(続)紅茶の話あれこれ 「一杯の美味しい紅茶」その1
50年来の友人、紅茶人で業界第一人者である荒木安正氏の著作から興味あるエッセンスを抜粋しました。紅茶への理解を深めていただければ幸甚です。
(記)日本紅茶協会 元専務理事 清水元(国分寺稲門会)
一杯の美味しい紅茶(その1)
思えば昔も今も世界中で「一杯の美味しい紅茶」を求めて様々な学習・調査・実験・研究が続けられている。しかし、この前提としては「紅茶に魅力が備わっている事」であろう。
「もしもあなたが寒い時、ティはあなたを暖めてくれるでしょう。
もしもあなたが暑い時、ティはあなたを冷やしてくれるでしょう。
もしもあなたの気分が落ち込んでいる時、ティはあなたを元気づけてくれるでしょう。
もしもあなたの気分が高ぶっている時、ティはあなたを鎮めてくれるでしょう。」
これは19世紀のイギリスを代表する政治家のW.E.グラッドストーン(1809~98)の名言で、大英帝国最盛期における「紅茶の魅力」が端的に表現されている。
1、「茶の世界」今昔
チャの故郷は中国・雲南省の西双版納(シーサンバンナ)辺りを中心とする山岳地帯で、チャ樹の発見とその利用の始まりは古く、伝説では今から5千年も昔のことであるという。“現代”はアジア・アフリカを軸におよそ40ヶ国で年間総計600万トン(2019年)の茶が生産されている。特徴としては総生産量の約70%が「紅茶」(強醗酵茶)で、インド・ケニア・スリランカ・中国・インドネシアが生産国。残り30%が「緑茶」(不醗酵茶)と「烏龍茶」(半醗酵茶)で、中国・日本・ヴェトナム・インドネシアが主産国である。
他方で、世界の190か国以上で「多種多様な茶」が市販され消費されている。年間の国内総消費量では、人口超大国の中国(緑茶)とインド(紅茶)が双璧ではある。しかし、このいずれも年間の一人当たりの消費量は少ない。年間一人当たりの消費量が2キロ超の「お茶好きの国」は、アイルランド・イギリス・トルコ・クエート・アフガニスタンなど。ただし、人口増や発展途上の経済見通しなどからして、近未来的にはインド・中国・ロシア・旧ソ連・中近東・アフリカのイスラム諸国での消費の急増が特に注目されている。
紅茶をどうぞ
2、「ChaとTea」の語源について
中国の茶祖・陸羽によって「茶経」が発刊された唐代(西暦7~8世紀)以降に、広東方言で「Cha」と呼称されてきた緑茶(黒茶・餅茶・団茶などをウマやラクダに乗せて)と喫茶の文化が「陸路」で近隣の諸国へ伝わっていった。他方、「海路」帆船によって緑茶や烏龍茶(福建省アモイの方言でTay=Tea)と喫茶の文化が遠方の国々へと伝わっていった。
このように陸路の発信基地「広東」からと、海路の発信基地「アモイ」(廈門)からと別々の方言が伝わったのだが、もともとCha(チャ)とTea(ティ)の語源は、貴州省あたりの少数民族・苗(ミャオ)族が使用していたツア・タに由来するとされる(周達生説)。
3、「Cha」の文化圏とは?
前者の中国産の緑茶は、朝鮮半島を経て日本にも伝来し、最初は僧侶たちの眠気覚まし(薬用)に利用され、やがて戦国時代の武将や豪商たちの嗜好品として珍重され「茶道」(点茶文化)にまで発展した。後に煎茶と急須を使った滝茶文化が開発されるや、次第に庶民階級にまで伝播していった。
他方で中国の茶は、北方のチベット・モンゴルに紹介され、さらに西方へはベトナム・ブータン・ネパール・ベンガル(バングラ)・北インド・パキスタン・アフガニスタン、さらにイラン・イラク・トルコ・エジプト、そして北アフリカのチュニジア・アルジェリア・モロッコなどに伝播していった。(ただし、タイ・ミャンマー(ビルマ)など東南アジア北部の山岳地帯に住む少数民族地帯では「茶を飲む」よりも「茶葉を発酵させて食べる文化」が古くから定着していた)。
4、「Tea」の文化圏とは?
後者の緑茶+烏龍茶の喫茶文化は、中国・明代(1368~1644)以降は、団茶に代わって「散茶(パラチャ)」が新規の取引形態の主役となり、17世紀初頭にはポルトガル以外で初めてオランダVOC(合同東印度会社)の帆船によって自国に運ばれ、同国の貴族豪商階級の間に大いに流行した。商才に長けたオランダ商人達は、中国産の茶をフランス・ドイツ・イギリス、そして現在のアメリカ東部植民地にも売り込んでいった。
こうした中で、緑茶と比べて色味香りがより強い半醗酵のボヒー(武夷茶)や、強醗酵のカングー茶(工夫茶)にのめり込んでいったのがイギリスの富裕階級であった。彼らは東アジアの螺鈿(ラデン)漆器の家具や調度品、当時は銀と同等の価値が認められていた「砂糖」、銀や陶磁の茶器、インド産のキャラコなどとのコラボで「茶の間」を創案して「宮廷貴族文化」を誕生させた。そして、茶を朝食時のエール(ビール)に代わる飲料として、あるいは正餐後のお茶会での「超贅沢なもてなしの主柱」として位置づけた。
イギリスEIC(東印度会社)はオランダVOCよりも遅れて東西の交易に参入したが、中国茶の輸入・販売から高利益が得られる事を確信する一方で、茶の供給元が中国のみという現実に不安を持ち、植民地のインド、さらにセイロン(スリランカ)で強醗酵茶(紅茶)の開発輸入を計画し、産業革命以後の機械文明と近代科学の知識を導入して生産性の高い品質の安定した紅茶産業を興し、七つの海を支配しながら世界各国に売り込んでいった。こうしてイギリス人が紅茶を世界商品の一つに成長させた。
5、 人間社会における「絆」
さて、ヒトは自分一人では生きていけない。最近流行の引きこもり専門の「巣ごもリッチさん」とは別に、独身・個食を愛する例も少なくないようだが、人間社会においては本来“共食”が基礎にあり、共に飲む茶が媒体となり喜びや悲しみを分かち合い、話し合い、励まし合い、援助し合ってこそ“絆”は強くなり、連帯感も増し、将来への希望や期待・夢につながるものである。例えば2011年の「東日本大震災」、さらに「福島原発大事故」による天災・人災を通して「頑張ろうニッポン、最後まであきらめるな」の言葉で、どれ程多くの命や生活が助けられ強くなってきたことか。
6、 ChaとTeaの魅力は?
