幻の日本初! 旧石器時代の遺跡発見 

幻の日本初! 旧石器時代の遺跡発見     
                  山岸 信雄(記)

現在の国分寺市域で、人が住み始めたのはいつ頃であろうか。およそ3万5千年前からである。
市内最古の遺跡である「多摩蘭坂(たまらんざか)遺跡」(内藤一丁目1~3、5、8、9及び同二丁目1、2、11付近)から3万5千年前頃と推定される旧石器時代の集落跡や打製石器が出土している。国分寺崖線の崖の上に位置し、南向きで陽当たりが良く、崖下に水が湧き、周囲の樹林地から食料や燃料を調達でき、富士山を眺望する一等地だ。
市内にはこの外、熊ノ郷(くまのごう)遺跡、恋ヶ窪遺跡、多喜窪(たきくぼ)遺跡、殿ヶ谷戸(とのがやと)遺跡、本町遺跡、光町遺跡など数多くの旧石器時代の集落跡が発見されている。
我が国では、縄文時代より前の遺跡や遺物が戦前には出土しておらず、無土器の時代には、日本列島に人類は居住していなかったと考えられていた。ところが、昭和21年(1946年)、独学で考古学を学んだ相沢忠洋(あいざわただひろ)が群馬県の岩宿で関東ローム層の中から旧石器(黒曜石の槍先型石器)を発見し、24年に明治大学による正式な調査を経て発表された。これは従来の定説を覆して、日本に旧石器時代が存在したことを証明する大発見として脚光を浴びた。
実はこの発表の2年前の22年、国分寺住職で郷土史家の星野亮勝(ほしのりょうしょう)は、西恋ヶ窪四丁目1付近で、道路整備のため崖が削られ赤土が露出しているところで、赤土の層の中に石が横一列に並んでいる箇所から黒曜石を発掘した。星野は「縄文とは違う!」と、後に国立音楽大学で文化人類学を教授する考古学者の甲野勇(こうのいさむ)を訪ねて相談した。甲野は「とにかく現地に出かけて一緒に調べてみましょう」と約束したが、黒曜石を机の抽斗にしまうと、そのまま忘れてしまった。
このとき、甲野が詳細な調査を行い、いち早く発表していれば、第一発見者は星野になったのである。後年、甲野は「私はとんだミスをしでかしたわけである。最初の発見者の星野氏には何とも申し訳ないことをしたと、未だに後悔している」と著書の「武蔵野を掘る」で述べている。
星野が発見した遺跡が「熊ノ郷遺跡」である(下の写真)。熊ノ郷遺跡は、日本で発掘された最初の旧石器時代の遺跡となり、中高の歴史の教科書にその名を留め、星野は第一発見者として永く栄誉を称えられるとともに、全国から考古学ファンが国分寺市に押し寄せ、西恋ヶ窪三丁目交差点界隈は観光バスで溢れ、府中街道には土産物店や食堂が軒を連ね、市の税収も多少は潤うはずであった。が、すべては「幻の日本初!」で終わることとなった。


 

「国分寺寄席」誕生のいきさつ

「国分寺寄席」 誕生のいきさつ

  平成25年 国分寺寄席実行委員長 眞宅康博

 「落語と言うものはぁ、チョイトォ持ち上げてストンと落とします。そのチョイト落とす処が面白いんでして」と志ん生が言ったのを末広亭で聞いたのが47年前。初めて落語と巡り合ったのが昭和18年国民学校一年生に上がる時分で、柳家金語楼の「噺家の兵隊」でした。その年に金語楼は落語家の鑑札を警視庁に返納しておりました。当時は鑑札!?
蓄音機で何回も聞いたので、今でもチョットした処は諳んじております。

 川口市大竹と言う所に植木屋の社長が居て、生来の酒好きが高じて自分の屋敷の一角に一棟建てて飲み屋を始めました。そこに友人に連れられて行ったのですが、メニューに“無い酒は無い”と謳っているから「永い間<亀の翁>を探しているのだが・・・・」「あるよ、飲みますか?」 それが“おおたけ苑”荒井英輔氏の出会いで、かれこれ14・5年前の事。
彼はただの呑兵衛ではなかった。生物理学士、しかも極上の粋人で「何か良い趣向はないかいな」と言うので、友人の山本武氏が「落語の席亭にしたら」と提案。知り合いの馬生師に渉りをつけ、月に一度、馬生師匠の弟子でまだ前座の駒丸(馬治)・駒介(馬吉)を交代で隔月に話をさせようと決め、師匠は時折演じてくれる事になりました。それからは毎月二人の上達振り拝聴。

