江戸時代、国分寺は月の名所だった

 大久保狭南は元文2年から文化6年(1736~1809)江戸後期の儒学者で幕臣。後年は狭山丘陵、入間郡山口(所沢市山口)に住んで郷土史を研究したという。
 大久保狭南が残している『武蔵八景』に「立野月出」として国分寺の秋を描写している一文がある。次のような漢詩を添えている。
「平野秋夕暮 草深多露濡 偏憐月出景 滿地如連珠」
『平野に秋晴れの夕べ 草深く濡れること多し 偏に愛でる月の出の景色見渡す限り連珠の如し』 
「立野月出」 「立野の月の出」は武蔵野八景の一つで月の名所であるといい、次いで「立野は一か所を指していうのではなく、ここでは府中より北、国分寺に到るまでの半里、左右の平原がこれである。昔、馬を曳いて府中の市に来た者はここで宿泊して、馬を立てたのでこの名がある
 今は府中街道の両側には、府中刑務所や東芝の工場はじめ家々がびっしりと建て込んでいるが、当時西の方は遠く山々が連なり、そのまた向こうに霊峰富士の山を仰ぐことが出来たのであろう。

 また、西国分寺駅より南に旧鎌倉街道と言われる道を1㎞あまり下るところの左手に小高い丘がある。塚のような高さ5m程の山であるが、狭南の言うところの“富士塚”であろうと思われる。また続けて「この塚に登れば一目で千里見渡せる。東は遥かに天地が接するのを見るばかり、秋晴れの夕べに月の出の光が草の間から生まれ、古歌に歌われた情景は幻ではない。そのために中秋の月の出を見に来る人が多い
 「この塚から東の方向に国分寺の甍が見える。国分寺に仁王門の跡がある。礎石の石があり大きいのに驚く。あたりには古い瓦の破片が沢山あり、国分寺はその昔大伽藍であったことが明らかである」と説明している。
 今この塚に上って東を見ても、あるいは西の方を見ても昔の情景は想像だに難しく、ただぎっしりと並んだ家並とビル群の林立を見るのみである。  
 200年前の国分寺や府中のたたずまいは、書物の中で眠っているだけである。

 因みに400年前の、林 羅山の漢詩にも同様の情景を歌っている。
 「武野晴月」と題して
『武陵秋色月嬋娟 曠野平原晴快然 輾破青青無轍迹 一輪千里草連天』
武蔵野は秋の月が美しい、草の原が続き、ただ丸い月が千里を照らし輝いている
と。

(記)眞宅康博

JR:国分寺駅・西国分寺駅の発車メロディ

この度、3月4日からJR中央線国分寺駅と西国分寺駅の発車メロディが変わりました。
国分寺駅は、国分寺で半生・40年を過ごした作曲家・信時潔の童謡「電車ごっこ」、西国分寺駅は「一番星見つけた」。

 武蔵野線西国分寺駅は“国分寺市の歌”が各々採用され、鳴り響いています。
信時潔は大阪出身で、父親は牧師で幼い時から讃美歌に親しみ、東京芸術大、ドイツ留学、芸大教授を経て、作曲部創設に尽力。作品は1000曲以上で、「海ゆかば」「紀元二千六百年頌歌」、文部省唱歌「電車ごっこ」「花火」等々。戦前戦後を通じて学校の音楽教科書の編纂や監修にも力を注ぎ、校歌・社歌・団体歌等の作曲も数多く手がけています。
国分寺市立小中学校の校歌作曲も多数あり、国分寺市内15校中6校(第一~第四小学校、第一・第二中学校)の校歌を作曲、6万人の生徒がこの校歌を胸に卒業しています。他に灘、桐朋、桜蔭高、慶応義塾、学習院、成蹊、専修大学など多々あります。
「電車ごっこ」の発車メロディは電車の駅風景として出来すぎ位にマッチしており、国分寺として誇れるものです。因みに近隣の発車メロディは武蔵小金井が“さくらさくら”小金井堤の関連、駒込も同じで、染井よしの発祥の地の関連。三鷹が“めだかの学校”、豊田が“たきび”、八王子が“夕焼け小焼け”、高田馬場が“鉄腕アトム”となっており、後れ駆せながら国分寺駅での楽しみが増えました。
この発車メロディは国鉄時代の1970年代後半から電子音のベル(「ピロピロピロ」という音)を使用していましたが、耳障りであるなどと不評であった為、1989年新宿駅と渋谷駅に導入し、順次採用、実施されています。
電車ごっこ(井上赳作詞)「運転手は君だ 車掌は僕だ、あとの4人が 電車のお客 お乗りはお早く動きます ちんちん・運転手は上手 電車は早い 次は上野の公園前だ お乗りはお早く動きます ちんちん」
一番星見つけた(生沼勝作詞)「一番星見つけた あれあの森の 杉の木の上に 二番星みつけたあれあの土手の 柳の木の上に 三番星見つけた あれあの山の上に 松の木の上に」
                                            清水元(記)