世界有数の超高齢化成熟社会となったわが国では“高度経済成長の時代”はとっくに終わり、明日への安心や安全保障、そして未来への希望などが遠ざかりつつ感じられている。それは過去において”成果(利益)第一主義の追求“に終始して、PCや携帯端末に頼り切った”ディジタル文明社会“に起こりつつある負の一面であり、昨今とかくの問題を抱えた人情不在・個人主義のIT社会にあっては、何かにつけてスピード重視、従って限りないストレス社会に生きている証左なのであろう。
このような時、一昔前までは「タバコやアルコールなどの刺激物・麻痺させてくれる嗜好品への逃避」が許されてきた。しかし今やこれらのものは「脱法ハーブ」も含めてすべからく制約され、結果として新しく「自然・安全・健康至上主義」が全世界の潮流となってきた。つまり「刺激よりもくつろぎ」(癒し)を、それに「楽しさ」(人間性の回復)が加われば申し分なしと。そんな時、自信満々で現れ出たものが「こころとからだに優しく効く社交的で魅力あふれる飲料=ChaとTeaとその文化」なのである。
(つづく)
(続)紅茶の話あれこれ 「一杯の美味しい紅茶」その2
50年来の友人、紅茶人で業界第一人者である荒木安正氏の著作から興味あるエッセンスを抜粋しました。 紅茶への理解を深めていただければ幸甚です。
(記)日本紅茶協会 元専務理事 清水元(国分寺稲門会)
一杯の美味しい紅茶(その2)
1、 ミルクティ(Tea with milk)の始まり
15~17世紀初めにかけての大航海時代に、東洋と西洋の間でヒトやモノの交流が活発化し、17世紀の中頃には東洋の喫茶の習慣についての報告が、主としてポルトガルなどヨーロッパ人宣教師によって盛んに行われるようになった。”交易品としての茶“が1610年頃までにはオランダに輸入され、新規な飲み物あるいは薬用(覚醒・消化促進・痛風や尿砂予防など)として重宝されるようになっていった。1638年頃には茶がオランダによってドイツやフランスに売り込まれ、当時、パリ駐在のドイツ大使の許には「ペルシャ(イラン)やインドのポンペイ(ムンバイ)で煮出した茶液に砂糖や香料を入れて”チャイ“が常用されている」との情報が来た。
この頃、オランダ人ヨハン・ニューホフが書いた旅行記の中の「中国・日本の喫茶」は注目をひいた。彼はオランダ東インド会社が中国に派遣した使節団のコック長を勤め、1656年3月に広州を発ち7月に北京に着き、翌年末には広州を経てジャワ島のパタビアに戻った。彼は日本における「抹茶」の風と、ふたのついた今日風に言うと大型のマグカップの中に茶葉を入れて熱湯を注いだ後でふたを少しずらして隙間から茶液をすする中国の「淹茶(えんちゃ)」の風を紹介した。さらに別の項では「煮茶」の風を紹介。「茶の葉を一握りの半分量使って適量の水を加え、火にかけてから水が三分の一蒸発するまで煮出してから、暖めたミルクを四分の一加えて、塩を少し入れて熱いのを我慢しながらこれをすするのである」と。
オランダ式のミルクティーは1680年頃迄には普及し、フランスの上流階級にも紹介された。フランスではマダム・ド・セヴィーヌがある手紙の中で「友人(詩人の妻)であるマダム・ド・サブリエールが、彼女のミルクが冷たいのでこれを暖めるために熱い茶の抽出液を入れた」と書いたものが誤報された、とも言う。
UCCコーヒー博物館の資料によれば「コーヒーに初めてミルクを入れた人物はJ.ニューホフである。場所は意外にも中国で、彼は「ミルクティー」を所望したのだが無かったので、コーヒーにミルクを入れその代用にした」。ちなみに最初にコーヒーに砂糖を入れたのは1639年頃、エジプトのカイロ。コーヒーの苦みがダメだった人物がはじめたのだと。
2. ブレックファースト・ティー
「世界の各地で厳冬・大雪。グレート・ブリテン島もすっぽり雪化粧。零下18度の日もあり除雪難航・停電も」の報道。”早朝のティー・イン・ベッドもままならず“である。ところで百年以上前から世界の紅茶市場で使われている商品名に「ブレックファースト・ティー」がある。多くは「イングリッシュ」「アイリッシュ」「セイロン」などを冠したもので意味的には「朝食向けの濃い紅茶」である。
かってある識者曰く「最初のブレックファースト・ティーは中国江南茶区・安徴省祁門県で生産された祁門(キーマン)紅茶で、早朝からの一杯に理想的な目覚まし効果を持ち、ミルクを注げばその芳香はより一層引き立ち、その香りがあたかもパン焼きオーヴンから出て来たばかりの熱々のトースト(酸味と若干スモーキーな香味)を連想させるところから来ている」と。
W.H.ユーカーズ氏は「All about Tea」の中で「ブレックファースト・ティーの頭にイングリッシュを付けたのはアメリカ人で、かってアメリカがイギリスの植民地であった頃にイギリス人達が朝食に飲んでいた茶の事を、アメリカ人たちが皮肉を込めて自分たちの茶と区別するために敢えてそう呼んだものである」とした。
早朝ベッドの中で飲む「一杯の紅茶」(ベッドティー/ティー・イン・ベッド)や早朝時に「たっぷりと飲むブレックファースト・ティー」こそ正にスグレモノで「今日も生かされている」という実感が持てる。また茶の主要成分の一つである「カフェイン」の効果で、ヒトのカラダ全体を内部から暖めて眠気を覚まし気分を高揚させてくれる。ウツの気分転換や予防にも役立ち、ヒトの脳内で神経伝達物質として作用するドーパミンを放出し“自殺願望率”を低くし、“パーキンソン病”を予防する効果もあるとされる。
ブレックファースト・ティーのブレンドの正体は、当初の中国産「工夫紅茶」(キーマンむ含む)に代わり19世紀後半からは北東インドの「アッサム茶」、それから一部「セイロン茶」主体のブレンドが多かった。さらに20世紀の末頃にかけては、主役が東アフリカの「ケニヤ茶」「マラウイ茶」等となるに従い、それらと「インド・セイロン・その他の茶」をブレンドした商品が主流となった。
3、 イングリッシュ・ブレックファースト・ティー
