日本最初の宇宙ロケットの水平発射実験
国分寺が誇る歴史的に貴重なものは多くありますが、その中でも武蔵国分寺、新幹線の研究・開発(リニアモーターカーも)及び日本最初の宇宙ロケットの水平発射実験が行われたことなどがトップに挙げられます。
今回は昭和30年に糸川英夫博士等東京大学生産技術研究所が南部銃製造所跡地(現早稲田実業学校)で行った我が国初の宇宙ロケット発射実験にまつわる話を紹介致します。
ご存知のことと思いますが、国分寺市本町の早稲田実業学校校門前には「日本の宇宙開発発祥の地」の記念碑があり、また東側に隣接して「王貞治氏第1号国民栄誉賞」記念碑もあります。
現在日本の宇宙開発の諸事業は世界トップレベルにあり、先頭集団を走っておりますが
この原点は宇宙ロケット開発のパイオニアと言われた糸川英夫博士です。彼は昭和10年(1935年)に東京大学を卒業後、中島飛行機時代には有名な隼(はやぶさ)、鐘馗(しょうき)などの戦闘機の設計に参画、また大学の航空研究所で空気力学や航空機の操縦安全性などを研究していました。戦後に入り一時期、航空が禁止されておりましたが、それも昭和27年(1952年)サンフランシスコ講和条約締結を機に解禁され、その後彼はすぐに宇宙ロケット開発に着手しました。当時の状況から費用が少なく、多くの実験回数と多くのデータ収集が出来る小さなロケットからスタートしました。最初は長さ23cm,直径1.8cm、重さ約200gのペンシルロケットでした。このペンシルは中島飛行機(富士重工)の荻窪工場のテストスタンドでの燃焼実験の後、昭和30年(1955年)3月、国分寺の工場跡地(現早稲田実業学校)の半地下試射坑にて水平発射実験が行われました。試射は延べ29回行われ、設備も不充分なためにペンシルロケットが突き刺さる砂壁の向こうには中央線が走っており電車が来ると中止したとか。やがて、水平試射を終え、秋田県道川海岸で斜め発射実験に進み、ロケットもペンシルから、ベビー、カッパーと移り、失敗も重ねながら宇宙開発技術を発展させ今日に至っています。
皆様ご承知の通り、2003年に糸川博士が設計に関与した戦闘機の名を冠した小惑星探査機「はやぶさ」が小惑星「イトカワ」を探査し、現場の物質を採取してオーストラリアに帰還したことは世界的に高く評価されています。
因に小惑星イトカワの地名の一つに宇宙開発の発祥の地「こくぶんじ・国分寺」が命名されているとのこと、我々市民にとって大変うれしい話です。
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