 私が国分寺に越して暫くして、師匠と馬吉が並木町公民館に来演したりしました。また、国分寺稲門会「稲穂祭」の企画として「落語を入れては」と提案。馬生師匠は快諾、馬吉・駒ン奈(萩野アンナ:慶応文学部教授)を連れて三人で出演して盛り上げてもらって大盛会になりました。

 そのうち私は「二つ目に昇格した馬治・馬吉の落語会を国分寺で開催して地域の人々や老人に喜んでもらえれば、国分寺稲門会としての地域活動の一助になる」と考えました。その頃、ある老人会の会長から「落語会を催して欲しい」との話が舞い込みました。ただ難題が一つ。「老人には無料にして・・・?!」 無料はご勘弁被り度候! 無料はお断りして、構想していた名分に合致するのでその船に乗る事に決めました。
「第1回国分寺寄席」です。平成23年、会場手配・出演依頼(馬生師匠自ら出演)、チラシ(下の写真)や入場券の作成、370席を満席にする事。幸い稲門会と老人会の助力を得て当日は満員御礼。下の写真は当日出演者の色紙です。東日本大震災にも幾許かの寄付も出来て大成功でした。その後も「国分寺寄席」は毎年開催されて、お陰様で毎回「満員御礼」を続けています。

 現在、「国分寺寄席」は国分寺稲門会の活動スローガン「早稲田と共に、地域と共に」の事業として位置付けてられています。今後も、更に発展しながら継続される事を願っています。

(以上)


 

恋ヶ窪恋物語

恋ヶ窪恋物語
                         谷田成雄(記)、野部明敬(補記)
皆様ご存知の落語「崇徳院」は、
百人一首「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の割れても末に会わんとぞ思う(崇徳院)」に題材をとった若い男女のめでたしめでたしの恋物語ですが、こちらの方は悲恋物語です。
エピソードを交えた谷田成雄氏の文でご紹介します。

恋ヶ窪の伝説(抜粋、一部加筆)
10数年前、御殿場のスペイン陶人形で有名なリヤドロの店で「サムライの別れ」と題する「馬に跨った鎧を着た武士が和服の麗人と別れるシーンを象った大きな陶塑」が目に飛び込んで来た。
一目見るなり「恋ヶ窪に伝わる畠山重忠と遊女・夙妻太夫の悲恋物語」から題材を取ったと感じた。聞いてみると「もう廃盤になり在庫はこれしかない」という。
考えてみると戦場に赴く人を送るこのシーンは人類の永遠のテーマで、子供の頃に出征軍人を送ったことが思い出された。勿論、戦争末期には送る人も少なく帰らぬ人が多かった。
色々なことが連想されたが、兎に角国分寺のためにも買っておかねばならぬと思った。
それは、いつか国分寺駅北口再開発が出来たとき、昭和19年以来住んで居る「第二の故郷:国分寺市にこの像を寄付しよう」と思ったからである。
私、谷田成雄が最初に住んだのは、恋ヶ窪4丁目の6畳一間であった。
戦後食糧不足の折、農家は潤っており、各部落のお祭りは競い合って盛んに行われた。背中一面に丸く囲った戀の字の半纏を纏って、ささくれ立った青竹を地面に叩きつけながら喚く様は中々迫力があった。
然し、戀ヶ窪の「戀」の字には参った。中学で住所変更を書けと言われたが、戀の字が思い出せず、戀ケ窪を変が窪と書いてしまった。そしたら国語の先生に「へんがくぼ・・・、変な地名だな」と言われた。これは思い出しても汗顔の至りである。
この戀ケ窪の地名は「畠山重忠と夙妻太夫の悲恋物語」から来ていると昔から言われている。
鎌倉幕府の武士中の武士と謳われた畠山重忠は、鎌倉への往還に途中の恋ヶ窪に泊まり、名妓夙妻太夫と恋仲であった。然し義経に従って平家追討している時、夙妻太夫は言い寄る男に「畠山は戦死した」と言われ、絶望し姿見の池に身を投じてしまった。
いつの世の中にも嫌な男は居るものだ。村人は夙妻の哀れな女心に同情し、手厚く葬り松を植えた。それが一葉松なのです。
その後無事帰ってきた重忠は、事の顛末に慟哭し「無量山道成寺」を建立し、阿弥陀如来像を安置して夙妻太夫の御霊を弔ったとのことです。