英米の紅茶業界で使われている商品名に「イングリッシュ・ブレックファーストティー」がある。直訳して「イギリス人たちの朝食向きのブレンド紅茶」。名付け親は、スコットランドのエディンバラ城の近くで茶の専門店を経営していたMr.ドライスデールが、彼の売り出した朝食用ブレンドに「ブレックファースト・ティー」という商品名を付けた物と言うがいささか疑わしい。ただ、スコットランド人にとっては冠語のイングリッシュもアイリッシュも共に何の意味も持たない為に「ブレックファースト・ティー」とした説がある。
この商品の発想の起源は、18世紀後半に出現した中国:華北の工夫茶(Congou)のうち、1875年以降に江南茶区・安徴省祁門県に誕生した「祁門紅茶」(Keemun Black Tea)がイギリス人の感覚によれば理想的な覚醒(目覚まし)効果があったからという。すなわち、ミルクを注げばその芳香はより一層引き立ち、その香りはあたかも「パン焼きオーヴァンから出て来たばかりの熱々のトーストを連想させる」「酸味のある、そして煙を含んだようなスモーキーな香味がある」と説明される。
Mr.W.H.ユーカーズは「All about Tea」の中で、このブレックファーストの頭に「イングリッシュ」を付けたのはアメリカ人で、アメリカがイギリスの植民地であった頃に、イギリス人達が朝食に飲んでいた中国紅茶の事を。かってアメリカ人達が自分達の茶と区別するために呼んだのである、という。近年このブレンド内容は、かっての中国工夫紅茶からアッサム・セイロン・ジャバ主体のブレンド茶に変わり、更にケニア・インド・セイロン・さらにケニア主体で多様なブレンド茶が主流になってきている。
「ブレックファースト・ティー」の頭に冠する用語には「イングリッシュ、アイリッシュ、スコティッシュ、セイロンなどがある。今日のイギリス茶市場では、かっての「中国産紅茶に多くみられた煙を含んだような(スモーキーな)ニュアンス」の物は忘れられつつあり、水色が明るく濃く(ミルクにも馴染んで)新鮮で適度な刺激性とコク味がしっかりとあり、醗酵茶としての香味(フレーバー)がしっかりしている物が求められている。
4、 ゴールデン・ドロップ
オーソドックス製法による貴重なスペシャリティ・ティーを用意してのお茶会で、自慢のティーポット(または急須)を使って“気合を入れて客前でだした紅茶”(A nice pot of tea)が出来上がった時、誰しもが自然と笑みがそして誇らしげな気分が込み上げてくるものです。ヤッター!
そこでパースプーン(又はティースプーン)を使ってポットの底に仲良く重なり合った沈んだ格好の茶葉を起こすようにかるーく一かきして、抽出された茶液の香味や濃さを平均化します。
それから(a)湯通ししておいた複数のティーカップに茶漉し(ネット)を使って手早く注ぎ分け、主客から順にサービスをします。この際「最後の一滴まで注ぎきる事」が重視され、この最後の一滴こそ「ゴールデン・ドロップ」などと表現されて、その日の主客にサービスして敬意を表します。
(b)今一つは、湯通しした別のティーポットに茶漉し(ネット)を使って茶液をデキャント(移し替え)します。この際はゴールデン・ドロップ共々に注ぎ分けられて、客人たちに公平に配られるという結果になります。
本題は「ティーポットの底に残った少量の濃縮紅茶エキス」(カテキン類・カフェイン・テニアンなどの有効成分が多い物、専門家はクリームと表現)こそが貴重なものとされます。そこで“The last drop”(最後の一滴)、”The best drop”(最良の一滴)、ついには”The Golden drop”(とても素敵な一滴)などの表現が生まれました。
日本と異なり「紅茶は基本的に二煎茶は利用しない」ものですが、二煎茶を利用する局面も少なからず有り得ます。ただ湯漬け状態で茶葉が急須の中に残っている場合などは、二煎茶の湯を注ぐまでの間に茶液や茶葉が化学変化(酸化)して茶液の水色が劣悪になったり、渋味が特に増加したりして視覚的にも味覚的にもまずくなってしまいます。
イギリスでは17世紀後半に「中国茶と喫茶の文化」が紹介され、煮出し式とは別に淹茶(エンチャ、煎茶)式の「紅茶道」として普及していきました。その上に「紅茶とクリーム(ミルク)」をたっぷり加えて楽しむ事が主流となりました。そしてティーは「客人の目の前でいれてサービスすること」がエチケットとされ、形式や儀式的なニュアンスが追加されました。そして“To the last drop”という表現と共にティーカップに茶液を注ぎ分ける際の注意事項として世代を超えて伝承されてきました。
(つづく)
(続)紅茶の話あれこれ 「一杯の美味しい紅茶」その3
50年来の友人、紅茶人で業界第一人者である荒木安正氏の著作から興味あるエッセンスを抜粋しました。 紅茶への理解を深めていただければ幸甚です。
(記)日本紅茶協会 元専務理事 清水元(国分寺稲門会)
一杯の美味しい紅茶(その3)
1、 スコンの由来と食べ方
ティータイムには欠かせない「スコン」(Scones)の起源は不明であるが、スコットランドの田舎のハレの日のパン菓子の一種で、1870年頃には来客用に”手造りのお茶受けの焼き菓子“として、ショートブレッド・ビスケット・それにケーキなどと主に供されていたという。最も素朴なものは小麦粉・ミルク・バター・ベーキングパウダーを使ったもので、焼き上がりの周囲はカリッと、中はソフトでほろほろした食感があり甘さはひかえ目。手の込んだスコンは砂糖の他にレーズン・サルタナ・カランツ・チーズ・オレンジ/レモン・ハーブなどを好みで使用する。
サイズはまちまちで一般に田舎ほど大型。スコットランドでは丸いケーキ型に入れて焼いてから三角に切り分ける習慣もあるが、全国的に「貝柱型」の形状が主流。
「スコンの食べ方」については、
① 焼きたて、またはレンジで温めたスコンをケーキプレートの上で横半分に割り(冷めた場合はナイフ使用も可)、
② その上に凝固させたクリームが溶けないように(断熱の為に)イチゴジャムを塗り、
③ 最後に「クロッテド(凝固)クリーム」をたっぷり乗せて大胆にかじって食べる!