小説の中の「国分寺」

 大岡昇平の代表作の一つに「武蔵野夫人」という小説があります。この小説、国分寺とその周辺を舞台に書かれた恋愛小説として有名です。この小説の書かれたのは、昭和20年代で、当時、作者は小金井に住んでいて、国分寺周辺をよく散策していたようで、我々には馴染みの深い場所が随所に出てきます。小説の第1章のタイトルは、「ハケに住む人々」で、中ほどには「恋が窪」という章もあります。小説の時代設定は戦後間もない昭和22,3年頃とのことですから当然かも知れませんが、この小説の中では、国分寺周辺が今では考えられないような武蔵野の自然が残るのどかな田園風景の広がる土地として描かれています。
 小池真理子の作品に「狂王の庭」という長編小説があります。これも国分寺にある大邸宅と庭園を舞台に繰り広げられる恋愛小説です。時代は「武蔵野夫人」より少し後、昭和27年頃になっています。これら小説にあるような情景も都市化とともに大きく変貌してゆきます。昔からこの地域に住んでいる人によると、都市化が急激に進んだのは、昭和40年代中頃からではないかとのことです。
 城山三郎の「毎日が日曜日」という小説があります。商社マンの転勤や定年を書いた小説で昭和50年代のはじめに出版され、当時のベストセラーになっています。この小説に国分寺が登場します。大手商社に勤務する主人公の自宅が、郊外の国分寺市という設定になっています。長い海外勤務を終え東京に戻った主人公が京都支店長に任命され、家族(妻、子供2人)を残して、京都に単身赴任します。東京、大阪に比較すれば、京都での勤務は毎日が日曜日″だなと、口の悪い同僚に皮肉られながら慣れぬ仕事に取り組むことになります。一方、留守宅の国分寺では、長男は小金井の高校に、小学生の長女は高田馬場にある帰国児学校に通学することになりますが、二人とも新しい環境への適応に苦労します。留守宅の設定が国分寺市になったのは、この当時、この地域が都心に通う人たちの代表的な町の一つになっていたということだろうと思います。
 椎名誠の著書に「サラバ国分寺書店のオババ」というエッセイ集があります。これも昭和50年代のはじめに書かれたものです。当時、作者はサラリーマンで小平市の津田町(津田塾大の近所)に住み、国分寺駅を経由して都心に通っていました。毎日利用する国分寺駅、駅前の交番、駅周辺の古本屋、ラーメン屋等での出来事を鋭い観察眼でユーモラスなエッセイにしています。本の題名となっている「サラバ国分寺書店のオババ」はその中の一つです。この古本屋、駅南口にあったそうですが、もちろん現在は残っていません。
 今年のノーベル文学賞はボブ、ディランに決まりました。今年も受賞ならず、多くの村上春樹フアン(ハルキスト)がガッカリしました。同氏は早稲田大学(文学部)在学中に国分寺南口にピーター。キャットというジャズ喫茶をやっていたことがあり、国分寺には縁がある作家です。代表作の一つ「ノルウェイの森」にも国分寺は登場します。主人公のガールフレンドは武蔵野の外れにある女子大に通い、国分寺のアパートで一人暮らしをしている、という設定になっています。
 このように、国分寺は過去いくつかの小説の舞台として登場しています。
 急速に都市化が進む中でも、何となくローカルな所が残る、この町の持つ歴史と雰囲気が小説の舞台になりやすいのかも知れません。
                                            青木 壯司  記