この伝説は儚くも美しく、ペンシルロケット・新幹線と並んで国分寺の誇るべき宝であると思っています。
この像は国分寺市に寄贈致し、北口再開発ビル開館時に、ウエスト5階に一時展示されました(写真)。

落語「崇徳院」は「一目ぼれして恋の病に陥った若旦那と大店の御嬢さんが、互いの名・所を知らず、崇徳院の上句だけを頼りに互いの出入り人が探しまくるお噺」です。最終場面では、床屋で双方出会い、喜びも束の間、今度はどちらの先に報告に行くかで揉み合い、床屋の鏡を壊してしまう。
床屋のオヤジが「どうしてくれるんだ!」、二人が「心配ない。割れても末に買わんとぞ思う」がオチとなります。
国分寺の陶人形も「割れずに」末永く展示されることを願っています。
(以上)


 

『国分寺 と 玉川上水の分水』 その3(最終回)

『国分寺 と 玉川上水の分水』 その3(最終回)
          私的見解 眞宅康博
【その後の武蔵野】
享保年間の吉宗によって武蔵野開拓開発が進められたが、その成果は武蔵東部に比べてきわめて乏しいものであった。というのも武蔵野台地は気象的にも地形的にも水田稲作には
不向きであって、更に武蔵野の土地は関東ローム層のやせた土地だから、そのままでは畑作にも不向きであった。この土地が畑として農作物が出来るには水と肥料が必要なのだ。
『水』は玉川上水からなんとか分水が出来たが、肥料は解決されないでいた。
『肥料』は、ハッキリ言えば『人糞』である。
 大量の人糞があるのは江戸である。しかし、人糞を江戸から運ぶには舟を使う。
この水運・船運が発達していたのは武蔵東部であった。西部にはこれといった川ない。そのため江戸時代は、東部では江戸の需要を当て込んだ野菜栽培など近郊農業が盛んになっていた。西部の武蔵野では、こういう農業が不可能であった。
 この状態が長く続いた武蔵野の村人は、雑木で炭を作ったり、芋を栽培して主食にし、芋だけでは生きてゆけないので、八王子の市で原綿(練り綿)を買ってきて、それを女性たちが木綿布に織って八王子で売って現金を得る、男は焼いた炭を大八車で五日市の市に持っていって売りながら生計を立てていた。炭を江戸に運べば高く売れたが、大量に運ぶには残念ながら水運がなかったので、東の新河岸まで運んで船便を使った。

 【近代の武蔵野と都市化】
 このような武蔵野が本格的に開発されるのは、明治に入って鉄道が敷設されてからであった。甲武鉄道、のちの中央線がこれである。また国分寺~川越線、後の西武鉄道網などによって都内から人糞を大量に運ぶことが可能となり、武蔵野西部でも近郊農業が発達した。
 そして、この武蔵野が現在のように都市化するのは、1964年の東京オリンピックの頃からである。高度経済成長で東京が急膨張すると、武蔵野は勤労者の住宅地として開発され、現在のような閑静な住宅都市になった。国分寺市は周辺都市が人口減に移行しているにも拘らず、今人口増に転じ、12万余に増えている。
 なお、現在国分寺市の市民は、生活水を東京都の管理する水道水を利用しているが、そのほとんどは市内の各所にある深井戸の地下水で賄われていることをご存じだろうか。
 国分寺は水と緑の豊富な街として、また歴史の街として誇りたい町である。国分寺をこの地に決めた条件は、風水によると言われている。災害も少なく住み易い町、安心・安全の街づくりでは他の自治体の視察の対象となっている。
 こういう歴史を見てゆくと、武蔵野の西部地区は日本全体から見廻しても極めて古くて新しい町だと言えるのではなかろうか。