今日では有名なホテル等でも「クリーム・ティー」のメニューで(豪華なアフタヌーンティーの代わりとして)人気があり、内容は「スコン2個、クリーム、イチゴジャム、ポット・オブ・ティー・ウィズ・ミルク」。更に季節ともなればより高級感のある「ストローベリー・クリーム・ティー」を。内容は「スコン2個、クリーム、イチゴジャム、ポット・オブ・ティー・ウィズ・ミルク、そして1鉢の「新鮮なイチゴにダブル・クリームをかけたもの」が付く。
「クロッテド・クリーム」(Clotted Cream):イングランド西南部のデヴォン、ドーセット、コーンウォールの各州が主産地。紀元前500年頃に錫の交易の為に来航した地中海沿岸のセム系「フェニキア人」たちがこの地に伝えたものとされる。
最も有名なのがデヴォンシャーのクロッテド・クリーム。作り方は ①「ジャージー種」の牛の濃厚なミルクを加工所の室内にある遠心分離機にかけ、② クリームと水分に分ける、③ 乳脂肪55%のクリームを「二重鍋」(中間に水、湯煎効果)で煮詰める、④ アーガと呼ばれる水平の密閉コンロにかけて摂氏85度で90分間殺菌する、クリームが凝固すれば出来上がり、⑤ 浅めのトレイにクリームを移して一晩冷ます、(保存期間は約10日間、歩留まりは原乳11リットルから製品1リットル)。
スコン
2、 スコンはビスケット?
「スコン」と言えばスコットランド生まれの焼き菓子の元祖的な存在。日々の「お茶受け」の一部として今日でも依然人気が高い。紅茶大国のイギリスやアイルランドは別核としても、アングロサクソン系の諸国では「母が娘に最初に伝授する焼き菓子」といわれ、誰にでも手早く簡単に作ることが出来るのが不変の人気の元と言えよう。
但し多くのアメリカ人は「スコン」の事を通常「ビスケット」という。正確には「アメリカンビスケット」または「ホットビスケット」であるが、パサパサで甘みが少なく薄型で平たく焼いた堅いパンの事を指している。
ところで何百年もの歴史をもつ焼き菓子「スコン」であるが、我が国ではティーバックの出現のおかげでようやく紅茶が本格的に普及し始めた1970年頃より以前は、イギリス滞在経験者や菓子・料理研究家を除くと、この焼き菓子を「知る人」も「食べた事のある人」も極めてマレであった。しかしその後の海外旅行ブーム・グルメブーム・イギリスブームとかの影響で、近年ではすっかりお馴染みのものとなった。それでも「まだスコンを食べたことがない人達」も実に多く、その食べ方についても一般には全く無知そのもの。暖かい状態のスコンにジャムとかクリームとかをつけて食べる事を知らずに、冷めて堅くなったボソボソ状態のスコンをかじって「ナニこれ、けっこう堅いジャン。たいして美味しくもないわよね」とのたまうのである。
ところで「スコン」(Scone)の呼称はスコーンではなくスコン。簡単に言えば、小麦粉にグラニュー糖・塩・バター/マーガリン・卵・ミルク・ベーキングパウダーなどを混ぜ合わせて焼いた小型の菓子パンこと。各家庭や飲食施設・作る人・選ばれた材料/副・材料・作り方などによって、出来上がりの形状・大きさ・焼き加減・味や香り・食感/歯触りなどが全く異なってくる。ただしスコンは必ず焼き立ての温かい状態で提供するべきで、客人はこれを手指で横半分に割って(堅い時にはナイフを使って、好みでバターを塗ってから)イチゴジャムを塗り、デヴァンシャーまたはコーンウォール特産の濃厚な「クロテッド・クリーム」をたっぷり乗っけて、熱いティーを何杯もお替りしながら楽しむべきもの(好みでバター、サワークリーム、ホイップクリームで代用しても良い)。
この庶民的な楽しみ方は、どちらかと言えば「特別なクロテッド・クリーム」が主役であるために「クリーム・ティー」の呼称がある。もちろん好みで朝食をはじめ日常のティータイムにもスコンは登場するし、「ハイティー」と称される軽い夕食の一品としても利用されている。
3、 「クリーム・ティー」(Cream Tea)のこと
クリーム・ティーと聞けば、多くの人たちは「紅茶にクリームを浮かべたもの」を創造するであろう。しかしイギリス国内やかっての大英帝国の歴史と伝統の息吹が残る国々においては「たっぷりのお茶とスコンのセット」を意味する。ロンドン市内でも有名ホテルを中心として、その他の地方ではティーショップやホテル、レストランなどで試食する機会はある。特にイギリス西南部(デヴォンシャーやコーンウォール)のカントリーサイドを旅すれば、いわゆる「本場のクリーム・ティー」が体験できる。この際にスコンと共に提供されるクリームは、いうまでもなくデヴォンシャー特産の濃厚なジャージー種の牛乳で作った「クロッテッド・クリーム」(Clotted cream凝固クリーム)である。それゆえにクリーム・ティーのことを「デヴォンシャー・ティー」などと表現することさえある。
