恋ヶ窪恋物語

恋ヶ窪恋物語
                         谷田成雄(記)、野部明敬(補記)
皆様ご存知の落語「崇徳院」は、
百人一首「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の割れても末に会わんとぞ思う(崇徳院)」に題材をとった若い男女のめでたしめでたしの恋物語ですが、こちらの方は悲恋物語です。
エピソードを交えた谷田成雄氏の文でご紹介します。

恋ヶ窪の伝説(抜粋、一部加筆)
10数年前、御殿場のスペイン陶人形で有名なリヤドロの店で「サムライの別れ」と題する「馬に跨った鎧を着た武士が和服の麗人と別れるシーンを象った大きな陶塑」が目に飛び込んで来た。
一目見るなり「恋ヶ窪に伝わる畠山重忠と遊女・夙妻太夫の悲恋物語」から題材を取ったと感じた。聞いてみると「もう廃盤になり在庫はこれしかない」という。
考えてみると戦場に赴く人を送るこのシーンは人類の永遠のテーマで、子供の頃に出征軍人を送ったことが思い出された。勿論、戦争末期には送る人も少なく帰らぬ人が多かった。
色々なことが連想されたが、兎に角国分寺のためにも買っておかねばならぬと思った。
それは、いつか国分寺駅北口再開発が出来たとき、昭和19年以来住んで居る「第二の故郷:国分寺市にこの像を寄付しよう」と思ったからである。
私、谷田成雄が最初に住んだのは、恋ヶ窪4丁目の6畳一間であった。
戦後食糧不足の折、農家は潤っており、各部落のお祭りは競い合って盛んに行われた。背中一面に丸く囲った戀の字の半纏を纏って、ささくれ立った青竹を地面に叩きつけながら喚く様は中々迫力があった。
然し、戀ヶ窪の「戀」の字には参った。中学で住所変更を書けと言われたが、戀の字が思い出せず、戀ケ窪を変が窪と書いてしまった。そしたら国語の先生に「へんがくぼ・・・、変な地名だな」と言われた。これは思い出しても汗顔の至りである。
この戀ケ窪の地名は「畠山重忠と夙妻太夫の悲恋物語」から来ていると昔から言われている。
鎌倉幕府の武士中の武士と謳われた畠山重忠は、鎌倉への往還に途中の恋ヶ窪に泊まり、名妓夙妻太夫と恋仲であった。然し義経に従って平家追討している時、夙妻太夫は言い寄る男に「畠山は戦死した」と言われ、絶望し姿見の池に身を投じてしまった。
いつの世の中にも嫌な男は居るものだ。村人は夙妻の哀れな女心に同情し、手厚く葬り松を植えた。それが一葉松なのです。
その後無事帰ってきた重忠は、事の顛末に慟哭し「無量山道成寺」を建立し、阿弥陀如来像を安置して夙妻太夫の御霊を弔ったとのことです。

この伝説は儚くも美しく、ペンシルロケット・新幹線と並んで国分寺の誇るべき宝であると思っています。
この像は国分寺市に寄贈致し、北口再開発ビル開館時に、ウエスト5階に一時展示されました(写真)。

落語「崇徳院」は「一目ぼれして恋の病に陥った若旦那と大店の御嬢さんが、互いの名・所を知らず、崇徳院の上句だけを頼りに互いの出入り人が探しまくるお噺」です。最終場面では、床屋で双方出会い、喜びも束の間、今度はどちらの先に報告に行くかで揉み合い、床屋の鏡を壊してしまう。
床屋のオヤジが「どうしてくれるんだ!」、二人が「心配ない。割れても末に買わんとぞ思う」がオチとなります。
国分寺の陶人形も「割れずに」末永く展示されることを願っています。
(以上)