徳川吉宗の農地開発事業と国分寺(武蔵野の開拓)、その1

 国分寺の、北西部にあたる西恋ヶ窪日吉町富士本戸倉新町並木町北町、或いは西の内藤町の住宅街を俯瞰してみると、江戸享保時代が見えてくる。

国分寺農地開拓

 北町、並木町、新町五日市街道にほぼ直角に道が通り、戸倉通りに到る。また、戸倉、富士本、西恋ヶ窪は戸倉通りから南東方向へ市役所通りを直角に横切りJR中央線に向かっている。そしてまた、内藤町、日吉町は内藤通りからJR線を挟んで南西に伸びているのが分かる。

 此の道筋の違いは、なんだろう? 道筋の違いが、これらの街を複雑にし、住所探しを余計に難しくしている。この原因は享保の新田開発だった⁉ 武蔵野の東部は早くから拓けており、見沼代用水や野火止用水の水路の掘削は大掛りな土木事業で幕府は資金と技術を提供した。それに対し、多摩川左岸の武蔵野台地の開拓では幕府は何もせずもっぱら民間の手に委ねた事業だった。

 武蔵野は江戸に近いにもかかわらず、台地状の地形のため飲料水にも乏しい土地で、それまで人々は殆ど住んで居なかった。ここは日本列島が形成されて以来、この時代になるまで全く人の住まない土地であった。江戸時代の初めの頃を見ると、ここで生活出来たのは狭山丘陵とその南の、今の国分寺と府中だけであった。狭山丘陵から湧き出る水と、国分寺崖線という湧水河川があったからである。

 しかし、日本の気象は高温多湿であり、水田稲作はともかく畑作だけなら天水で十分農耕は出来る。そこで、吉宗が取った政策は、この武蔵野台地に移住して新田村を作る者には「玉川上水を飲料水として開放する」ということであった。玉川上水は1653年には完成していて江戸市中の上水を供給していた。分水については完成後翌々年には川越藩松平信綱が野火止用水を開削して埼玉県南部に供給したのが始まりで、その後千川や神田上水に分水して江戸の町を潤した。

 1772年、吉宗は日本橋に高札を立て、新田開発の希望者には土地を払い下げるというもので、吉宗の新田開発政策は武蔵野台地に限らず、実際にはこの開拓政策で最も成果が上がったのは新潟で、武蔵野台地の開拓で得られた農地は1万石、新潟では10万石の成果であった。

 武蔵野台地の開拓者には、玉川上水をさらに細かく分水して新しい農村を作ろうという事が吉宗の狙いであった。開発を願い出る者から出願料は取れるし、年貢も取れるというのが吉宗の目論見であった。開発後3~5年は年貢を取らない(鍬下年期)という恩恵があったが100両単位の出願料と鍬下年期の間は1反辺り12文の役錢か役米を払う必要があった。

 また払い下げの土地は1㌶程度ではなく、何十町の広い土地を一括して払い下げるというものであったから農家の次三男が独力で開拓できるものではなかった。

 ‘18・9・25 (眞宅康博 記)