通常の「クリーム・ティー」(スタンダード)は菓子風にスコンが一人前2ケとジャム(これはイチゴに限る)とクロッテド・クリームがセットになっている。中でも信じがたいほどの豪華さで満足感が得られるのはその「コンプリート・セット」や「ストローベリー・クリーム・ティー」であろう。これは好みの種類の茶葉をメニューから選んで液量たっぷりのポット・オブ・ティー・ウィズ・ミルク。ティー・フーズはフィンガー・サンドウィッチ、三種類のスコン(プレーン・フルーツ入り・ナッツ入りまたはチーズ入りなど)そしてたっぷりのクロッテッド・クリームと自家製ジャムが提供されるもの。さらに新鮮なイチゴとフル・クリームがたっぷりサーブされるストローベリー・クリーム・ティーはイギリスの夏の風物詩である。
クロッテッド・クリームは我が国の場合は一般的に非常に入手し難いが、直輸入品も販売されるようになり、国産(中沢乳業製品)の品質も相当ハイレベルな物になって来た。好みで濃い目のホイップクリームで代用するのも良い。
焼き立てのスコンは温かいうちに手指で横二つ割りにするか、熱ければナイフを使って横二つ切りにして、英国風にはイチゴ・ジャムをつけ、その上にクロッテッド・クリームをタップリ乗っけて豪快に食べる。「太るのでは?」などと野暮なことを考えてはいけない。濃い目に入れた熱いミルクティーを啜る度ごとに、口の中に脂肪分をすっきりと切り、ボソボソした感じの素朴なスコンの味・香りと実に良くマッチする。それこそ限りなく「ブリティッシュ」なティータイムというべきであろう。
(つづく)
一杯の美味しい紅茶(その4)
1、中国原産「花香茶」の歴史
中国では古くから「植物のある部分」を乾燥させて湯のなかでそれらのもつエキス分を抽出させたものすべてを“茶“としてきた。つまり“茶”と呼ぶ物の中に“茶葉’が存在するかどうかは問題にしていない。ヨーロッパでの“薬草類’(ハープ)も茶葉と同じ“テイ”とがテー”の仲間としているのに似ている。
さて、中国唐代の貴人たちの喫茶法は固形茶を砕いて粉末にして湯の中にいれ、ネギ、ショウガ、ナッメ、ハッカ、ミカンの皮、ダイダイの皮、サンショウの皮などを一緒に煮て抹茶と混ぜて飲んでいた。この習慣が仏教と共に我が国にも紹介された。しかし陸羽が茶経の中で[茶に他の香味を混ぜる飲み方はよろしくない]としたために、中国宋代にはピュアな茶(抹茶)が流行した。
一方、茶葉に花などの香りをつけたものを「花香茶」といい、他に「花薫製茶」がある。
中国最初の花香茶は「菊花茶」であった(陳舜臣『茶事遍路』)。中国明代には花香茶の品種が増えて「蓮花」(ハス)を中心に「桂花」(キンモクセイ)、「パラ」「ハマナス」「クチナシ」「梅」などの花の香りがよろこぱれた。そしてついに「茉莉花」(マツリカ。アラビア原産の植物。モクセイ科ソケイ属200種類の総称名で、ペルシャ語の「ジャスミン」)が登場した。時代は「アヘン戦争」の後(1851~61)というからさほどに古い話ではない。元・北京大学教授で料理研究家であった陳東達「茶の口福」には「中国人の中でも北京市民が他と比べようもない程にこの茶を「香片児」(シャンペニアル)と呼んで年中愛飲する。脂っこい上にニラ臭のある中国料理の後の茉莉花茶は「口臭を消し、口臭をつける」から重要。また神経を刺激し胃腸機能に活を入れるから消化を促進する。「ワキガの強い欧米人」は香水の他にもこの茶をけっこう好む」と。
「茉莉花茶」(ジャスミンティー)の始まりは「福州の海岸通りにある長楽県で北京から来た正大商行が「カギ煙草」に茉莉花の香りを移して以来、大評判になった」事にヒントを得て、緑茶に茉莉花(ジャスミン)の香りを着香させた商品が生まれたと伝えられている。当初は福州近辺に茉莉花が無かったために、人々は広東に工場を造り、松羅山(ショウラサン)周辺の、いわゆる安微省産の茶を運んで薫製(クンセイ=着香)した。やがて福州にも茉莉花が栽培されるようになって、1890年前後には彼等も福州近辺に戻って来た為に、福州は「花茶の中心」となった。茶はこれ以外に香りの高い「玉欄花」「ダイダイ花」「ユズ花」「桂花」等を用いる。
2、茶碗と受け皿の喫茶の作法について
東洋のチャと喫茶の文化はポルトガル人を別として、17世紀以降オランダ商人によってフランス・ドイツ・イギリスなどの王侯貴族・富裕階級に伝えられた。しかし、ヨーロッパ諸国では歴史・伝統を誇る中国や日本と異なり、当初から「茶を飲む」等とは全く啓蒙・指導されておらず、先導役のオランダの場合でも、たぶんアラブのコーヒー文化の影響を受けて、金属製のヤカン(湯沸かし)などの中に茶葉を投入して煮出してから茶液を自前の茶碗に注いで供した。客人は「茶碗の中の茶液を受け皿に注ぎながら。幾度か繰り返して飲む」というのが基本的な作法として普及していった。
