幻の日本初! 旧石器時代の遺跡発見 

幻の日本初! 旧石器時代の遺跡発見     
                  山岸 信雄(記)

現在の国分寺市域で、人が住み始めたのはいつ頃であろうか。およそ3万5千年前からである。
市内最古の遺跡である「多摩蘭坂(たまらんざか)遺跡」(内藤一丁目1~3、5、8、9及び同二丁目1、2、11付近)から3万5千年前頃と推定される旧石器時代の集落跡や打製石器が出土している。国分寺崖線の崖の上に位置し、南向きで陽当たりが良く、崖下に水が湧き、周囲の樹林地から食料や燃料を調達でき、富士山を眺望する一等地だ。
市内にはこの外、熊ノ郷(くまのごう)遺跡、恋ヶ窪遺跡、多喜窪(たきくぼ)遺跡、殿ヶ谷戸(とのがやと)遺跡、本町遺跡、光町遺跡など数多くの旧石器時代の集落跡が発見されている。
我が国では、縄文時代より前の遺跡や遺物が戦前には出土しておらず、無土器の時代には、日本列島に人類は居住していなかったと考えられていた。ところが、昭和21年(1946年)、独学で考古学を学んだ相沢忠洋(あいざわただひろ)が群馬県の岩宿で関東ローム層の中から旧石器(黒曜石の槍先型石器)を発見し、24年に明治大学による正式な調査を経て発表された。これは従来の定説を覆して、日本に旧石器時代が存在したことを証明する大発見として脚光を浴びた。
実はこの発表の2年前の22年、国分寺住職で郷土史家の星野亮勝(ほしのりょうしょう)は、西恋ヶ窪四丁目1付近で、道路整備のため崖が削られ赤土が露出しているところで、赤土の層の中に石が横一列に並んでいる箇所から黒曜石を発掘した。星野は「縄文とは違う!」と、後に国立音楽大学で文化人類学を教授する考古学者の甲野勇(こうのいさむ)を訪ねて相談した。甲野は「とにかく現地に出かけて一緒に調べてみましょう」と約束したが、黒曜石を机の抽斗にしまうと、そのまま忘れてしまった。
このとき、甲野が詳細な調査を行い、いち早く発表していれば、第一発見者は星野になったのである。後年、甲野は「私はとんだミスをしでかしたわけである。最初の発見者の星野氏には何とも申し訳ないことをしたと、未だに後悔している」と著書の「武蔵野を掘る」で述べている。
星野が発見した遺跡が「熊ノ郷遺跡」である(下の写真)。熊ノ郷遺跡は、日本で発掘された最初の旧石器時代の遺跡となり、中高の歴史の教科書にその名を留め、星野は第一発見者として永く栄誉を称えられるとともに、全国から考古学ファンが国分寺市に押し寄せ、西恋ヶ窪三丁目交差点界隈は観光バスで溢れ、府中街道には土産物店や食堂が軒を連ね、市の税収も多少は潤うはずであった。が、すべては「幻の日本初!」で終わることとなった。


 

紅茶にまつわる話・続

紅茶にまつわる話・続

  (記)日本紅茶協会 元専務理事 清水元

紅茶にまつわるお話を、9つの話題+αにまとめました。
長文ですが、紅茶でも飲みながらごゆっくりどうぞ。

その1.お茶の歴史と普及
先に触れましたが、茶の起源は伝説的には、紀元前2737年神農伝説に始まる-神農(シェンナン皇帝)生水は万病のもとの考えから、「煮立てて飲むべし」という事で、庭で大きな釜を使い、生水を煮立てていたところ、偶然にも数枚の葉が湯に落ち、その結果、その葉から、優雅な香りと素晴らしい味を発見した、これが野生の茶の発見と言われている。
また、510年頃インドの達磨大師が面壁九年の修行中5年目に眠気をもよおし、そばの木の葉を噛んだ処、眠気が去り不眠の苦行を成し遂げたという伝説もある。この葉が茶であったと云われている。

その2.紅茶の木や緑茶の木があるわけではない。
茶の学名はカメリアシネンシスで中国種とアッサム種の2種になる。
「チャ」は椿や山茶花の仲間で、ツバキ属ツバキ科の永年性の常緑樹で、学名は「カメリア・シネシンス」という。お茶はこの新芽や若葉、および柔らかい茎などを主な原材料とした世界的な飲料である。茶は製茶法からみて、発酵の程度の違いにより、発酵させないもの、『不発酵茶―緑茶』、発酵させているもの『発酵茶―紅茶』、半分程度発酵させているもの『半発酵茶―烏龍茶』の3つに区分される。
現在では1986年にISO3720で紅茶の定義は上記のように国際的に規定されている。
緑茶のISO定義は現在検討中で未だ検討案の段階と聞いている。

その3.世界的飲料としての伝播は
既報の通り、16世紀の大航海時代に入り、ポルトガルなどがキリスト教を世界に広める為とコショーに代表される香辛料の獲得が目的で世界に進出。先発のポルトガル人は15世紀からセイロン、ジャワ、中国へ出入し、且つ茶と茶器を中国人から知らされていたが「茶」については特段の興味を持たなかった。一般的な茶のヨーロッパへの伝来はオランダ人が長崎平戸から日本茶、広東省マカオから中国茶を買い付け本国に送りつけたのが1610年頃、(当時のオランダでは音を立てて茶を綴る習性まで日本から伝えられた事になっている)。17世紀初1,602年にオランダは「連合東インド会社」を設立し東方貿易に力をいれ、1630年フランス、ドイツ、イギリス、アメリカ(ニューアムステルダム)へお茶を売り込んだ。しかしオランダは中国貿易を独占しようとはしなかった。その為に当初はイギリスもオランダ経由で茶を扱っていたが、その後イギリスも設立された「イギリス東インド会社」を通じ貿易に力を注いだ結果、やがてオランダは後発のイギリスに商圏を奪われることになる。
17世紀中頃にはイギリスはオランダにかわり7つの海を支配しアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド等アングロサクソン系の国々、北欧、中近東、アフリカへ茶を普及させた。
ヨーロッパにおけるお茶の普及は17世紀中頃、上流社会の社交場としてロンドンを中心に発展した、コーヒー・ハウス(女人禁制)から始まりティーガーデンズ(喫茶園)を経て普及していった。コーヒーハウスはその後100年大いに流行しましたが、紅茶が一般的な「国民的飲料」となるにはさらに150年くらい後のことになります。従い紅茶が「薬用」としての飲用から人々の社交を円滑にする為の「飲み物」となったのはこの頃からと思われます
イギリスの嗜好は本来の中国茶から製茶行程中に自然にさらに酸化醗酵が進み葉の色が黒っぽく、水色が紅く醗酵臭と酸味が強い茶「ボヒー」(武夷)から「コングー」(工夫)などから紅茶に移行していった。

