大久保狭南は元文2年から文化6年(1736~1809)江戸後期の儒学者で幕臣。後年は狭山丘陵、入間郡山口(所沢市山口)に住んで郷土史を研究したという。
大久保狭南が残している『武蔵八景』に「立野月出」として国分寺の秋を描写している一文がある。次のような漢詩を添えている。
「平野秋夕暮 草深多露濡 偏憐月出景 滿地如連珠」
『平野に秋晴れの夕べ 草深く濡れること多し 偏に愛でる月の出の景色見渡す限り連珠の如し』
「立野月出」 「立野の月の出」は武蔵野八景の一つで月の名所であるといい、次いで「立野は一か所を指していうのではなく、ここでは府中より北、国分寺に到るまでの半里、左右の平原がこれである。昔、馬を曳いて府中の市に来た者はここで宿泊して、馬を立てたのでこの名がある」
今は府中街道の両側には、府中刑務所や東芝の工場はじめ家々がびっしりと建て込んでいるが、当時西の方は遠く山々が連なり、そのまた向こうに霊峰富士の山を仰ぐことが出来たのであろう。
また、西国分寺駅より南に旧鎌倉街道と言われる道を1㎞あまり下るところの左手に小高い丘がある。塚のような高さ5m程の山であるが、狭南の言うところの“富士塚”であろうと思われる。また続けて「この塚に登れば一目で千里見渡せる。東は遥かに天地が接するのを見るばかり、秋晴れの夕べに月の出の光が草の間から生まれ、古歌に歌われた情景は幻ではない。そのために中秋の月の出を見に来る人が多い」
「この塚から東の方向に国分寺の甍が見える。国分寺に仁王門の跡がある。礎石の石があり大きいのに驚く。あたりには古い瓦の破片が沢山あり、国分寺はその昔大伽藍であったことが明らかである」と説明している。
今この塚に上って東を見ても、あるいは西の方を見ても昔の情景は想像だに難しく、ただぎっしりと並んだ家並とビル群の林立を見るのみである。
200年前の国分寺や府中のたたずまいは、書物の中で眠っているだけである。
因みに400年前の、林 羅山の漢詩にも同様の情景を歌っている。
「武野晴月」と題して
『武陵秋色月嬋娟 曠野平原晴快然 輾破青青無轍迹 一輪千里草連天』
武蔵野は秋の月が美しい、草の原が続き、ただ丸い月が千里を照らし輝いていると。
(記)眞宅康博