言い換えれば「まずは受け皿にいったん注がれた茶液の匂い(香り)を鼻で嗅いでからズズーッと騒々しい音を立てて茶を啜る事。それから(女)主人に謝礼する事」であったという。
この際の「受け皿」は今日の皿のように薄く平らなものではなく、当時は日曜雑器の中から選ばれた「ディッシュ」と呼ばれた「茶器の一種・深皿」であった。この移し換えの理由としては
① 「ヨーロッパの言い伝えでは、熱すぎるものは体に良くない」とか、
② 「貴重で薄手の茶碗が熱くなりすぎて安心して持てないから」とか、
③ 「ネコ舌の人達が多いために冷ましてから飲む生活の知恵から」とか
④ 「わざと勿体ぶって複雑な日本の茶の湯の作法をまねたのではないか」との説もある。更に
⑤ コーヒー豆や茶葉を煮だした後に、コーヒー豆の小片(カス)や茶殻などを流すための「茶漉し」(ストレーナー)が未だ無かった為に、それらの異物が直接口に入らないように、いったん受け皿に空けて「上澄みだけを喫した」とも考えられよう。
18世紀のヨーロッパで、アラブ文化の「コーヒーカップ」にはハンドル(取っ手)が付けられていた。しかし中国・日本文化を導入した喫茶の為の「小茶碗」にはハンドル(取っ手)が無く、英語では「ティーボウル」と呼ばれた。しかし「茶葉」の価格も次第に安くなり、喫茶の回数や飲用量が増えるに従って、茶碗のサイズも大型化し、その中でスプーンを使って砂糖の破片を溶かす必要性も高まり、茶碗を受け皿の上で安定させるためにも片手の指でつかめるハンドルが付けられるようになった。それでもイギリスでは「東洋趣味」重視の伝統から19世紀初めまでは「ハンドル無しの茶碗」が主流であった。
かくて「茶液の受け皿にあけて音を立てて飲む」という習慣は次第に消えて行った。とりわけ19世紀後半のイギリスでは「喫茶の際に音を立てて茶液を啜る(飲む)などは全く下品なマナーである」として、上流階級はもとよりジェントルマン階級の間ではタブー視された。
3、テレビドラマ「相棒」と「殺しのカクテル」
インテリで大の紅茶好きの“警視庁特命係・杉下右京警部”(水谷豊)と、彼の相棒の“亀山薫警部補’(寺脇康文)、それに亀山の妻、一年振りにロンドンから一時帰国した彼女の母(姑)の合計4人が、TV映画の最終章で探し当てた銀座のカクテルバー「リメンバランス」(追憶)を訪ね、蟹江敬三扮するマスター(バーテンダー)と再会した。そして、今回の殺人事件に悪用されたものとは知らず、姑が「逝去した主人との追憶に是非もう一度飲みたい」と熱望していた特殊なカクテルを注文した。マスター(犯人)が特にこだわったそのカクテルとは[アイラのスコッチ・シングルモルト、イングリッシュ・ジン、スペアミント、手指で砕いた梅干し]という「相性抜群のベスト・パートナー」(杉下と亀山の名コンビにもかけた)で創作されたものであった。
さて翌朝、お別れの挨拶に杉下を警視庁に訪ねてきた姑は杉下自慢の“ティー”を味わうこととなった。姑「このお紅茶は何と言う銘柄ですか?」。杉下「セイロン・ウバといいます。お母様はロンドンでどのようなお茶をお飲みですか?」。姑「我が家ではダージリンのオータムナルをミルクティーでいただいておりますの」。杉下「ミルクはカップの中に先に入れていらっしゃいますか?その上から紅茶を注ぐといいですネ。よく混ざりますから。そして特に低温殺菌したものを使って。それからティーカップはあらかじめ暖めておくのがよろしいようで」。姑「私はミルクを後から入れますの」。杉下は談話をしながら種々様々な形やデザインのティーカップ群の中からいつものように選びだすと、ティーポットのハンドルを右手でつかみ、約20~30cmの高さからカップの中へ茶液を注ぎ落とすのであった。姑「なかなかお上手なのね」。
時折、心配性な紅茶ファンの方から[あのような高い位置から、茶液を注ぐことについての是非は]と問われるが『お好みでどうぞ』と答えることにしている。決して上品な注ぎ方とはいえないが、[熱い茶液の温度が幾分下がり、飲みごろの温度に近づくし、先に入れた砂糖とミルクと茶液が確かによくまざる]。なにより視聴者からみて[チョットした視覚的な驚きと、チョットした紅茶に関する疑問]が生まれてきて、何か「新鮮な楽しみを得たような」心理状態になることもある。それこそ「炭火焙煎珈琲豆使用中のコーヒーショップ」などで、マスターやバーテンダーが“遊び”で楽しい演出をすることが昔からあったものである。
(つづく)
一杯の美味しい紅茶(その5)
1, シノワーズリ