「国分寺市の野鳥」

 国分寺市は、平成26年に市制施行50周年「未来へはばたく年」を記念して国分寺市の鳥として「カワセミ」を制定しました。カワセミは、市内にある都立武蔵国分寺公園の池・姿見の池・日立中央研究所構内の池などで一年中、高い頻度で見ることができます。カワセミ以外に、国分寺市内では50種類くらいの野鳥を観察できることにお気付きでしょうか?
 私が所属する国分寺バードウオッチングクラブ(KBWC,1987年創立,会員数75名)は、2003年より都立武蔵国分寺公園において毎月早朝に野鳥の定期観察を継続しており、また市内・日立中央研究所構内の野鳥観察も定期的に実施しております。この観察で得られたデータに基づき国分寺に生息する野鳥についてお話してみましょう。
 市内のあらゆる場所で常時観察される野鳥は、観察頻度順にならべると、ヒヨドリ,ハシブトガラス,キジバト,シジュウカラ,メジロ,ハクセキレイ,ハシボソガラス,スズメ,ムクドリ,オナガ,ツバメ(夏季)などです。また、武蔵国分寺公園・黒鐘公園・日立中央研究所・市内に残存する樹木が多い所では、コゲラ,エナガ,カワラヒワ,冬季にはツグミ,シメ,モズ,イカル,アオジなども比較的高い確率で観察でき、また、ヤマガラ,アオゲラ,カケス,ジョウビタキ(冬季),シロハラ(冬季),カシラダカ(冬季),キセキレイ,セグロセキレイなども運が良ければ遭遇することができます。 
武蔵国分寺公園・姿見の池・中央研究所内池などの水場では、常時カルガモがおり、マガモ,カワセミ,カイツブリ,コサギ,上空には多摩川あたりから飛来するカワウの姿も確認でき、夏場には、市内の随所でカッコウの声を聞くこともできます。市民プールそばのエックス山、中央研究所構内、史跡通りなどでは肉食系猛禽類のツミを観察でき、上空にはオオタカの姿も垣間見ることができます。ダイサギなども見る機会も高く、姿見の池ではオシドリ・クイナが観察されたこともあります。

(写真:カルガモとオシドリ(姿見の池)2015.12)
 観察記録をたどってみると、国分寺市内の野鳥の種類は減少していませんが、宅地化で林・畑などが減少している影響か、野鳥の観察される頻度と数量は、毎年漸少の傾向にあることがうかがえます。
 野鳥の細かな羽色・雌雄の区別などを観察するには、20~40倍のフィールドスコープが必要となりますが、姿・種類を判別し野鳥の美しさ・かわいらしさを楽しむなら、倍率8倍程度の双眼鏡でも充分です。
 都内でもいまだ武蔵野の面影が残存し、数多くの野鳥が観察できる国分寺の地で、野鳥観察を体験されたらいかがでしょうか? 心豊かなひと時と新たな美の世界が広がるはずです。
(S43年理工学部卒、国分寺稲門会副会長、国分寺バードウオッチングクラブ代表幹事 中山斌雄)

関連サイト:国分寺バードウオッチングクラブ(KBWC)ホームページ
写真集:国分寺市内で観察される主な野鳥の写真

日本の戦闘機がB-29に体当たり。 自宅の裏に墜落

①  B-29への体当たり攻撃
私(島崎幸男)は昭和17年の5月の生まれで、記憶があるのは終戦の昭和20年からです。
昭和20年の春は3歳になる頃で、激しい空襲の記憶です。西町の自宅より西の立川飛行機の工場が赤く燃え上がっている光景を覚えています。 
B-29爆撃機が飛来し、日本は高射砲で反撃しますが1万メートルの上空には届きません。そこで、日本は飛行機で体当たりをしてB-29を落としました。
その体当たりされたB-29が北町の畑に墜落。その途中で現国分寺高校近くの畑に数発の爆弾を落としました。
B-29の消火で私の父が消防団で行きました。「米国の兵隊の弁当はジャガイモとグリンピース。大して良い物を食べてない」との話を後年聞きました。

一方、日本の体当たりした飛行機がひらひらとわが家に向かって落ちてきました。
急いで祖母と防空壕に入りました。しばらくして出て見たら、裏の荒井さんの崖線の上の畑に落ちて燃え上がっていました、ガソリンが燃えて流れ下り物置が燃えてしまいました。
その時、家族の人が麦俵を運び出していました。ちなみに、荒井さんの家は戦国時代よりの家で16代目です。

