国分寺の歴史 「電気が供給された日」

電灯(イラスト)1914年(大正3年)10月1日、国分寺村に初めて電灯が灯りました。 
行灯やランプの生活に慣れた村の人達は、その明るさに驚き目を見張りました。
国分寺村に電気が供給されたのは、北多摩郡の中では前年に供給された府中町・調布町・西府村・多磨村に次いで早かったのです。しかし、電気が供給されたからと云って、村の家全てに電灯がついた訳ではなく、だんだんと増えていったのです。
当時、電気の供給は今の東京電力ではなく、京王電気軌道会社(現京王帝都電鉄)でした。京王電気軌道会社は、1913(大正2)年4月、笹塚・調布間に電車運転を始めると同時に、電気供給事業も行いました。つまり、京王電車が開通したおかげで、国分寺村をはじめ、北多摩郡の各町村に電気が供給される様になったのです。けれども、いくら電気が供給されたからと云っても、今の様にラジオ、テレビ、洗濯機、掃除機など家庭用電気製品があろうはずも無く、全て電灯用のものでした。
ところで、当時の電気の供給に当たっては、現在使われているメートル制と定額制のどちらかを選ぶシステムになっていました。電灯の数を多くすれば、電気の使用量の多少によって料金を支払うメートル制で、1~2灯と電灯の数が少なければ、使用量もそう多くならないので毎月一定額の料金を払えばよい定額制となっていました。ですから、メートル制を選んだ家は僅かで、定額制が殆どでした。しかも、電灯のつくのは夕方から朝迄で、昼間はつかず、使用した電球にしても40ワットか20ワットが多く、居間には40ワット、廊下や蚕室などは20ワット電球を使った様です。今の照明から考えれば随分と暗いように思えますが、それでもランプに比べれば遥かに明るかったのです。最初電灯を引かなかった家でも、ランプよりはずっと良いと云うので、その後4年位の間に殆ど全村に引かれる様になりました。

ランプ(イラスト)それでは、ランプを使っていた頃、村の人達の生活はどうだったのでしょうか。 
1897(明治30)年頃迄は、手ランプが使われていましたが、その後、柱などに吊るす事ができる「つるしランプ」が使われました。この頃からランプには石油が使われる様になり、なたね油を使った手ランプとは、比べものにならない程明るくなりました。ランプを使っていて困るのは油切れです。石油が足りないと気付きますと、それを夕暮れ近くになってから一升(1.8リットル)瓶をさげて石油を買いに走らされるのは子供でしたし、ランプを少しでも明るくするために、日暮れになると手をすすで真っ黒にしてランプのほや掃除をするのも、大抵は年寄りか子供の仕事でした。
当時は、火災が怖いので、寝る時はランプの灯りを全て消してしまうので、月のない夜などは村中真っ暗闇で、急用で夜道を行く時、いくら提灯を持ったとしても相当に怖かったようです。今の市内の明るさからみれば、想像もつかない程の暗さだったのです。
                                     (記)田中康義[S-35 政経]
 協力:国分寺市教育委員会、峯岸桂一氏 /参考資料:市の刊行物より