(完)


 

『国分寺と玉川上水の分水』 その2

『国分寺 と 玉川上水の分水』 その2

         私的見解 眞宅康博(記)
 【国分寺分水】
玉川上水は、承応2年(1653)4月から11月の間に.開削された。緩やかな武蔵台地を羽村の取水口から砂川村を通り、四谷大木戸まで43㎞にわたる大工事だった。
そのわずか4年後の明暦3年(1657)、国分寺村・恋ヶ窪村・貫井村が玉川上水から水田用水を引水することを願い出て許され、合同の分水口が設けられた。
 この分水は『国分寺村分水』や『国分寺村外二ヶ村組合分水』と呼ばれ、開削当初は上水3丁目(鷹の台水車通り)付近の玉川上水から直接取水し、現在の窪東公園の西側を南下して恋ヶ窪交差点で貫井分水と別れ、東恋ヶ窪5丁目交差点東側で国分寺分水と恋ヶ窪村分水に分かれるルートだった。
このような玉川分水は武蔵野台地の至る所を流れていた。水は昭和45年頃まで流されていたと見られ、恋ヶ窪村の田園風景を構成していた。また、かつて恋ヶ窪交差点の東側一帯は『堀分』という地名だった。

 【恋ヶ窪村分水の開削】
恋ヶ窪村は、中世には鎌倉道が通る交通の要衝に位置しており、近世初頭には村が成立していたと考えられる。恋ヶ窪村分水は村の農業用水の確保が目的であったが、その開削には、さんや谷と恋ヶ窪谷に挟まれた台地を一つ越えなければならず、当時トンネル工法ともいえる胎内掘はまだ技術的に確立されておらず、この段丘を通すために大規模に掘り込む必要があった。
 分水の開削により、恋ヶ窪村は約3斗9升から8斗8升と倍以上の石高となり、次第に高低差を利用して水車経営をする農家など現れた。
 分水跡は、明暦3年の開削から360年にあたる2,017年に市重要史跡に指定している。市内には恋ヶ窪村分水以外にも江戸時代を過ごして多くの分水が設けられていた。五日市街道に並行して通水している南野中新田用水(砂川用水)が現存している。
また西町にはトンネル状の胎内掘が残っている。
 市内には、分水を利用した水車の痕跡、水の祭祀に関係する寺社などの文化財が多く残されている。 (続く)


 

国分寺と玉川上水の分水(その1)

国分寺と玉川上水の分水 その1(3回連載)

武蔵国分寺が築かれた天平の時代は、国府は武蔵府中にあって、武蔵国の人口は(埼玉の一部・東京・横浜川崎)15~6万人位と推定する説がある。多摩川沿いには太田、世田谷、狛江、調布、などに小規模の縄文中期の古蹟が存在していて、古来水のある地域で生活を営んで居たのであろう。

 平安時代から室町時代には、武蔵国豊島郡江戸と言われるように江戸氏が治めていた。『みのひとつたになきそかなしき』で有名な太田道灌は、扇谷上杉氏の武将で15世紀のの半ばに江戸城を築いた。室町時代当時の江戸西部はまだ全くの原野であっただろう。

 【徳川家康の江戸入り】

時代は下って徳川家康が江戸入府したのは天正18年、1590年の頃、先ず府中に入った。東海道ではなく、東山道が主要道であった。府中に『御殿跡』と伝えられところがある。かつては、多摩川の向こうに多摩の横山、相模の山々を一望し、目の前には、切り下ろすような府中崖線を境にして、水田と茫々たる武蔵野が拡がる風光明媚な所、台地の先端である。手前の道が旧甲州街道で左が大國魂神社、右に高安寺、御殿跡地の左側の道が現府中街道となっている。秀吉に命ぜられ、家康は東山道で下って、このところに最初に居を構えたのであろう。
府中台地の北に国分寺崖線があり、崖線の下には湧水群があり清冽な湧水が流れ出ている。国分寺に『眞姿の池』があり『おたかの道』がある。家康は府中御殿に滞在の頃、このあたりで鷹狩りや、多摩川でアユ釣りを楽しんだのであろうかと想像される。