②  過給機
 後年、B-29は過給機が付いていて空気の少ない上空でも飛べた事を知り、日本は遅れていた事を理解しました。
 戦後、自動車用のターボ(過給機)ではMHI,IHIが世界の主力メーカーになり、更には船や飛行機用に日本で作っています。小さなエンジンで大きな出力をだせるからです。私も就職してジェットエンジンの設計と生産にかかわりましたが、過給機が主力のコンポーネントで航空機や天然ガスの発電機、更には災害時のポンプや電気の動力として使われています。

③  戦後の国分寺市
 戦後の国分寺は、町は国分寺駅の北側のみで殆どが農村でした。麦とサツマイモが主で、秋には俵に入れたサツマイモを道路に並べて宝焼酎のトラックで集めてました。又、各家に戦地より兵隊さんが帰ってくるのを時々見ました。
私の父の弟がシベリヤに抑留されなかなか帰らず、祖母が近くの寺のお地蔵さんにお参りに行くのが日課でした。
 立川の基地より米兵がジープに乗って来て、鳩を鉄砲でとっていました。
弁天通りは一面の草で、リヤカーの轍がわずかに残るだけでした。
                                          (記)島崎幸男

国分寺建立と我が「武蔵国分寺」について

掲題について遅ればせながら改めておさらいをしてみましょう。
奈良時代、全国67の各地に国分寺・国分尼寺が建立されました。

 聖武天皇(在位724749)の頃、天災、飢饉が相次ぎ、天然痘が猛威をふるっていました。その終息、日本の独立性、護国、国を鎮めるため、741年に国分寺造営の詔を聖武天皇が発布、寺の正式名は僧寺を金光明四天王護国之寺、尼寺を法華滅罪之寺と定めました。
特に「中央に廬舎那仏(大日如来)、右に薬師如来、左に千手観音」が鎮座し、この「三仏」を配すること、また「七重塔を持つ寺(国分寺)は「国の華」であり、必ず良い場所を選んで、まことに長く久しく保つようにしなければならない」と命じていました。
七重の塔には紫紙金字金光明最勝王経を納入する事としました。  
東大寺は、金光明四天王護国之寺、大華厳寺、恒説華厳寺ともよばれ、全国67ヶ寺の総国分寺としての役割も持っていました。
 東大寺という名は、平城京の「大寺(おおでら)」という意味であり、天皇の勅願寺という性格をもつ国立の寺院でありました。
武蔵国分寺の建設が始まったのは、737741(天平913)年の間と考えられ、20年弱の歳月をかけてようやく完成しました。敷地は東西8町、南北5町半と推測され(東大寺は東西南北各8町)、各地の国分寺の中でも相当大規模なものでした。金堂、講堂、中門、七重の塔で構成されていました。
昨今、ここ武蔵国分寺や東大寺では七重塔の再建が話題に上っているようで、これが実現すると魅力的な観光の目玉になるでしょう。
 一方、総国分尼寺の法華寺は「法華滅罪之寺」と呼ばれた大寺で、東大寺並みに「造法華寺司」と云う役所まで組織して造営された総国分尼寺としての風格を備えた大規模な寺院でした。
 法華寺が誕生した経緯は、藤原氏の権勢を高め磐石にする目的で不比等の邸宅を後娘の「光明子・光明皇后」が引き継いで皇后宮となり、その皇后宮が宮寺、大和の国分尼寺、法華寺と変遷していったのです。尼寺である法華寺の寺名の由来は、女人成仏を説く「法華経」から取り入れられたのでしょう。法華経といえば大乗仏教の基本的な経典で、「聖徳太子」、「最澄」、「日蓮」が重要な経として崇拝されました。
武蔵国分尼寺は跡地の発掘が進んでいますが、未伽藍の配置は不明で中門、金堂、尼房、跡などが判ってきたが、鐘楼、経堂、南大門などの位置は判っていなく今後の発掘を待ちたいと思います。
尚近隣地域では相模国分寺は海老名市・甲斐は笛吹市・安房は館山市・常陸は石岡市、に夫々国分寺遺跡があります。
                             (引用「東大寺」などより)   清水元(記)