その4.世界三大嗜好飲料とその普及は
紅茶、コーヒー、ココアの三大嗜好飲料はカフェインを含有しているのが共通である。
原産国は茶が中国、コーヒーはエチオピア、ココアはメキシコ。
需要はコーヒーは中南米生産されEUで,58%,アメリカで30%、ココアは アフリカで 生産され、主として、 オランダ中心にヨーロッパで60%、紅茶は 紅茶、緑茶に分けなければなりませんが、紅茶はインド、スリランカ、ケニア、インドネシアで生産され、ヨーロッパ、中東、アジアで消費、緑茶は中国、日本、台湾で生産され、主に中国、日本で飲まれている。はからずも17世紀に、茶、コーヒー、ココアコの3大嗜好飲料がヨーロュパに伝わり、ココアは南米からスペイン経由で、コーヒーはアラビアからトルコを経て、紅茶はオランダ人がヨーロッパへ、イギリス人の手で世界各国に広まった。

その5.お茶の2つの「ティーロード」について
世界中でお茶の呼名は大きく分けて中国から伝来のルートの違い、即ち陸路か海路かで、2つあり、それは「チャ」と「ティー」のいずれかである。概してティーは抽出、チャ、チャイは煮出しで、いれ方はこの2種である。
「陸のティーロード」は(チァー、チァイ、シャー広東語系のチャ、ツァ)で
ロシア(チャイ、シャイ)ルーマニア、トルコ、ポーランド(チャイ)のルートと北方は蒙古、満州、シベリア、東は朝鮮、日本、北はチベット高原、カシミール、アフガニスタン、イラン(ペルシア)、イラク、トルコ又ウクライナ、ロシア、北アフリカのアルジェリア、モロッコへと伝わった。但しポルトガルは海路伝来であるがチャ(マカオなど永年統治していた国の言葉を使用していたためビンナン語で)と呼んでいる。
「海路のティーロード」は(テ、テー、テイー)語源は福建省のアモイやビンナン語といわれる各地の方言に起因する。オランダ人は宿敵である旧教徒のポルトガル人の呼ぶチャではなくテーと呼び海路で伝えた。後に東インド会社を通じイギリスが更に世界に広めた。
オランダ(テー)、イギリス、アメリカ(ティー)ドイツ(テー)、フランス(テ)、フィンランド(テー)、スウェーデン(テ)、デンマーク、スペイン、イタリアなどは(テ)。
余談ですが、カティサーク号(帆船)は茶運搬専用船・ティークリッパーで、1869年進水、中国/ロンドン107日間で航海した快速船。現役引退後はテムズ河畔のグリニッジに係留も近年焼失した。

その6.紅茶の登場、誕生について
肝心の「紅茶」の登場については歴史的には、そんなに古い時代ではない。
福建省の武夷茶が、「紅茶の原形」で、中国国内ではあまり普及することはなかったので、1720年代、イギリスの東インド会社が中国茶を輸入するようになり、その後イギリスへの中国茶の輸入量が急ピッチで増えていくなかで砂糖との相性もよく、緑茶のような刺すような渋みもなく、肉食主体のイギリス人の食生活において、「発酵茶」が脂肪・蛋白質の消化を促進し、口中の油脂分を切ってくれることを体験的に知るようになった為に、イギリス人は「緑茶」からはなれて、「烏龍茶」または「烏龍茶の中でも、より強く発酵した茶(今日の紅茶により近いもの)」に対する興味、関心が増していった。そして「紅茶」は19世紀に大きく広まって今日に至っている。
ビクトリア王朝 の1850年からエドワード7世、ジョウジ5世まで1910年までイギリスの栄光を誇示し英国の紅茶文化を完成した。従い紅茶としの歴史はせいぜい250年くらいである。我が国には1856年・安政3年下田に来たハリスが江戸幕府への手土産に持参したと云われている、鹿鳴館の時代1887年・明治20年に100kgがはじめて輸入された実績がある。また1906年に英国銘柄紅茶『リプトン紅茶』が初めて明治屋から輸入された。 

その7.ティーバッグの始まりと普及
「紅茶の茶殻の処理が手早くできれば」という発想から最初イギリスで考案された。スプーン1杯の紅茶をガーゼに包み、四隅を集めて紐でしばった簡単なもの。丁度出来上がりが丸型になることから、Teaball,Tea Eggと呼ばれた。これがTBの原形で考案者のAVスミス1896年特許を得た。その後アメリカで茶商トーマス.サリバン氏ガーゼの袋に茶を入れ商品化したなどの経緯を経て。
1930年アメリカ デキスター社が濾紙を開発、1945年袋の縫いあわせ部分ヒートシールした、特殊な濾紙所謂フィルターペーパー(未だシングルバッグ)開発した。
第二次大戦後食品のインスタント化の傾向が一般家庭にも普及、「簡便さと美味しさ」の要求に応え 紙やヒートシールの加熱臭のない、W型折り込み式自動製造機械が1953年(昭和28年)西ドイツテーパック社で「コンスタンタティーバッグ自動包装機械」を開発。
日本には8年後の1961年(昭和36年)輸入され急激に需要拡大、紅茶普及の大きな役割を果たした。

その8.CTC製法とは
紅茶の製法にはオーソドックス製法(葉っぱ状)とCTC(Crush,Tear Curl・の略で主にTB向け)製法があり、その割合は65:35でCTCが多い。発想は、当初 特に高温多湿の北東インドなどでの「雨季における大量生産」を行う為の考案からスタートしている。長く激しい雨季に生葉の萎凋(陰干し)の為の時間とスペースを節約する必要があった為茶葉の酸化酵素の働きをより効果的に行わせ、茶葉の形状、外観に拘わらず、スピーディに且つ濃厚に茶液を注出させる必要から生まれ特別な機械を使用した製法で。インドドネシア、中国広西省海南省等へも拡大、現在ではインドアッサムなど北インドの93%、ケニアの96%などで、アフリカ、アジアでも採用されCTCが全紅茶の65%を占めている。オーソドックスはスリランカ、トルコ、中国、ベトナムなど。
世界各国のT.Bの飲用率は(推定)イギリス、フランス、ドイツ で 85~90% ケータリングは更に高く90%アメリカ65-70これはインスタントティー及びミックス20%と根強い需要があるロシアは中国からの伝わった独特の茶文化をもっておりTBは未だ小さい、
中東は未だ50%位もTBへシフトしている。日本では、一般家庭用の消費に占める割合では75%位である。