17世紀の後半から18世紀にかけて、ヨーロッパ貴族・上流社会で「シノワーズリ」(シナ趣味)が流行した。とりわけ、ルイ13世からルイ14世のブルボン王朝最盛期のフランスは、ヨーロッパの覇者としてアジア・アフリカに植民地を開発し、高度の文化を享受していた。当時、王侯の居城や邸宅には後期バロックやロココ様式の壮麗な室内装飾品に加えて、はるばる東洋から危険を冒して運ばれてきた多数の陶磁器(大壷や大皿)や漆器の調度品は、決して欠かすことのできない重要な構成要素として加えられた。
こうした「シノワーズリ」はヨーロッパの人々の“東洋への憧憬”(あこがれ)であったが、同時に“東洋の先進文化に対するコンプレックス(劣等感)でもあったと解されている。また、オランダ商人の豪邸では飾り棚の中や、暖炉と煙出し部分の飾りとしても東洋の陶磁器がびっしりとはめ込まれていた。
そして、ヨーロッパ独自のエキゾチックな調度品、絵画などが東洋の工芸品をマネて次々と創作されていった。モチーフ(表現の主体的な動機となるもの)は、当然「シナ」の人物・花かご・菊花などが多く、東洋的な雰囲気を強調したものぱ欠くべからざるもの”(必須条件)とされた。「シノワーズリ」は更にドイツやイギリスにも流行し、その刺激のおかげで各国製の陶器や磁器装飾品が創作され地道に流行し、各国の人々のライフスタイルにまでも影響が及んだ。東洋から西欧へと伝わった「シノワーズリ」の典型的なものは[喫茶の習慣]で、これに必要な東洋の文物を獲得するための“見栄の張り合い”や“マネのし合い”が富裕階層の間で流行現象となった。
17世紀の中頃、東洋貿易のリーダーであるオランダ人により発注された[シナのコーヒーカップと、同じ絵柄の受け皿セット]が大量に輸出されていた。中国・江西省景徳鎮窯が主体であった。
景徳鎮古窯
明末清初の中国国内の混乱で陶磁器輸出が停止したため、日本の佐賀県有田窯の磁器が代わって輸出された。しかも“伊万里港”からの輸出であったため、その名にちなんで“古伊万里”と称された。初期のカップには「ハンドル」がなく、コーヒーにもティーにも共用されたと想像される。大きさは酒杯・猪口程度で、カップの縁の差し渡しは4センチ前後。因みに「コーヒー/ティーポット」などは、絢爛豪華なサロン(客間)などでくつろいだ楽しい社交の場面にピッタリであった。また、チョコレート(ココア)用は全く別仕様で、今日の蓋椀か茶碗蒸し用の茶碗に似たフタつきの縦長カップであった。
2, ティーカップのつぶやき
一般に「飾り壹/花瓶」、「大剛、「ティーアーン/サモワール」(湯沸かし)、「ティーポット」(急須)などはサイズも大きく存在感あり、装飾価値も高いために古くから詩歌・小説・絵画・音楽などの対象物とされてきた。しかし「ティーカップ」は小物であり、“単なる酒杯か小茶碗(ティーボウル)にハンドル部分がついただけのもの”で、陶磁器や食器研究家や骨董収集家などによる研究も限られたものであった。
つまり、液体の水を飲む時、(1)水面に直接顔をつけて飲む、(2)両手を使って水をすくって飲む、(3)陶土や磁土が火力によって堅く焼き上がることを発見して、陶磁器のカップを発明する、(4)そのうち(ミルク酒などは例外)水・ワイン・エール/ビール等々の[生温かいか、冷たいかの飲料を飲むためのカップ]というよりタンカード・ジャック・マッダなどという容器が生まれ、ガラス・木・玉・金属・獣角などなどを材質としたカップ類が出現した。(5)これらを原型として、コーヒーが[より男性向きの街角の飲料]としての地位を確保するにつれて、各地各様の飲み方や材質の違いによる、容量の一定しない(100~220ml)多様なコーヒーカッブが出現した。
特に、大型で深型(200~220mlサイズ)のコーヒー専用カップがあり、他方、満中容量で60~100m1中心の小型デミタス・コーヒーカップも多様なものがあり、一般的にはティーカップに比べて全体が縦長型が多く、実用的だが優雅さに欠けるものも多い。
他方、中国・景徳鎮や有田(伊万里)磁器の小型の酒杯から進化した「ティーボウル」は、希少で高価な緑茶をチピチビ飲むために輸入され、「マイセン」などの欧州大陸の磁器メーカーや英国内でも模造された。茶の供給が安定し、茶価も下がり、茶の消費量が増えると共に、陶磁器への需要も増えた。茶碗の形状も洗練され多様化され、サイズも大型化していった。茶液容量が増え熱く重くなる為、砂糖をカップの中で充分溶かす為にも合理的にハンドルがつけられた。これとは別に、徳川時代には決められていたという日本古来の木製の“飯椀”=“茶碗”の満中容量の基準は200mlで、若干の余裕を見たもので230mlであったらしい。形状は総じて広口で浅め、口径は114~122mm(標準は120mm)、高さは口径の約半分というのが基準であったという。
いずれにせよ、東洋の磁器生産の先進技術やソフトを欧州大陸で“マネ”し、それぞれの“特徴“を加えて多種多様に進化させていった。
ティーボール(マイセン)
3, お茶会にはぜひモーツアルトさんを!