 【国分寺村と水】

さて、現在の国分寺市の殆どは国分寺崖線の上、台地に広がっている。しかし、めぼしい河川らしきものは一切ない。家康が入府した当時の国分寺村は、崖線の下、国分寺跡から東西にのびるところに農家が散在していたと想像される。今の国分寺二小の坂を上って又下り坂になり恋ヶ窪に至るとまた登坂になっている。この道は、元 東山道であり、府中の国衙へゆく道であったので往時から恋ヶ窪辺りは家もかなりあって、恋ヶ窪村があった。恋ヶ窪谷やその東にさんや谷もあり、この辺は可成り起伏にとんだ地形になっている。低地でやや水田があったであろうと思われるが、水は何処から引いてきたのか?

 【幕府の治水・用水工事】

 江戸の東の見沼代用水は水路を掘削するという大工事であったから、幕府は資金と技術を提供した。それに対し、多摩川左岸の武蔵野の開拓は、幕府は何も施さず民間の手で行われた。
 武蔵野は江戸に近いにもかかわらず、台地上の地形のため飲料水にも乏しい土地で、江戸の初め頃は、狭山丘陵とその南の国分寺と府中近辺以外人々は殆ど住んでいなかった。日本列島が形成されて以来、江戸中期頃まで武蔵野は全く人の住まない土地であった。
玉川上水は、承応2年(1653)4月から11月の間に.開削された。緩やかな武蔵台地を羽村の取水口(下:現在の写真)から砂川村を通り、四谷大木戸まで43㎞にわたる大工事だった。  (続く)

     眞宅康博(記)(第1回/3回連載)


 

吉宗の農地開発事業と国分寺(武蔵野の開発)その2(続き)

吉宗の農地開発事業と国分寺(武蔵野の開発)その2(続き)

 こうした開発が出来るのは豪農と言われる農民か、村が村の事業として取り組む場合に限られてしまう。前者を百姓請負新田といい、後者を村請新田という。
国分寺の地名として残っているだけでも、本多新田、内藤新田、戸倉新田などあり、野中新田、六左衛門新田などは地名から消えてしまったものもある。
 このうち戸倉新田は村請新田である。吉宗が大岡越前守に武蔵野新田の開発を命じた時、戸倉市三郎の祖先渡辺合佐衛門(後戸倉郷佐衛門)という人が(現あきるの市内)の戸倉村から同志を募り新田開拓をして元住んで居た村の名前に因んで村名とした。
 百姓請負新田は開発者の営利事業で、開発者は入植者を集めては彼らを小作農民にして自分は地主になり、もしくは入植者に農地を売り利益を得ていた。彼らは村の名主としておさまり、今でもこの地域には大きな屋敷を残していることが見受けられるが、その当時の村名主の子孫であることが想像される。
 しかし、村請や百姓請負のいずれにしても、開発には大金が必要で豪農や村が単独では資金の全部を賄うことは出来なかった、そこで多くは江戸の宿場町の豪商に出資を求め共同開発となった。豪商にとっては単に投資であるから出資金の回収を急ぎ或いは出来るだけ早く入植者から金銭、収穫物を得ようとして開発者との間で様々なトラブルを引き起こすことになった。
 また、トラブルと言えば、この新田開発では隣村との争い事が絶えず起きていた。既存の村の山林の草木は刈敷など肥料や家畜の飼料、薪炭の採集地となっていた。これを秣場(まぐさば)というが、新田が新しく出来るとこの秣場がなくなってしまい新田村でも秣場は必要で、そのため江戸時代の武蔵野では村と村との争いごとが絶えなかったのである。村請新田には新田を必要としないのに新田開発をする村があったがそれは自分たちの秣場を確保するために開発した村であった。
 武蔵野新田は、東の埼玉側では既存の村の反対・排斥運動が激しかったので新田村は比較的に少なく、東京側では反対が弱かったので多くの新田村が生まれた。
 こうして見てくると、五日市街道から南に戸倉通りまで伸びる新田は、百姓請負新田のようであり、戸倉通りから南東に開拓したのは村請新田であるように思われる。それとほぼ直角に内藤新田が拡がっているが、この開発者は新宿内藤の藤堂家の開発した村であったのだろう?とは独断思考であるかもしれない・・・。
 その後の武蔵野については、また機会があれば調べてみたいと思っている。