その9.余談・ティーカップの取っ手、マナーなど
①最初のうち、王侯貴族の茶会で使用される中国製の小型茶碗は、我々が今使用している「緑茶用の茶碗」と同じ取っ手がなく、英語でTea-Bowlと呼ばれていた。しかしTeaが次第に普及して行くにつれて、お茶の席で優雅に膝の上に受皿をのせたTea-Bowlを持って上品な会話を楽しみながら、塊になって溶けにくい砂糖をスプーンでかき混ぜる必要が多くなり、1750年頃コーヒーカップと同様Tea-Bowlにも取っ手を付けて売られるようになった。ティーカップ/ソーサーの誕生である。イギリスでは国民飲料のエール(ビール)などはハンドルのついたマグで飲んでいたので東洋のものを西洋のモデルに発展させた意味もある。
②ティーカップには口ひげ専用のカップもあった。19世紀イギリスで作られた「ムスターシュ カップ」。カップノ内側に「カイゼルひげの紳士」用に、口ひげを置く台があった。ポマードを付けた口ひげに湯気があたらず、形が崩れないようなっていた。(フジTV・トリビアの泉で
 高い得点(評価)を得た。)
③「コーヒー、紅茶の正しい飲み方」(マナー)では主人役が受け皿にのせたカップの取っ手を左側ににして出し、お客は先ず左指でカップの取っ手をつまみ固定して、スプーンを使って砂糖やミルクをいれてかき回し、スプーンをカップの向こうに置き、今度は取っ手を右指でつまみ、ぐるりと180度回転してから、おもむろに口に運ぶ、これが西洋風正式作法だと思っている方もあるが、これは日本のオリジナル発想。イギリスを中心に欧米では、カップの取っ手は右側、(お茶は右手、お菓子は左手)、カップの花柄や風景は取っ手が右に来たときに、絵が客の目から正面になるように制作されている。

付録
その1.ミルクが先か後か
 一大論争である。ミルクインファーストはお茶が貴重品でありミルクが先であった。熱い茶液を先に注ぐと、薄での茶椀がひび割れするとか茶渋が茶椀の底などにへばりつくなどという理由もあった。後にヨーロッパの上流社会で、お茶にミルクを加えて茶の味を調整して楽しむという文化が18世紀後半に定着した。丁度ティーボウルから現在のハンドルつきのティーカップへの移行期でもあった。(イギリスでは農地の囲い込みが進み日常生活用のミルクが不足し茶を特別な条件で提供した時期もあった)
永い論争を楽しんだが、ここ6,7年前にイギリス(王立科学アカデミー?)では「熱いお茶にミルクを加えるとミルクが変化するので、ミルクインファーストが好ましい」との永い論争の結末らしき説を発表した。
今はモーニングカップ、マグカップなど大型のカップで沢山飲むことも多く、茶碗も多種になったので「ミルクが後、先は自由に好みでお飲み頂く」のがお勧め。

その2. 紅茶のカフェインと瀬古選手
カフェイン含有量は単位当り、紅茶3%、コーヒー1.5%と紅茶のほうが多いが、紅茶はカテキン、アミノ酸を含み、これらとの相乗的な働きで中和され、胃へ刺激が緩和される。従いコーヒーよりもやさしく、一杯あたりの使用量が紅茶(2~3g)、コーヒー(8~10g)であるからコーヒーの1/2以下のカフェイン摂取となる。
カフェインは体内の脂肪を燃焼させるので紅茶を飲んでから運動すると、先に体内の脂肪を燃焼させるのでマラソンランナーのスペシャルドリンクには紅茶ベースが多く採用されている。 アフリカの強豪ランナーも使用、中村監督のすすめで瀬古選手も東京国際マラソンでスペシャルドリンクとして採用、優勝した。

(以上)


 
 

「国分寺寄席」誕生のいきさつ

「国分寺寄席」 誕生のいきさつ

  平成25年 国分寺寄席実行委員長 眞宅康博

 「落語と言うものはぁ、チョイトォ持ち上げてストンと落とします。そのチョイト落とす処が面白いんでして」と志ん生が言ったのを末広亭で聞いたのが47年前。初めて落語と巡り合ったのが昭和18年国民学校一年生に上がる時分で、柳家金語楼の「噺家の兵隊」でした。その年に金語楼は落語家の鑑札を警視庁に返納しておりました。当時は鑑札!?
蓄音機で何回も聞いたので、今でもチョットした処は諳んじております。

 川口市大竹と言う所に植木屋の社長が居て、生来の酒好きが高じて自分の屋敷の一角に一棟建てて飲み屋を始めました。そこに友人に連れられて行ったのですが、メニューに“無い酒は無い”と謳っているから「永い間<亀の翁>を探しているのだが・・・・」「あるよ、飲みますか?」 それが“おおたけ苑”荒井英輔氏の出会いで、かれこれ14・5年前の事。
彼はただの呑兵衛ではなかった。生物理学士、しかも極上の粋人で「何か良い趣向はないかいな」と言うので、友人の山本武氏が「落語の席亭にしたら」と提案。知り合いの馬生師に渉りをつけ、月に一度、馬生師匠の弟子でまだ前座の駒丸(馬治)・駒介(馬吉)を交代で隔月に話をさせようと決め、師匠は時折演じてくれる事になりました。それからは毎月二人の上達振り拝聴。

 私が国分寺に越して暫くして、師匠と馬吉が並木町公民館に来演したりしました。また、国分寺稲門会「稲穂祭」の企画として「落語を入れては」と提案。馬生師匠は快諾、馬吉・駒ン奈(萩野アンナ:慶応文学部教授)を連れて三人で出演して盛り上げてもらって大盛会になりました。

 そのうち私は「二つ目に昇格した馬治・馬吉の落語会を国分寺で開催して地域の人々や老人に喜んでもらえれば、国分寺稲門会としての地域活動の一助になる」と考えました。その頃、ある老人会の会長から「落語会を催して欲しい」との話が舞い込みました。ただ難題が一つ。「老人には無料にして・・・?!」 無料はご勘弁被り度候! 無料はお断りして、構想していた名分に合致するのでその船に乗る事に決めました。
「第1回国分寺寄席」です。平成23年、会場手配・出演依頼(馬生師匠自ら出演)、チラシ(下の写真)や入場券の作成、370席を満席にする事。幸い稲門会と老人会の助力を得て当日は満員御礼。下の写真は当日出演者の色紙です。東日本大震災にも幾許かの寄付も出来て大成功でした。その後も「国分寺寄席」は毎年開催されて、お陰様で毎回「満員御礼」を続けています。

