掲題について遅ればせながら改めておさらいをしてみましょう。
奈良時代、全国67の各地に国分寺・国分尼寺が建立されました。
聖武天皇(在位724749)の頃、天災、飢饉が相次ぎ、天然痘が猛威をふるっていました。その終息、日本の独立性、護国、国を鎮めるため、741年に国分寺造営の詔を聖武天皇が発布、寺の正式名は僧寺を金光明四天王護国之寺、尼寺を法華滅罪之寺と定めました。
特に「中央に廬舎那仏(大日如来)、右に薬師如来、左に千手観音」が鎮座し、この「三仏」を配すること、また「七重塔を持つ寺(国分寺)は「国の華」であり、必ず良い場所を選んで、まことに長く久しく保つようにしなければならない」と命じていました。
七重の塔には紫紙金字金光明最勝王経を納入する事としました。
東大寺は、金光明四天王護国之寺、大華厳寺、恒説華厳寺ともよばれ、全国67ヶ寺の総国分寺としての役割も持っていました。
東大寺という名は、平城京の「大寺(おおでら)」という意味であり、天皇の勅願寺という性格をもつ国立の寺院でありました。
武蔵国分寺の建設が始まったのは、737741(天平913)年の間と考えられ、20年弱の歳月をかけてようやく完成しました。敷地は東西8町、南北5町半と推測され(東大寺は東西南北各8町)、各地の国分寺の中でも相当大規模なものでした。金堂、講堂、中門、七重の塔で構成されていました。
昨今、ここ武蔵国分寺や東大寺では七重塔の再建が話題に上っているようで、これが実現すると魅力的な観光の目玉になるでしょう。
一方、総国分尼寺の法華寺は「法華滅罪之寺」と呼ばれた大寺で、東大寺並みに「造法華寺司」と云う役所まで組織して造営された総国分尼寺としての風格を備えた大規模な寺院でした。
法華寺が誕生した経緯は、藤原氏の権勢を高め磐石にする目的で不比等の邸宅を後娘の「光明子・光明皇后」が引き継いで皇后宮となり、その皇后宮が宮寺、大和の国分尼寺、法華寺と変遷していったのです。尼寺である法華寺の寺名の由来は、女人成仏を説く「法華経」から取り入れられたのでしょう。法華経といえば大乗仏教の基本的な経典で、「聖徳太子」、「最澄」、「日蓮」が重要な経として崇拝されました。
武蔵国分尼寺は跡地の発掘が進んでいますが、未伽藍の配置は不明で中門、金堂、尼房、跡などが判ってきたが、鐘楼、経堂、南大門などの位置は判っていなく今後の発掘を待ちたいと思います。
尚近隣地域では相模国分寺は海老名市・甲斐は笛吹市・安房は館山市・常陸は石岡市、に夫々国分寺遺跡があります。
(引用「東大寺」などより) 清水元(記)