鎌倉街道と東山道武蔵路

1、東山道について

東山道は「律令時代に皇居が置かれた五畿内と諸国の国府を結ぶ幹線道路」であり、中路とされたのは近江・美濃・信濃・上野・下野・陸奥の各国国府を通る道であった。30里ごとに駅馬10匹を備えた駅家が置かれていた。陸奥国府・多賀城より北は小路。
奈良時代になり、東山道の枝道として「東山道武蔵路」が設けられた。これは上野国より武蔵国府(現・府中市)に至る道で、武蔵国は、東京湾岸の令制国の中で唯一、東山道に属していた。他の東京湾岸の国や甲斐、駿河、伊豆等は東海道に属していたが、その後相模国から武蔵国を経由して下総国に抜ける陸路が開かれたため、武蔵国は東海道に入れ替わった。当時は大河川に橋を架ける技術は未発達で、渡河困難な大河が続く東海道よりも東山道の方がむしろ安全と考えられていた。
江戸時代になると、江戸を中心とする五街道が整備され、幹線道路としての東山道は、中山道・日光街道・奥州街道などに再編された。泉町1丁目一帯には約340mの直線道路跡が発掘され、側道跡や道路幅をアスファルト上に「東山道武蔵路跡」と表記(下左の写真)されており、また平成18年には南延長上に道路跡、住居跡、祭祀の痕跡がみつかり(下右の写真)歴史公園として解放されておりその広大さなど実感できる。 

 2、鎌倉街道について

古道としての鎌倉街道は、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網である。
鎌倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道で、鎌倉時代の関東近郊の主要道である。その呼び名が一般的に用いられるようになったのは江戸時代以降で、吾妻鏡や諸文献に「鎌倉街道」の呼び名は見られず、江戸時代の書物である新編武蔵風土記や江戸名所図会などに「鎌倉街道」が散見されている。
府中街道、都道18号府中町田線(下の写真)は通称「鎌倉街道」である。

 
余談ながら能の「鉢の木」(観阿弥・世阿弥作ともいわれるが作者不詳)は武士道を讃えるものとして江戸時代に特に好まれ、「いざ鎌倉」の語源となった。また「質素だが精一杯のもてなし」ということでこの名を冠した飲食店、菓子店(阿佐ヶ谷)などもある。内容は佐野に住む貧しい老武士、佐野源左衛門尉常世の家に、ある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を求める。常世は粟飯を出し、薪がないからといって大事にしていた鉢植えの木を切って焚き、精一杯のもてなしをする。常世は僧を相手に「一族の横領により落ちぶれてはいるが、一旦緩急あらば痩せ馬に鞭を打ちいち早く鎌倉に駆け付け、命懸けで戦う所存である」と語る。その後鎌倉から召集があり、常世も駆け付けるが、あの僧は実は前執権・北条時頼だった ことを知る。時頼は常世に礼を言い、言葉に偽りがなかったのを誉めて恩賞を与える。(Wikipedia)
                                          (記)清水元

「国分寺市の鳥」とマンホール

「市の鳥」をご存知でしょうか?
国分寺市は、市制施行50周年「未来へはばたく年」を記念して2014年11月3日に市の鳥として「カワセミ」を制定しました。
カワセミは「飛ぶ宝石箱」 といわれる美しい野鳥で、市内では武蔵国分寺公園池・姿見の池などで頻繁に観察されます。小枝にとまり、狙いをさだめて魚・エビなどを一気に急降下して捕らえます。空中でのホバリングも得意です。
国分寺市では「カワセミを図案化したマンホール蓋」を市内に設置しています。現在、姿見の池、市役所周辺で見ることができます。
ちなみに、市の木は「けやき」、市の花は「さつき」。
国分寺市は「爽やかなケヤキの葉音が聞こえ、サツキの花が咲きほこる小道の先に、カワセミが住む池がある」というイメージでしょうか。

    武蔵国分寺公園 カワセミ   市役所前のマンホール(左の写真を図案化したもの)
  (写真:国分寺バードウオッチングクラブ 国竹  正之氏 撮影)

                      (記)中山斌雄(国分寺稲門会幹事、国分寺バードウオッチングクラブ会長)

東京の重心・へそは「国分寺市」

北海道富良野市は北海道の丁度中央に位置して「へその町」なんて言われていますが、東京の重心・へそは何処でしょうか。
(財)日本数学検定協会が算出した結果、東京都の島嶼部分を除いた本土が1枚の平らな板だとして、この板を指に載せてたった1か所だけバランスがとれる所=東京都の重心・へそに当たるのが、国分寺市富士本3丁目あたりだそうです。
 