 現在、「国分寺寄席」は国分寺稲門会の活動スローガン「早稲田と共に、地域と共に」の事業として位置付けてられています。今後も、更に発展しながら継続される事を願っています。

(以上)


 

恋ヶ窪恋物語

恋ヶ窪恋物語
                         谷田成雄(記)、野部明敬(補記)
皆様ご存知の落語「崇徳院」は、
百人一首「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の割れても末に会わんとぞ思う(崇徳院)」に題材をとった若い男女のめでたしめでたしの恋物語ですが、こちらの方は悲恋物語です。
エピソードを交えた谷田成雄氏の文でご紹介します。

恋ヶ窪の伝説(抜粋、一部加筆)
10数年前、御殿場のスペイン陶人形で有名なリヤドロの店で「サムライの別れ」と題する「馬に跨った鎧を着た武士が和服の麗人と別れるシーンを象った大きな陶塑」が目に飛び込んで来た。
一目見るなり「恋ヶ窪に伝わる畠山重忠と遊女・夙妻太夫の悲恋物語」から題材を取ったと感じた。聞いてみると「もう廃盤になり在庫はこれしかない」という。
考えてみると戦場に赴く人を送るこのシーンは人類の永遠のテーマで、子供の頃に出征軍人を送ったことが思い出された。勿論、戦争末期には送る人も少なく帰らぬ人が多かった。
色々なことが連想されたが、兎に角国分寺のためにも買っておかねばならぬと思った。
それは、いつか国分寺駅北口再開発が出来たとき、昭和19年以来住んで居る「第二の故郷:国分寺市にこの像を寄付しよう」と思ったからである。
私、谷田成雄が最初に住んだのは、恋ヶ窪4丁目の6畳一間であった。
戦後食糧不足の折、農家は潤っており、各部落のお祭りは競い合って盛んに行われた。背中一面に丸く囲った戀の字の半纏を纏って、ささくれ立った青竹を地面に叩きつけながら喚く様は中々迫力があった。
然し、戀ヶ窪の「戀」の字には参った。中学で住所変更を書けと言われたが、戀の字が思い出せず、戀ケ窪を変が窪と書いてしまった。そしたら国語の先生に「へんがくぼ・・・、変な地名だな」と言われた。これは思い出しても汗顔の至りである。
この戀ケ窪の地名は「畠山重忠と夙妻太夫の悲恋物語」から来ていると昔から言われている。
鎌倉幕府の武士中の武士と謳われた畠山重忠は、鎌倉への往還に途中の恋ヶ窪に泊まり、名妓夙妻太夫と恋仲であった。然し義経に従って平家追討している時、夙妻太夫は言い寄る男に「畠山は戦死した」と言われ、絶望し姿見の池に身を投じてしまった。
いつの世の中にも嫌な男は居るものだ。村人は夙妻の哀れな女心に同情し、手厚く葬り松を植えた。それが一葉松なのです。
その後無事帰ってきた重忠は、事の顛末に慟哭し「無量山道成寺」を建立し、阿弥陀如来像を安置して夙妻太夫の御霊を弔ったとのことです。

この伝説は儚くも美しく、ペンシルロケット・新幹線と並んで国分寺の誇るべき宝であると思っています。
この像は国分寺市に寄贈致し、北口再開発ビル開館時に、ウエスト5階に一時展示されました(写真)。

落語「崇徳院」は「一目ぼれして恋の病に陥った若旦那と大店の御嬢さんが、互いの名・所を知らず、崇徳院の上句だけを頼りに互いの出入り人が探しまくるお噺」です。最終場面では、床屋で双方出会い、喜びも束の間、今度はどちらの先に報告に行くかで揉み合い、床屋の鏡を壊してしまう。
床屋のオヤジが「どうしてくれるんだ!」、二人が「心配ない。割れても末に買わんとぞ思う」がオチとなります。
国分寺の陶人形も「割れずに」末永く展示されることを願っています。
(以上)


 

紅茶の話・アラカルト1

紅茶の話・アラカルト1

1.「コーヒー、紅茶の正しい飲み方」(マナー)

*イギリスを中心に欧米ではカップの取っ手は右側、(お茶は右手、お菓子は左手)、カップの花柄や風景は取っ手が右に来た時に、絵が客の目から正面になるよう制作されている

 従い、取っ手は右に、スプーンは右に縦にセッティング。使ったらカップに後ろに。

*日本ではカップの取っ手を左側にして出し、お客は左指でカップの取っ手をつまみ固定して、スプーンを使って砂糖やミルクをいれてかき回し、スプーンをカップの向こうに置き、今度は取っ手を右指でつまみ、ぐるりと180度回転してから、おもむろに口に運ぶ。これは日本のオリジナル発想。

2.ミルクが先か後か

*ミルクが先・ミルクインファースト、ミルクが後・ミルクインアフターは永い間の一大論争。
*ファーストは・茶は貴重品で、ミルクが先であった、熱い茶液を先に注ぐと、薄での茶椀がひび割れする、茶渋が茶椀の底などにへばりつくなどという理由。
*ヨーロッパの上流社会で、お茶にミルクを加えて茶の味を調整して楽しむという文化が18世紀後半に定着した。
*11年前にイギリス・王立科学会では熱いお茶にミルクを加えるとミルクが変化するのでミルクインファーストが好ましいとの永い論争の結末らしき説を発表した。
*今はモーニングカップ、マグカップなど大型のカップで沢山飲むことも多く、茶碗も多種になったのでミルクが後・先は自由に好みでお飲み頂くのがお勧め。
*嘗てミルクよりもお茶が貴重品で高価であった時代、ミルクを先に高価なお茶は後にという気持ちもあったようだ。

3.イギリス人のティーのしつけ教室「べからず集」

*ティーより先にミルクを入れてはいけない。
*小指を上げてカップを持ってはいけない。
*ティーを音をさせて飲んではいけない。
*ビスケットをティーに浸して食べてはいけない。
*バターやジャムは一度にべったり塗ってはいけない。
*サンドウィッチなどをナイフで切って食べてはいけない。
(ナイフはバターをつける。フォークは出さない。サンドウィッチはかぶりつき。スコーンは手でわる。)
*茶に使ったレモンをしゃぶってはいけない
*ティーの間、鼻をかんではいけない。
*室内でジャケット脱いではいけない。
使ったナプキンはたたんではいけない。

