳥の観察される頻度と数量は、毎年漸少の傾向にあることがうかがえます。
 野鳥の細かな羽色・雌雄の区別などを観察するには、20~40倍のフィールドスコープが必要となりますが、姿・種類を判別し野鳥の美しさ・かわいらしさを楽しむなら、倍率8倍程度の双眼鏡でも充分です。
 都内でもいまだ武蔵野の面影が残存し、数多くの野鳥が観察できる国分寺の地で、野鳥観察を体験されたらいかがでしょうか? 心豊かなひと時と新たな美の世界が広がるはずです。
(S43年理工学部卒、国分寺稲門会副会長、国分寺バードウオッチングクラブ代表幹事 中山斌雄)

関連サイト:国分寺バードウオッチングクラブ(KBWC)ホームページ
写真集:国分寺市内で観察される主な野鳥の写真

 

「国分寺市の鳥」とマンホール

「市の鳥」をご存知でしょうか?
国分寺市は、市制施行50周年「未来へはばたく年」を記念して2014年11月3日に市の鳥として「カワセミ」を制定しました。
カワセミは「飛ぶ宝石箱」 といわれる美しい野鳥で、市内では武蔵国分寺公園池・姿見の池などで頻繁に観察されます。小枝にとまり、狙いをさだめて魚・エビなどを一気に急降下して捕らえます。空中でのホバリングも得意です。
国分寺市では「カワセミを図案化したマンホール蓋」を市内に設置しています。現在、姿見の池、市役所周辺で見ることができます。
ちなみに、市の木は「けやき」、市の花は「さつき」。
国分寺市は「爽やかなケヤキの葉音が聞こえ、サツキの花が咲きほこる小道の先に、カワセミが住む池がある」というイメージでしょうか。

    武蔵国分寺公園 カワセミ   市役所前のマンホール(左の写真を図案化したもの)
  (写真:国分寺バードウオッチングクラブ 国竹  正之氏 撮影)

                      (記)中山斌雄(国分寺稲門会幹事、国分寺バードウオッチングクラブ会長)

江戸時代、国分寺は月の名所だった

江戸時代、国分寺は月の名所だった

 大久保狭南は元文2年から文化6年(1736~1809)江戸後期の儒学者で幕臣。後年は狭山丘陵、入間郡山口(所沢市山口)に住んで郷土史を研究したという。
 大久保狭南が残している『武蔵八景』に「立野月出」として国分寺の秋を描写している一文がある。次のような漢詩を添えている。
「平野秋夕暮 草深多露濡 偏憐月出景 滿地如連珠」
『平野に秋晴れの夕べ 草深く濡れること多し 偏に愛でる月の出の景色見渡す限り連珠の如し』 
「立野月出」 「立野の月の出」は武蔵野八景の一つで月の名所であるといい、次いで「立野は一か所を指していうのではなく、ここでは府中より北、国分寺に到るまでの半里、左右の平原がこれである。昔、馬を曳いて府中の市に来た者はここで宿泊して、馬を立てたのでこの名がある
 今は府中街道の両側には、府中刑務所や東芝の工場はじめ家々がびっしりと建て込んでいるが、当時西の方は遠く山々が連なり、そのまた向こうに霊峰富士の山を仰ぐことが出来たのであろう。

 また、西国分寺駅より南に旧鎌倉街道と言われる道を1㎞あまり下るところの左手に小高い丘がある。塚のような高さ5m程の山であるが、狭南の言うところの“富士塚”であろうと思われる。また続けて「この塚に登れば一目で千里見渡せる。東は遥かに天地が接するのを見るばかり、秋晴れの夕べに月の出の光が草の間から生まれ、古歌に歌われた情景は幻ではない。そのために中秋の月の出を見に来る人が多い
 「この塚から東の方向に国分寺の甍が見える。国分寺に仁王門の跡がある。礎石の石があり大きいのに驚く。あたりには古い瓦の破片が沢山あり、国分寺はその昔大伽藍であったことが明らかである」と説明している。
 今この塚に上って東を見ても、あるいは西の方を見ても昔の情景は想像だに難しく、ただぎっしりと並んだ家並とビル群の林立を見るのみである。  
 200年前の国分寺や府中のたたずまいは、書物の中で眠っているだけである。

 因みに400年前の、林 羅山の漢詩にも同様の情景を歌っている。
 「武野晴月」と題して
『武陵秋色月嬋娟 曠野平原晴快然 輾破青青無轍迹 一輪千里草連天』
武蔵野は秋の月が美しい、草の原が続き、ただ丸い月が千里を照らし輝いている
と。

(記)眞宅康博

 

東京の重心・へそは「国分寺市」

北海道富良野市は北海道の丁度中央に位置して「へその町」なんて言われていますが、東京の重心・へそは何処でしょうか。
(財)日本数学検定協会が算出した結果、東京都の島嶼部分を除いた本土が1枚の平らな板だとして、この板を指に載せてたった1か所だけバランスがとれる所=東京都の重心・へそに当たるのが、国分寺市富士本3丁目あたりだそうです。
 
 国分寺市立富士本「90度公園」(国分寺市富士本3-19-11)の脇にその旨を記した看板(右の写真)も立っています。住宅街にあるごく普通の公園ですが、直角に曲がる道の角に沿うように公園の形が90度に曲がっているためにつけられた名称とのこと。
国分寺市は東京の重心・おへそです。