           (Yahoo!参考)    ’18・11・25(眞宅康博 記)


 

徳川吉宗の農地開発事業と国分寺(武蔵野の開拓)、その1

 国分寺の、北西部にあたる西恋ヶ窪日吉町富士本戸倉新町並木町北町、或いは西の内藤町の住宅街を俯瞰してみると、江戸享保時代が見えてくる。

国分寺農地開拓

 北町、並木町、新町五日市街道にほぼ直角に道が通り、戸倉通りに到る。また、戸倉、富士本、西恋ヶ窪は戸倉通りから南東方向へ市役所通りを直角に横切りJR中央線に向かっている。そしてまた、内藤町、日吉町は内藤通りからJR線を挟んで南西に伸びているのが分かる。

 此の道筋の違いは、なんだろう? 道筋の違いが、これらの街を複雑にし、住所探しを余計に難しくしている。この原因は享保の新田開発だった⁉ 武蔵野の東部は早くから拓けており、見沼代用水や野火止用水の水路の掘削は大掛りな土木事業で幕府は資金と技術を提供した。それに対し、多摩川左岸の武蔵野台地の開拓では幕府は何もせずもっぱら民間の手に委ねた事業だった。

 武蔵野は江戸に近いにもかかわらず、台地状の地形のため飲料水にも乏しい土地で、それまで人々は殆ど住んで居なかった。ここは日本列島が形成されて以来、この時代になるまで全く人の住まない土地であった。江戸時代の初めの頃を見ると、ここで生活出来たのは狭山丘陵とその南の、今の国分寺と府中だけであった。狭山丘陵から湧き出る水と、国分寺崖線という湧水河川があったからである。

 しかし、日本の気象は高温多湿であり、水田稲作はともかく畑作だけなら天水で十分農耕は出来る。そこで、吉宗が取った政策は、この武蔵野台地に移住して新田村を作る者には「玉川上水を飲料水として開放する」ということであった。玉川上水は1653年には完成していて江戸市中の上水を供給していた。分水については完成後翌々年には川越藩松平信綱が野火止用水を開削して埼玉県南部に供給したのが始まりで、その後千川や神田上水に分水して江戸の町を潤した。

 1772年、吉宗は日本橋に高札を立て、新田開発の希望者には土地を払い下げるというもので、吉宗の新田開発政策は武蔵野台地に限らず、実際にはこの開拓政策で最も成果が上がったのは新潟で、武蔵野台地の開拓で得られた農地は1万石、新潟では10万石の成果であった。

 武蔵野台地の開拓者には、玉川上水をさらに細かく分水して新しい農村を作ろうという事が吉宗の狙いであった。開発を願い出る者から出願料は取れるし、年貢も取れるというのが吉宗の目論見であった。開発後3~5年は年貢を取らない(鍬下年期)という恩恵があったが100両単位の出願料と鍬下年期の間は1反辺り12文の役錢か役米を払う必要があった。

 また払い下げの土地は1㌶程度ではなく、何十町の広い土地を一括して払い下げるというものであったから農家の次三男が独力で開拓できるものではなかった。

 ‘18・9・25 (眞宅康博 記)


 

江戸時代、国分寺は月の名所だった

 大久保狭南は元文2年から文化6年(1736~1809)江戸後期の儒学者で幕臣。後年は狭山丘陵、入間郡山口(所沢市山口)に住んで郷土史を研究したという。
 大久保狭南が残している『武蔵八景』に「立野月出」として国分寺の秋を描写している一文がある。次のような漢詩を添えている。
「平野秋夕暮 草深多露濡 偏憐月出景 滿地如連珠」
『平野に秋晴れの夕べ 草深く濡れること多し 偏に愛でる月の出の景色見渡す限り連珠の如し』 
「立野月出」 「立野の月の出」は武蔵野八景の一つで月の名所であるといい、次いで「立野は一か所を指していうのではなく、ここでは府中より北、国分寺に到るまでの半里、左右の平原がこれである。昔、馬を曳いて府中の市に来た者はここで宿泊して、馬を立てたのでこの名がある
 今は府中街道の両側には、府中刑務所や東芝の工場はじめ家々がびっしりと建て込んでいるが、当時西の方は遠く山々が連なり、そのまた向こうに霊峰富士の山を仰ぐことが出来たのであろう。