4. 紅茶のカフェイン量とマラソン選手

*カフェイン含有量は単位当り、紅茶3%、コーヒー1.5%と紅茶のほうが多い。紅茶はカテキン、アミノ酸を含み、相乗効果でカフェインの効能が中和され、胃への刺激が緩和される。従いコーヒーよりもやさしく、また一杯あたりの使用量が紅茶(2~3g)、コーヒー(8~10g)であるからコーヒーの1/2以下のカフェイン摂取になる。
カフェインは体内の脂肪を燃焼させる。紅茶を飲んでから運動すると、先に体内の脂肪を燃焼させるのでマラソンランナーのスペシャルドリンクには紅茶ベースが多く採用されていた。
*日本で従来水分補給は主に水であったが、スペシャルドリンクが許され採用された最初の「東京マラソン」に瀬古俊彦選手は紅茶飲料を採用し優勝している。(清水も関与)

清水元(記)


 

 

世界の主な茶産地と三大銘茶

世界の主な茶産地と三大銘茶

                   2019年7月27日 清水元(記)

今回は、世界の主な茶の産地について紹介します。
下の写真はこれから紹介する5大産地です(クリックすると拡大)。

1.インド

1823年にスコットランド出身のロバート・ブルース少佐によってアッサムの大地に野生の「アッサム種」の茶樹が発見されました。
1830年代に紅茶の生産が始まり、現在の生産量は1,321千トンと世界最大の紅茶生産国であり、同時に消費国です。
生産地域と量は大きく分けて北東インドで70%、南インドで30%になります。北東インドにはアッサム、ダージリン、ドアーズ、テライ、トリプラ、カチャール、南インドはニルギリ、ケララ、北西インドにはカングラなどの産地があります。

 ダージリンは1840年代イギリスにより開発され、ウバキーモンと並び19世紀から20世紀に出揃った世界三大銘茶の一つです。西ベンガル州、ヒマラヤ山脈カンチェンチュンガに対面する500m~2,100の高地で、茶園(エステート)数は80余で、栽培面積が2万haで、収穫量は8,000t~10,000トンです。独特のフレーバーに加え、希少価値が高いため、高値での取引がされています。
収穫期は3,4月のファーストフラッシュ、5,6月のセカンドフラッシュ、7,8月は雨期で品質は普通、目立った特徴はない、9,10月から11月初旬のオータムナルなどに分かれ、1stは水色はやや薄めのオレンジ色、青葉のような香り、2ndマスカットのような香り、Autumnalはウッデイな香りと特徴が異なります。特にセカンド フラシュは充分な気温と強い日照により、特徴的な高級品が採れます。葉はしっかりして、水色は明るく、味はやや渋味が増し、コクも出て、最良なものはマスカテルフレーバー言われるフルーティな芳香が特長で、「紅茶のシャンペン」と言われています。
 ここは19世紀半ばに当初イギリス人の避暑地として開拓され、良い紅茶の栽培に適している条件である「日中と夜間の寒暖の差が大きく、高地で霧がかかって、急斜面で水はけがよいところ」に合致した将にその場所になります。世界遺産のダージリン・ヒマラヤ鉄道(トイトレイン・世界最古の登山鉄道)が走っており、この鉄道はお茶の運搬と避暑客の便宜のために施設されたものです。

 アッサムは標高が50m~500mでさほど高くありません。大河ブラマプトラ河の広大な流域の488千haで栽培され、1,087千トン余の生産量です。亜熱帯のモンスーンで雨量が多く、生産に適し、生産効率も高く1haあたり2t超ということになります。ほとんどCTC製法での生産で、世界で一番お茶を生産している地域です。収穫期は4,5月ごろから10月の秋摘みまでです。外観は平均して堅く、よく締まった灰色或いは黒で、香味強く、濃厚な水色。ブレンド用など利用価値が高い。

 ニルギリは南インドに位置し、標高も高く、1200mから1800mになっています。茶園は102千ha、生産量は日本の3倍の245千トンを生産しています。その生産性は非常に高いことになります。位置的にスリランカに近いこともあり、セイロン紅茶と同じようなタイプのお茶が生産されて、品質的にもスリランカと変わらなく、概してクセがなくストレート、ミルクやレモンティーにも適するお茶です。
「ニルギリ」は土地の言葉でブルーマウンテン=青い山という意味です。

2.スリランカ

日本に輸入されている紅茶の47%がスリランカ産です。嘗て60%を占めていたが、輸入先の多様化などでケニア、インドからの増加もあり50%を割り込んでいます。
日本で飲む紅茶の約半数はセイロン紅茶です。国名はスリランカですが、お茶は「セイロン紅茶」で旧国名の「セイロン」という名前を使っています。  茶産地は主に島の南の高地に集中しています。又製茶工場のある標高により3ッに分類され、1,200m以上の高地産茶(ハイ・グロウンティ)・生産量のシェアーは26%、と600m~1200mの中地産茶(ミディアムグロウンティー)で・生産量のシェアーは16%、それに600m以下の低地産茶(ローグロウンティー)で・同58%になります。
現在スリランカティーボード・政府茶業局では以上3区分の紅茶を、高地産はウバ、ヌワラエリヤ、ウダプセラワ、それにディンブラの4つ、中地産茶がキャンディー、低地産茶はルフナ、サバルガムワという7地区を代表とし、夫々の標高や気象、収穫期、土壌の違いによるお茶の品質や味、香りの特徴をPRし、これら7ディストリクトの紅茶の特徴を知ってもらい、トータルでセイロン紅茶の普及拡大策を展開しています。
産地は東側にウバ、ハプタレ、バドウラ、中央にヌワラエリヤ東南部、西側にヌワラエリヤ、ディンブラ、ディコヤ、マスケリヤ、キャンディーなど、また低地にルフナ、ゴール、サバルガムワなどがあります。

ウバ三大銘茶の一つで南東部に位置し、標高1,000m~2,000m、茶園は10エステートで、南西モンスーンの関係で昼夜の寒暖の差が大きく、霧が発生し、かわいた冷たい風が吹く、8月末から9月にかけてすばらしい紅茶が生産されます。パンジェンシーと呼ばれる好ましい渋味と強い味で、メンソール風の特徴ある風味があり、数量も少なく限定されるので、高値で取引されます。