 国分寺市立富士本「90度公園」(国分寺市富士本3-19-11)の脇にその旨を記した看板(右の写真)も立っています。住宅街にあるごく普通の公園ですが、直角に曲がる道の角に沿うように公園の形が90度に曲がっているためにつけられた名称とのこと。
国分寺市は東京の重心・おへそです。

国分寺駅(停車場)と中央線の歴史

                                   (記)加藤勝三(昭和29年 商学部卒) 
   明治5年(1872年)新橋~横浜間に鉄道が開通した当時、「駅」を示す日本語が無くて「ステーション」と表現されていた。明治13年頃から「停車場」と言う言葉が用いられるようになる。しかし「駅」は古代以来の宿駅制の用語としての歴史を持っている為、明治22年に町村制が施行されて「旧来の駅の制度が廃止」されるまで、鉄道施設としての呼び名として使う事は出来なかったようである。正式に法令用語として停車場や駅が定義付けられたのは大正10年(1922年)である。
 明治18年3月新宿駅が開設されると、新宿~立川間の路線開設の請願が取り上げられ、甲武鉄道により測量が開始された。
当時、町らしい所は府中・調布・田無くらいしかなく、鉄道も府中の明星学園あたりに駅を作る予定で測量を開始。しかし「貴社の煙で蚕が死ぬ」「汽車の煙突から出る火の粉が沿線の草屋根に降りかかって火事になる」との大反対運動が起きて計画変更し、現在の位置に決定。
停車場については中野~境~小金井~立川の予定だったそうだが「国分寺で駅の敷地を献納してもらえれば国分寺でも良い」との事。そこで本村(東元町)の大地主:小柳九一郎氏が6000坪と言われるほどの土地を犠牲にして敷地を確保・献納。元市会議員:小柳実氏の曽祖父:小柳孫三郎氏が補足献納して「国分寺停車場が誕生」した。
 
 写真は、(左)当時の国分寺停車場、(右)中央線開業。

かくして武州鉄道により、明治22年(1889年)4月11日新宿~立川間で営業が開始された。これは毎年4月中旬に大勢の人が訪れる玉川上水の桜見物を見込んでの営業でもあった。
・ 明治22年8月、八王子駅開設
・ 明治27年、川越鉄道が国分寺~久米川間を開通。翌年、久米川~川越間も開通し現在の西武新宿線が全線開通。
・ 明治36年(1903年)、八王子~甲府間が国有の官設鉄道中央線として開通。
・ 明治39年、政府の鉄道国有化政策により国に買収され官設鉄道中央線の一部になり、明治44年に甲府~名古屋間が開業して中央線の全線が開通。
・ 明治43年、多摩川の砂利運搬専業の東京砂利鉄道が「国分寺~下河原」間に開通。大正5年(1916年)、軍用鉄道になり大正9年鉄道省に移管。下河原線となる。
・ 昭和9年(1934年)、府中競馬場が出来て「競馬場駅」が開設。競馬開催日に限り国分寺から乗客を輸送するようになった。戦時下の昭和19年、沿線の軍需工場・東芝・日本製鋼などの通勤専用車として運行。昭和24年、一般旅客者の運行を開始。昭和48年、武蔵野線開通により「西国分寺駅」を開設。上記の国分寺への運行が打ち切られた。
中央線の電化は大正11年に新宿~国分寺間、昭和15年12月までに立川まで実施された。
多摩湖鉄道は、昭和3年(1928年)に国分寺~萩山間、昭和5年に萩山~村山貯水池(現、多摩湖)が開業。この鉄道は箱根土地会社が学園都市として開発を始めた「小平学園」への交通路の確保、「村山貯水池」への観光客誘致として施設されたと言われている。駅は現在とは違い、東国分寺~桜堤~商大予科前(一橋大学)~小平学園~青梅街道 であった。
中央線は大正11年に電化されたが、昭和30年頃まで蒸気機関車が走っていた。現在はSLと言われて人気があるが、当時は線路沿いの家では「洗濯物が汽車のススで汚れてしまうので苦労した」と母親がよくこぼしていた。時代が変われば変わるものだと、つくづく思う次第である。
                                           (以上)