1742年4月5日、ロンドン南西部チェルシーの高級住宅地に『ラネラー喫茶園』(1742~1803)が新らしく誕生した。
ラネラー喫茶園
事前の広報がゆきとどいた結果、開園式の当日、ロンドン中が大騒ぎとなった。まず広大な緑地公園(15,000平米)の中に、この喫茶園の呼び物の一つとしてローマのパンテオンを模して建造された直径46m二階建ての「円形大会場」(ロタンダ)があった。雨天などの悪天候であっても、そして夜でも利用することができるように天井が特設され、中央には巨大な暖炉が設けられた。
ラネラー喫茶園は貴族・上流階級を中心に高級な顧客が集まり、先発の名園たち「ヴォクスオール喫茶園」(1732~1859)、「キューパース」(1730~1759)、「メアリルポーン」(1738~1776)などよりも高い評価を得ていた。これらの喫茶園では老若男女の誰であろうとも料金(2シリング6ペンス)を支払うことによって入場ができ、当時の一般庶民にとっては[戸外のティー、またはコーヒーとバター付のパンやケーキ]を楽しむことができたため、以後50年間も好評を博していたという。
同園を訪れた数多くの知名人の中にはW・A・モーツァルト(1756~1791)がいた。彼はカンバーランド公爵(ヘンリー・フレデリック王子)のためにオーケストラと一緒になってピアノを演奏したことがあった。この公爵は音楽と家具と庭園を愛したジョージⅢ世の弟にあたるが、モーツァルトに対する敬愛の心は誰よりも強かったという。
18世紀の人間にとってはビックリするくらい刺激的で革新的であったと評されるモーツァルト白身によるピアノの生演奏を聞きながらの“ティー’を楽しめた人達の幸せそうな表情が推察できよう。一説では、モーツァルト自身による一公演の収入は、現在の価値に換算して1,000~1,500万円に上るほどであったという。
さてその後、19世紀の初め頃までの間にロンドンは世界貿易の中心地として更に拡大・開発が進み、これらの結果、ロンドン市街地には住宅が立ち並び、世界都市に必要なホテル、会議場、劇場など娯楽設備が急速に増えた。
その結果、新しい時代の新しい社交・団槃が花開き、広大な敷地と季節的な遊覧・食事サービスのための喫茶園の経営は成り立たず、順次に閉園していった。
(つづく)
(続)紅茶の話あれこれ 「一杯の美味しい紅茶」その6
50年来の友人、紅茶人で業界第一人者である荒木安正氏の著作から興味あるエッセンスを抜粋しました。 紅茶への理解を深めていただければ幸甚です。
(記)日本紅茶協会 元専務理事 清水元(国分寺稲門会)
一杯の美味しい紅茶(その6)
「ベッド・ティー」のお勧め
「ベッド・ティー」(Bed tea)とは[朝、起き抜けに飲む目覚めのティー]のこと。別名「アーリーモーニングティー」(Early morning tea)とも呼ぱれ、当日に必要とされる「エネルギー」(気力、精力)に点火してくれる。つまり、ベッド・ティーを飲むことにより、
(1)睡眠中に失われた水分の補給をし、
(2)香気成分に刺激されて覚醒作用を促進させ、
(3)暖かい茶液の熱とカフェインの効果でからだを暖めてくれ、
(4)新陳代謝を促進させて全身への血行やお通じも良くなり、
(5)個々人の好みで加える甘味料に含まれる糖分は脳内の中枢神経に栄養分を補給し、頭脳の働きを良くする
といったメリットは実に大きい。
我が国の場合、高級「和式旅館」などで指定した起床時間になると、女中さんが控えの間の襖越しに“お早うございます。お目覚めでしょうか? お茶(緑茶)をお持ち致しましたので‥。”と挨拶をしながら、煎茶などに湯を注いだばかりの急須・茶椀・梅干し・黒文字などをお盆に載せて寝所に差し入れてくれるものだ。
「おもてなし」といえば、「午後の茶会」「夕食後の団梁のティー」「クリスマスのティー」などなど最適の素敵なシーンが思いつくが、イギリス本国はじめ旧英国植民地などの有力ホテルや、海外での知人宅でいただく「ベッド・ティー」ほど“おもてなしの意義”を深く感じさせてくれるものはなかろう。あなたが外国でのベッド・ティーを未経験ならば、まずは日曜日など休暇の日の朝などに“日覚めのティー”を、ついでに朝食を用意してあなたのベッドサイドに運んでもらうか、自宅で「こだわりのティー」をセルフサービスでいれたりして、ゆるゆるとベッドで飲食することも“口福の一時”と言えよう。
「ワカルワー、そのお薦めのティーの感激! だけど、一体だれがいれるのヨ~」などと夫婦喧嘩にならないように。
連日お勤めご苦労様のご主人方よ。毎朝、否、せめて休日の朝だけとか、奥方の誕生日の朝だけでも、せいぜい10分間、早めに起きて自分好みの方法で熱々のティーをタップリいれて、愛情たっぷりのティーを夫婦揃って試みて下さい!
ベッド・ティー
終章 結局「ノミュニケーションが大切!」
人類誕生の歴史を500万年前とすれぱ、昔の「人生わずか50年」から今日は「80年」に訂正してもまさに“一瞬の時”。[アイフォーンやスマホ]などなどペーパーレス時代が進行すればするほど、血の通った“人と人との絆の大切さ”に気づかねばならないでしょう。
そして、私達がこの世に存命中に忘れてはならない事がある。それは、市中に各種の飲料が満ち溢れている中で「一生涯を通じて飲み続けたとしても、決して他人に迷惑をかけるとことなく、決して飽きることのない最良の飲み物」があるということ。それこそは[Cha / Tea 以外に考えられない]という事実でしょう。そして、その美徳を認識して、広く世間に広報・教宣することこそが、紅茶葉界に関わりをもったわれわれ全員に課せられた大義であり、一人一人がその使命と期待を担っていつとはいえまいか。
いま、優雅で健康的なイメージをもったヘルシー飲料=紅茶が世界的に人気です。紅茶はポリフェノール(カテキン)、カフェイン、テアニンなどを含み[アンティ・エイジング](抗加齢)にも有効な飲料として注目されている。
また、カップ1杯当りの値段もリーズナプルで、熱湯さえあれぱ誰にでも簡単に飲用ができ、特有の香味は心身をストレスから解放し、リラックスさせリフレッシュさせてくれる。加えて、モノとしての性格が淡泊な故にお茶うけや料理の様々なメニューにも適合し、様々なら楽しみ方が可能である。
結局は「モノとしての紅茶とその文化の本質」を見極めたうえで、個々人が満足を得てくれるよう「紅茶まわりの文物や情報」(複合的な文化要素)を一つずつ加えながら、まず第二段階は「脳細胞が活性中の80歳までの余生」を大いに楽しんでいただきたい。
生活者の趣味や嗜好も時流と共に変貌し続けている。発足後、70年以上のJTAと、20年以上の日本TI会は、ハイレベルな感性と才覚・多種多様な特技や専門領域をもつブロだけの特殊な会組織であり、世界の茶業界広しといえども特異な存在である。筆者はCHA(チヤ)の本旨は「一期―会」。その意義を[ふれあいCommunication]、[おもてなしHospitality]、[たしなみAccomplishment]と考える。そこで、
(1)常にヒトと一緒の時間を本気で大切にする、
(2)先輩・後輩、友人・知人といったタテとヨコのきずなを強くすること、
(3)「おいしい紅茶」と共に楽しい会話を試みること、
がポイント。こうして「ノミュニケーション」を大いに促進しようではありませんか!
(完)