3.ケニア

輸出量第1位で、生産のほとんどを世界へ向けて輸出しています。特にパキスタン、イギリス向け、毎年日本向けも増大しています。
ケニアの茶園は生産効率は1ha当たり2,2トンと高く、アジアの茶園とくらべ、茶畑や茶樹の密生度など変わった様相です。
ケニアには1903年に英国人のケインがナイロビ北東部のリムルに入って、そこでお茶の木を植えて茶園を起こしました。インドでは1830年代にブルース兄弟が最初にアッサム種が発見されて茶産業を起し、スリランカは1867年にジェームステーラーによりルーラコンデラの茶園を本格スタートしたのに比べ、ケニアは50年以上遅れて立ち上がりました
ケニアでは当初英国資本により開発され、現在はKTDAという法人(小農方式・スモールホルダー)での茶園経営が大きく展開されて、ケニアの生産量439千トンのうちの60%を生産管理しています。
リプトン、ジェームス・フィンレイなどの大きい会社の大規模茶園は30%でKTDAは世界最大の紅茶生産企業になります。
現在のユニリーバのマブルーキーという茶園に、100年以上に植えたお茶の木がまだ残っているということで私も訪問した際に見させていただきました。中国の雲南にあった茶樹王のように、大木で樹高は10m近くで、見上げる高さから壮大な樹木という感じでした。ケニア茶の葉は大きく、茶園は見るからに平原状で広く、お茶の木が満遍なく生えそろって、密集しているという感じで、遠くから見ると緑の絨毯のようです。
栽培方法はCTCが99%、1年中採れるという3つの条件で、生産効率が非常に高く、1haあたり2.2t~2.3tで世界1位です。
産地は巨大渓谷「グレートリフトバレー・大地溝帯」の西地区と東地区の「ケニア山周辺」に分布され、西側はケリチョ、ナンデイ、東側はニェリ、ナクルなどです。概ね水色は明るく、濃い赤色で、幅広く、爽快な渋味とマイルドな香味をもっている。

4.中国

お茶生産量は世界最多で内、紅茶は工夫(コングウ)紅茶と呼ばれるもので、代表は祁門(キーモン)と正山小種(ラプサンスーチョン)です。
中国は2,609千トンの生産量、栽培面積3,059千haでともに世界1位。お茶の2,609千トンのうち67%の1,77千トンが緑茶で、1ha当たりの生産量は少なく、生産効率は非常に低くなっています。

紅茶の代表は三大銘茶の祁門(キーモン)で主産地は安徽省祁門県で水色は明るいオレンジ・イエローがベースで、鮮やかな鮮紅色で、やや渋味があり、最良のものは蘭の花の香り、あるいは甘い香りで、スモーキーな香味があります。
祁門の温和な気候と豊富な雨量などの自然条件に恵まれ、20世紀初頭から世界的に高く評価を得ています
正山小種(ラプサンスーチョン)は福建省で生産され、製造工程中に松柏と呼ばれる松の木の薫煙で香づけされ、独特ないぶり香を楽しめます。

5.インドネシア

お茶も非常に古く、オランダの植民地時代からのスタートになっています。インドネシアは6割以上がジャワ島、あとスマトラなどで作られています。
その生産量は134千トン、117千haとなっております。けれども、プライベート農園の生産量もこれはスモールホルダーの生産も49千トンと大きなシェアーを占めています。
インドネシアのお茶は外観が良く、黒味を帯びているが、水色はやや濃い、渋みの少ないアッサム系のお茶の多くは輸出しています。

6,終りに

世界では豊かな食生活を過ごしている多くの人々がいる半面、最貧国では飢えの為に多くの子供が亡くなっており、しかも世界的には食糧不足が憂慮され、環境変化が作物や人体にもたらす影響は大きな不安材料になっています。
南北問題は「食の安心・安全」を超えた国際的なテーマであり、国際機関では「フェアートレード」或いは「レインフォレスト」などへの参加を通じコーヒー生産企業などと共にこれらの解決に援助・協力を推進しています。

我々が一杯の紅茶を口にするとき、茶摘みから生産に携わった人たちが注いでくれた「紅茶」への情熱を改めて理解し、茶園からティーポットまでの繋がりを想いながら味わいたいものです。
     (以上)

 


 

世界のお茶と紅茶

世界のお茶と紅茶

                2019年7月19日 清水元(記)

1、世界のお茶の生産量

2017年の最新統計では総生産量は5,812千トン(内 紅茶が3,794千トン、緑茶が2,017千トン)。 
紅茶:緑茶の比率は65.:35と2/3が紅茶です。毎年中国の生産が増大しているので緑茶の比率が高まりました。実は2008年の統計では緑茶が1,163千トンでしたから緑茶はこの10年で倍増近い生産量になりました。それ以前の比率は76:24で世界のお茶の3/4が紅茶でした。
因みにコーヒーの生産量は9,212千トン、ココアは4,587千トンです。
コーヒーは一杯当たり8g~10gを使用、紅茶/緑茶は2g程度(緑茶は2煎3煎もあり)の使用量から推計すれば、お茶はコーヒーの3倍以上の消費量があるかと思います。
紅茶だけで見てもコーヒーの2倍程度で、世界で一番飲まれている飲料は紅茶と言えます。

2、国別の生産量

緑茶を含むお茶合計では中国が2,609千トンで断然トップ、インド1.322千トン、以下ケニア、スリランカ、トルコ、インドネシアと続く。
上位10ヶ国で90%を占め、紅茶ではインド、ケニア、スリランカの順、緑茶では中国が断然トップで全体の88%、べトナムが2位で97千トン、日本は3位で78千トンです。

3、製法別

通常皆さんが飲んでいる日本茶サイズのスタイル(揉んだ茶葉の小さな葉っぱスタイル)がオーソドックス製法で、これが38%、ティーバッグのような細かな葉のCTC製法が62%です。
これはインドとケニアのCTC茶が多いためで、CTCは1830年にインドのアッサムからスタートした製法です。萎凋時間や生産効率や製品需要も高まるに伴い、CTCが増えています。
但し国や地域によって実情は異なり、インド、ケニア、バングラディシュ、アフリカ諸国はCTCが多く、スリランカ、中国、トルコ、ベトナム、インドネシアはオーソドックスです。

4、生産国の消費と輸出

近年生産国での消費量が増加する傾向にあり、消費量は拡大しています。
主要生産国のお茶の輸出量は、2017年では生産が5,812千万トンに対し輸出が1,791千トンと31%が輸出です。世界で一番輸出量が多いのがケニアで次が中国、スリランカ、インドと続き、大きな産業に発展しつつあります。ケニアの輸出量は416千トンで生産量439千トンの殆どを輸出に回しています。他にケニアはモンバサのオークションで周辺国から買い付け、国内需要と輸出へも充てています。スリランカは生産量の91%が輸出で、緑茶大国中国の場合は14%で、インドは23%とさすがに大きな人口を抱え、消費量は非常に多く、いずれも8割が国内消費に、2割程度を輸出に回しています。インドネシアは40%、ベトナムが80%と輸出比が高く、お茶が非常に重要な輸出品目になっています。

