『国分寺 と 玉川上水の分水』 その3(最終回)
私的見解 眞宅康博
【その後の武蔵野】
享保年間の吉宗によって武蔵野開拓開発が進められたが、その成果は武蔵東部に比べてきわめて乏しいものであった。というのも武蔵野台地は気象的にも地形的にも水田稲作には
不向きであって、更に武蔵野の土地は関東ローム層のやせた土地だから、そのままでは畑作にも不向きであった。この土地が畑として農作物が出来るには水と肥料が必要なのだ。
『水』は玉川上水からなんとか分水が出来たが、肥料は解決されないでいた。
『肥料』は、ハッキリ言えば『人糞』である。
大量の人糞があるのは江戸である。しかし、人糞を江戸から運ぶには舟を使う。
この水運・船運が発達していたのは武蔵東部であった。西部にはこれといった川ない。そのため江戸時代は、東部では江戸の需要を当て込んだ野菜栽培など近郊農業が盛んになっていた。西部の武蔵野では、こういう農業が不可能であった。
この状態が長く続いた武蔵野の村人は、雑木で炭を作ったり、芋を栽培して主食にし、芋だけでは生きてゆけないので、八王子の市で原綿(練り綿)を買ってきて、それを女性たちが木綿布に織って八王子で売って現金を得る、男は焼いた炭を大八車で五日市の市に持っていって売りながら生計を立てていた。炭を江戸に運べば高く売れたが、大量に運ぶには残念ながら水運がなかったので、東の新河岸まで運んで船便を使った。
【近代の武蔵野と都市化】
このような武蔵野が本格的に開発されるのは、明治に入って鉄道が敷設されてからであった。甲武鉄道、のちの中央線がこれである。また国分寺~川越線、後の西武鉄道網などによって都内から人糞を大量に運ぶことが可能となり、武蔵野西部でも近郊農業が発達した。
そして、この武蔵野が現在のように都市化するのは、1964年の東京オリンピックの頃からである。高度経済成長で東京が急膨張すると、武蔵野は勤労者の住宅地として開発され、現在のような閑静な住宅都市になった。国分寺市は周辺都市が人口減に移行しているにも拘らず、今人口増に転じ、12万余に増えている。
なお、現在国分寺市の市民は、生活水を東京都の管理する水道水を利用しているが、そのほとんどは市内の各所にある深井戸の地下水で賄われていることをご存じだろうか。
国分寺は水と緑の豊富な街として、また歴史の街として誇りたい町である。国分寺をこの地に決めた条件は、風水によると言われている。災害も少なく住み易い町、安心・安全の街づくりでは他の自治体の視察の対象となっている。
こういう歴史を見てゆくと、武蔵野の西部地区は日本全体から見廻しても極めて古くて新しい町だと言えるのではなかろうか。
(完)