国分寺駅(停車場)と中央線の歴史

                                   (記)加藤勝三(昭和29年 商学部卒) 
   明治5年(1872年)新橋~横浜間に鉄道が開通した当時、「駅」を示す日本語が無くて「ステーション」と表現されていた。明治13年頃から「停車場」と言う言葉が用いられるようになる。しかし「駅」は古代以来の宿駅制の用語としての歴史を持っている為、明治22年に町村制が施行されて「旧来の駅の制度が廃止」されるまで、鉄道施設としての呼び名として使う事は出来なかったようである。正式に法令用語として停車場や駅が定義付けられたのは大正10年(1922年)である。
 明治18年3月新宿駅が開設されると、新宿~立川間の路線開設の請願が取り上げられ、甲武鉄道により測量が開始された。
当時、町らしい所は府中・調布・田無くらいしかなく、鉄道も府中の明星学園あたりに駅を作る予定で測量を開始。しかし「貴社の煙で蚕が死ぬ」「汽車の煙突から出る火の粉が沿線の草屋根に降りかかって火事になる」との大反対運動が起きて計画変更し、現在の位置に決定。
停車場については中野~境~小金井~立川の予定だったそうだが「国分寺で駅の敷地を献納してもらえれば国分寺でも良い」との事。そこで本村(東元町)の大地主:小柳九一郎氏が6000坪と言われるほどの土地を犠牲にして敷地を確保・献納。元市会議員:小柳実氏の曽祖父:小柳孫三郎氏が補足献納して「国分寺停車場が誕生」した。
 
 写真は、(左)当時の国分寺停車場、(右)中央線開業。

かくして武州鉄道により、明治22年(1889年)4月11日新宿~立川間で営業が開始された。これは毎年4月中旬に大勢の人が訪れる玉川上水の桜見物を見込んでの営業でもあった。
・ 明治22年8月、八王子駅開設
・ 明治27年、川越鉄道が国分寺~久米川間を開通。翌年、久米川~川越間も開通し現在の西武新宿線が全線開通。
・ 明治36年(1903年)、八王子~甲府間が国有の官設鉄道中央線として開通。
・ 明治39年、政府の鉄道国有化政策により国に買収され官設鉄道中央線の一部になり、明治44年に甲府~名古屋間が開業して中央線の全線が開通。
・ 明治43年、多摩川の砂利運搬専業の東京砂利鉄道が「国分寺~下河原」間に開通。大正5年(1916年)、軍用鉄道になり大正9年鉄道省に移管。下河原線となる。
・ 昭和9年(1934年)、府中競馬場が出来て「競馬場駅」が開設。競馬開催日に限り国分寺から乗客を輸送するようになった。戦時下の昭和19年、沿線の軍需工場・東芝・日本製鋼などの通勤専用車として運行。昭和24年、一般旅客者の運行を開始。昭和48年、武蔵野線開通により「西国分寺駅」を開設。上記の国分寺への運行が打ち切られた。
中央線の電化は大正11年に新宿~国分寺間、昭和15年12月までに立川まで実施された。
多摩湖鉄道は、昭和3年(1928年)に国分寺~萩山間、昭和5年に萩山~村山貯水池(現、多摩湖)が開業。この鉄道は箱根土地会社が学園都市として開発を始めた「小平学園」への交通路の確保、「村山貯水池」への観光客誘致として施設されたと言われている。駅は現在とは違い、東国分寺~桜堤~商大予科前(一橋大学)~小平学園~青梅街道 であった。
中央線は大正11年に電化されたが、昭和30年頃まで蒸気機関車が走っていた。現在はSLと言われて人気があるが、当時は線路沿いの家では「洗濯物が汽車のススで汚れてしまうので苦労した」と母親がよくこぼしていた。時代が変われば変わるものだと、つくづく思う次第である。
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