5.主要国の輸入状況

消費国の輸入量は2017年の統計では1位はパキスタンで175千トン、次はロシアで163千トン、アメリカ126千トン、英国108千トン、ドバイ、アフガニスタン、イラン、イラク、サウジアラビアなど中近東諸国が続きます。輸入量の多いロシア、パキスタンはこの10年大きな変動はなく、紅茶のみ国民です。
一方紅茶の先進国イギリスは、129千トンから108千トンとやや減少してます。ティー・紅茶はイギリス伝統の飲料には変わりないが、飲料の多様化で選択幅が拡大(コーヒーその他飲料)しているのが現状です。
日本は紅茶18.7千トン、ウーロン茶10.2千トン、緑茶4.7千トンの計33.6千トンを輸入しています。

 6、お茶の消費量

一番お茶を飲んでいる国と一人当たりでの消費量は如何でしょうか、2015~2017年の国際統計でみると。国別での総消費量の1位は中国で1956千トン、一人当たりでは1.42kg。インドは911千トン、一人当たり0.8kg、CISは253千トン同0.89kg、トルコ250千トン同3.1kg、パキスタン167千トン同0.8kg、米国129千トン同0.4kg、英国110千トン、同1.7kgです。
一人当たりの量ではトルコ、リビア、英国、アイルランド、台湾、チリ、中国、アフガニスタン、バングラディシュ、バーレーン、イラクなどが1kg以上飲んでいます。
本格的な「英国帝国紅茶」を誕生させたイギリスは過去消費量1位でしたが、今日では他の国に譲っています。それでも一人当たりでは日本の2倍以上を飲んでいます。
日本の消費量は緑茶、紅茶、ウーロン茶の合計が104千トンで一人当たり0.8kgとなり、量で8位、一人当たりで18位となり、お茶飲み国民と言えましょう。

(以上)


 

お茶・紅茶の始まり(概観)

お茶・紅茶の始まり(概観)
                 清水元(記)

 1.お茶の始まり

 茶樹は永年性常緑樹で椿の仲間(学名カメリア・シネンシス)です。原産地は中国雲南省西南部の山間地域と言われています。後に18世紀にこの中国種とは異なる茶樹・アッサム種が北東インド・アッサムで自生しているのが発見されました。
 お茶と人の関わりについては諸説ありますが、人類の喫茶の歴史は大変古く、伝説によれば紀元前2734年頃の中国の農業の神、薬草の神(解毒と飲み水の浄化)、火の神となった創造上の神「神農」に遡り、およそ4800年前になります。
 伝説はさておいて、茶に関する記録としては周代・紀元前160年頃に発掘された木簡の埋蔵品リストに「茶」を意味する「價」の文字が記載されています。このことから前漢の頃には既に茶が利用されていたと思われます。製品としての茶、即ち茶の葉を鍋や釜の湯で煮てその抽出液(浸透液)を飲用するBoiling法と容器の上から湯を注ぐ・Brewing法で茶液を飲むようになるのは比較的新しく4世紀以降と思われています。
 唐の時代には茶は塩と共に交換経済社会の最古・最大の担い手になり、茶の「貯蔵、保管、流通」は様々工夫され、形状は「団子や餅茶」に、蒸してから乾燥した「散茶」にと変化してゆきました。唐の中期になると茶は中国国内各地に拡大し、いわゆる「煮茶(釜の中で箸を使って点てる)」で飲む風習が広まり、次第に漢族により東へ、南へと広がり、チベット、モンゴル、シベリア、中央アジア、アラブ、北アフリカ、ヨーロッパへと拡大してゆきます。16世紀以降には「ウーロン茶の原型」、18世紀頃からは酸化発酵度のより強い「紅茶の原型」へと発展してゆきます。19世紀になりインド、スリランカで本格的な「英帝国紅茶」が誕生し、中国からの茶に代わり「紅茶」が伝播され、現在では茶の総生産量の70%を占めるようになり、アルコールを除く嗜好飲料の中で世界で一番多く飲まれている飲料となりました。概算ではティーバッグ換算で一人毎日1杯以上です。

 日本に関しては、自生のヤマ茶が存在したと言う説もありますが、茶が最初に伝えられたのは聖徳太子が摂政となった593年頃で、仏教文化の伝来と一緒です。次いで729年に聖武天皇が皇居の庭に多数の僧侶を集めて「般若経」を講じさせ、翌日中国伝来のお茶を彼らに与えたと記録されています。平安時代の800年代には最澄や空海が中国から茶の種子を持ち帰ったと伝えられています。また鎌倉時代の禅僧栄西が中国より茶の種子を持ち帰り本格的な茶の製造法なども伝えたと言われております。これらお茶の歴史は緑茶の歴史であり、紅茶については主に明治以降になります。

2.紅茶の始まり

 同じ茶の樹の生葉を使って緑茶、紅茶、ウーロン茶を自由に作ることが出来ます。製茶方法の違いから、紅茶(発酵茶)、緑茶(不発酵茶)、ウーロン茶(半発酵茶)になります。
紅茶は緑茶から発展・変化してゆく中で、18世紀後半中国福建省でウーロン茶(武夷茶)の製法をさらに進化(強く発酵)させた工夫(コングー)茶が登場します、これが紅茶の源泉になります。
 16世紀の大航海時代、主役がポルトガルからオランダ、イギリスへと交替する中で、400年前に東洋の茶と喫茶の文化がポルトガルによってヨーロッパに伝えられたが、商業的な関心度は低かったようです。1600年初めにイギリス東インド会社とオランダ東インド会社が相次いで設立され、中国のお茶はまずオランダ東インド会社が自国に持ち帰り、上流社会で愛好され流行しました。イギリスはオランダ、フランスとのコーヒー貿易や生産(オランダはインドネシア、セイロンでコーヒーのプランテーション、フランスは同西インド諸島で)の主導権争に敗れたため、中国茶貿易を主体に国内での喫茶の普及に格別の配慮を試みました。紅茶普及策の優位点として、コーヒーは豆の選別、焙煎、淹れ方など一般家庭では扱い難いが「茶」は比較的簡単に淹れられることに加え普及を推進したものに「ティーガーデンズ(喫茶園」」と「コーヒーハウス」の展開があります。「コーヒーハウス」は1650年代にオックスフォードと次いでロンドンに開店、茶の流行の拠点として繁栄し、国内の出店が加速され、拡大しました。その後イギリスは西インド諸島での砂糖のプランテーションに成功、続いてインド、セイロン、ケニアなど茶の生産地を開拓し、プランテーションを展開し、併せて栽培方法や製法などを進化させ、中国茶一辺倒の供給から脱皮しました。徐々に今日の紅茶が誕生し、そして全世界に普及拡大してゆき

ました。蛇足ながら中国からの茶の運搬にはティークリッパー(快速茶運搬船、有名なカティサーク等)の時代を経て海運大国にもなりました。

 