 また、西国分寺駅より南に旧鎌倉街道と言われる道を1㎞あまり下るところの左手に小高い丘がある。塚のような高さ5m程の山であるが、狭南の言うところの“富士塚”であろうと思われる。また続けて「この塚に登れば一目で千里見渡せる。東は遥かに天地が接するのを見るばかり、秋晴れの夕べに月の出の光が草の間から生まれ、古歌に歌われた情景は幻ではない。そのために中秋の月の出を見に来る人が多い
 「この塚から東の方向に国分寺の甍が見える。国分寺に仁王門の跡がある。礎石の石があり大きいのに驚く。あたりには古い瓦の破片が沢山あり、国分寺はその昔大伽藍であったことが明らかである」と説明している。
 今この塚に上って東を見ても、あるいは西の方を見ても昔の情景は想像だに難しく、ただぎっしりと並んだ家並とビル群の林立を見るのみである。  
 200年前の国分寺や府中のたたずまいは、書物の中で眠っているだけである。

 因みに400年前の、林 羅山の漢詩にも同様の情景を歌っている。
 「武野晴月」と題して
『武陵秋色月嬋娟 曠野平原晴快然 輾破青青無轍迹 一輪千里草連天』
武蔵野は秋の月が美しい、草の原が続き、ただ丸い月が千里を照らし輝いている
と。

(記)眞宅康博

JR:国分寺駅・西国分寺駅の発車メロディ

この度、3月4日からJR中央線国分寺駅と西国分寺駅の発車メロディが変わりました。
国分寺駅は、国分寺で半生・40年を過ごした作曲家・信時潔の童謡「電車ごっこ」、西国分寺駅は「一番星見つけた」。

 武蔵野線西国分寺駅は“国分寺市の歌”が各々採用され、鳴り響いています。
信時潔は大阪出身で、父親は牧師で幼い時から讃美歌に親しみ、東京芸術大、ドイツ留学、芸大教授を経て、作曲部創設に尽力。作品は1000曲以上で、「海ゆかば」「紀元二千六百年頌歌」、文部省唱歌「電車ごっこ」「花火」等々。戦前戦後を通じて学校の音楽教科書の編纂や監修にも力を注ぎ、校歌・社歌・団体歌等の作曲も数多く手がけています。
国分寺市立小中学校の校歌作曲も多数あり、国分寺市内15校中6校(第一~第四小学校、第一・第二中学校)の校歌を作曲、6万人の生徒がこの校歌を胸に卒業しています。他に灘、桐朋、桜蔭高、慶応義塾、学習院、成蹊、専修大学など多々あります。
「電車ごっこ」の発車メロディは電車の駅風景として出来すぎ位にマッチしており、国分寺として誇れるものです。因みに近隣の発車メロディは武蔵小金井が“さくらさくら”小金井堤の関連、駒込も同じで、染井よしの発祥の地の関連。三鷹が“めだかの学校”、豊田が“たきび”、八王子が“夕焼け小焼け”、高田馬場が“鉄腕アトム”となっており、後れ駆せながら国分寺駅での楽しみが増えました。
この発車メロディは国鉄時代の1970年代後半から電子音のベル(「ピロピロピロ」という音)を使用していましたが、耳障りであるなどと不評であった為、1989年新宿駅と渋谷駅に導入し、順次採用、実施されています。
電車ごっこ(井上赳作詞)「運転手は君だ 車掌は僕だ、あとの4人が 電車のお客 お乗りはお早く動きます ちんちん・運転手は上手 電車は早い 次は上野の公園前だ お乗りはお早く動きます ちんちん」
一番星見つけた(生沼勝作詞)「一番星見つけた あれあの森の 杉の木の上に 二番星みつけたあれあの土手の 柳の木の上に 三番星見つけた あれあの山の上に 松の木の上に」
                                            清水元(記)