3.日本での紅茶

 日本人として初めて紅茶を飲んだのは大黒屋光太夫で1791年10月、ロシア・サンクト・ペテルブルクで女帝エカテリーナⅡに謁見、お茶会に招かれ、西欧風の本格的なミルクティーを飲んだのとのことです。帰国の際には紅茶を手土産に持参したとの記録もあります。日本紅茶協会はこの史実に基づき、1983年に11月1日を「紅茶の日」に定めています。

 さて、日本への紅茶の登場は1856年ハリスが下田来航時に献上品として30kgを持参したことに始まります。1887年にはバラ茶80kgが輸入され、「鹿鳴館」などで使用されました。製品としては初めて明治屋によって1907年にリプトンの黄缶、青缶が輸入され発売されました。

 他方、明治政府は勧業政策として・即ち絹と紅茶の輸出を推進することで、外貨獲得を目指して大変活発な事業展開をしました。特に紅茶は1874年に「紅茶製法書」を作成して府県に布達、中国から2名の紅茶製造技術者を招いて「紅茶伝習所」を設けて中国式紅茶製法を試製しました。また1877年にはインド式紅茶製法を伝習させました。

 国産紅茶の生産量は農商務省によれば1880年~1895年までに計1,259tトンが記録されています。その後1937年には4655t、1955年には8,625tを生産しましたが、国産紅茶産業は、品質問題、コスト上昇、相対的な価格、為替問題などで徐々に衰退し、緑茶生産の方が有利となり、1971年外国産紅茶輸入自由化になりました。

    (以上)

 


 

『国分寺 と 玉川上水の分水』 その3(最終回)

『国分寺 と 玉川上水の分水』 その3(最終回)
          私的見解 眞宅康博
【その後の武蔵野】
享保年間の吉宗によって武蔵野開拓開発が進められたが、その成果は武蔵東部に比べてきわめて乏しいものであった。というのも武蔵野台地は気象的にも地形的にも水田稲作には
不向きであって、更に武蔵野の土地は関東ローム層のやせた土地だから、そのままでは畑作にも不向きであった。この土地が畑として農作物が出来るには水と肥料が必要なのだ。
『水』は玉川上水からなんとか分水が出来たが、肥料は解決されないでいた。
『肥料』は、ハッキリ言えば『人糞』である。
 大量の人糞があるのは江戸である。しかし、人糞を江戸から運ぶには舟を使う。
この水運・船運が発達していたのは武蔵東部であった。西部にはこれといった川ない。そのため江戸時代は、東部では江戸の需要を当て込んだ野菜栽培など近郊農業が盛んになっていた。西部の武蔵野では、こういう農業が不可能であった。
 この状態が長く続いた武蔵野の村人は、雑木で炭を作ったり、芋を栽培して主食にし、芋だけでは生きてゆけないので、八王子の市で原綿(練り綿)を買ってきて、それを女性たちが木綿布に織って八王子で売って現金を得る、男は焼いた炭を大八車で五日市の市に持っていって売りながら生計を立てていた。炭を江戸に運べば高く売れたが、大量に運ぶには残念ながら水運がなかったので、東の新河岸まで運んで船便を使った。

 【近代の武蔵野と都市化】
 このような武蔵野が本格的に開発されるのは、明治に入って鉄道が敷設されてからであった。甲武鉄道、のちの中央線がこれである。また国分寺~川越線、後の西武鉄道網などによって都内から人糞を大量に運ぶことが可能となり、武蔵野西部でも近郊農業が発達した。
 そして、この武蔵野が現在のように都市化するのは、1964年の東京オリンピックの頃からである。高度経済成長で東京が急膨張すると、武蔵野は勤労者の住宅地として開発され、現在のような閑静な住宅都市になった。国分寺市は周辺都市が人口減に移行しているにも拘らず、今人口増に転じ、12万余に増えている。
 なお、現在国分寺市の市民は、生活水を東京都の管理する水道水を利用しているが、そのほとんどは市内の各所にある深井戸の地下水で賄われていることをご存じだろうか。
 国分寺は水と緑の豊富な街として、また歴史の街として誇りたい町である。国分寺をこの地に決めた条件は、風水によると言われている。災害も少なく住み易い町、安心・安全の街づくりでは他の自治体の視察の対象となっている。
 こういう歴史を見てゆくと、武蔵野の西部地区は日本全体から見廻しても極めて古くて新しい町だと言えるのではなかろうか。

(完)


 

『国分寺と玉川上水の分水』 その2

『国分寺 と 玉川上水の分水』 その2

         私的見解 眞宅康博(記)
 【国分寺分水】
玉川上水は、承応2年(1653)4月から11月の間に.開削された。緩やかな武蔵台地を羽村の取水口から砂川村を通り、四谷大木戸まで43㎞にわたる大工事だった。
そのわずか4年後の明暦3年(1657)、国分寺村・恋ヶ窪村・貫井村が玉川上水から水田用水を引水することを願い出て許され、合同の分水口が設けられた。
 この分水は『国分寺村分水』や『国分寺村外二ヶ村組合分水』と呼ばれ、開削当初は上水3丁目(鷹の台水車通り)付近の玉川上水から直接取水し、現在の窪東公園の西側を南下して恋ヶ窪交差点で貫井分水と別れ、東恋ヶ窪5丁目交差点東側で国分寺分水と恋ヶ窪村分水に分かれるルートだった。
このような玉川分水は武蔵野台地の至る所を流れていた。水は昭和45年頃まで流されていたと見られ、恋ヶ窪村の田園風景を構成していた。また、かつて恋ヶ窪交差点の東側一帯は『堀分』という地名だった。

 【恋ヶ窪村分水の開削】
恋ヶ窪村は、中世には鎌倉道が通る交通の要衝に位置しており、近世初頭には村が成立していたと考えられる。恋ヶ窪村分水は村の農業用水の確保が目的であったが、その開削には、さんや谷と恋ヶ窪谷に挟まれた台地を一つ越えなければならず、当時トンネル工法ともいえる胎内掘はまだ技術的に確立されておらず、この段丘を通すために大規模に掘り込む必要があった。
 分水の開削により、恋ヶ窪村は約3斗9升から8斗8升と倍以上の石高となり、次第に高低差を利用して水車経営をする農家など現れた。
 分水跡は、明暦3年の開削から360年にあたる2,017年に市重要史跡に指定している。市内には恋ヶ窪村分水以外にも江戸時代を過ごして多くの分水が設けられていた。五日市街道に並行して通水している南野中新田用水(砂川用水)が現存している。
また西町にはトンネル状の胎内掘が残っている。
 市内には、分水を利用した水車の痕跡、水の祭祀に関係する寺社などの文化財が多く残されている。 (続く)