「お茶・紅茶」その起源

お茶・紅茶の始まり(概観)
                 清水元(記)

 1.お茶の始まり

 茶樹は永年性常緑樹で椿の仲間(学名カメリア・シネンシス)です。原産地は中国雲南省西南部の山間地域と言われています。後に18世紀にこの中国種とは異なる茶樹・アッサム種が北東インド・アッサムで自生しているのが発見されました。
 お茶と人の関わりについては諸説ありますが、人類の喫茶の歴史は大変古く、伝説によれば紀元前2734年頃の中国の農業の神、薬草の神(解毒と飲み水の浄化)、火の神となった創造上の神「神農」に遡り、およそ4800年前になります。
 伝説はさておいて、茶に関する記録としては周代・紀元前160年頃に発掘された木簡の埋蔵品リストに「茶」を意味する「價」の文字が記載されています。このことから前漢の頃には既に茶が利用されていたと思われます。製品としての茶、即ち茶の葉を鍋や釜の湯で煮てその抽出液(浸透液)を飲用するBoiling法と容器の上から湯を注ぐ・Brewing法で茶液を飲むようになるのは比較的新しく4世紀以降と思われています。
 唐の時代には茶は塩と共に交換経済社会の最古・最大の担い手になり、茶の「貯蔵、保管、流通」は様々工夫され、形状は「団子や餅茶」に、蒸してから乾燥した「散茶」にと変化してゆきました。唐の中期になると茶は中国国内各地に拡大し、いわゆる「煮茶(釜の中で箸を使って点てる)」で飲む風習が広まり、次第に漢族により東へ、南へと広がり、チベット、モンゴル、シベリア、中央アジア、アラブ、北アフリカ、ヨーロッパへと拡大してゆきます。16世紀以降には「ウーロン茶の原型」、18世紀頃からは酸化発酵度のより強い「紅茶の原型」へと発展してゆきます。19世紀になりインド、スリランカで本格的な「英帝国紅茶」が誕生し、中国からの茶に代わり「紅茶」が伝播され、現在では茶の総生産量の70%を占めるようになり、アルコールを除く嗜好飲料の中で世界で一番多く飲まれている飲料となりました。概算ではティーバッグ換算で一人毎日1杯以上です。

 日本に関しては、自生のヤマ茶が存在したと言う説もありますが、茶が最初に伝えられたのは聖徳太子が摂政となった593年頃で、仏教文化の伝来と一緒です。次いで729年に聖武天皇が皇居の庭に多数の僧侶を集めて「般若経」を講じさせ、翌日中国伝来のお茶を彼らに与えたと記録されています。平安時代の800年代には最澄や空海が中国から茶の種子を持ち帰ったと伝えられています。また鎌倉時代の禅僧栄西が中国より茶の種子を持ち帰り本格的な茶の製造法なども伝えたと言われております。これらお茶の歴史は緑茶の歴史であり、紅茶については主に明治以降になります。

2.紅茶の始まり

 同じ茶の樹の生葉を使って緑茶、紅茶、ウーロン茶を自由に作ることが出来ます。製茶方法の違いから、紅茶(発酵茶)、緑茶(不発酵茶)、ウーロン茶(半発酵茶)になります。
紅茶は緑茶から発展・変化してゆく中で、18世紀後半中国福建省でウーロン茶(武夷茶)の製法をさらに進化(強く発酵)させた工夫(コングー)茶が登場します、これが紅茶の源泉になります。
 16世紀の大航海時代、主役がポルトガルからオランダ、イギリスへと交替する中で、400年前に東洋の茶と喫茶の文化がポルトガルによってヨーロッパに伝えられたが、商業的な関心度は低かったようです。1600年初めにイギリス東インド会社とオランダ東インド会社が相次いで設立され、中国のお茶はまずオランダ東インド会社が自国に持ち帰り、上流社会で愛好され流行しました。イギリスはオランダ、フランスとのコーヒー貿易や生産(オランダはインドネシア、セイロンでコーヒーのプランテーション、フランスは同西インド諸島で)の主導権争に敗れたため、中国茶貿易を主体に国内での喫茶の普及に格別の配慮を試みました。紅茶普及策の優位点として、コーヒーは豆の選別、焙煎、淹れ方など一般家庭では扱い難いが「茶」は比較的簡単に淹れられることに加え普及を推進したものに「ティーガーデンズ(喫茶園」」と「コーヒーハウス」の展開があります。「コーヒーハウス」は1650年代にオックスフォードと次いでロンドンに開店、茶の流行の拠点として繁栄し、国内の出店が加速され、拡大しました。その後イギリスは西インド諸島での砂糖のプランテーションに成功、続いてインド、セイロン、ケニアなど茶の生産地を開拓し、プランテーションを展開し、併せて栽培方法や製法などを進化させ、中国茶一辺倒の供給から脱皮しました。徐々に今日の紅茶が誕生し、そして全世界に普及拡大してゆき

ました。蛇足ながら中国からの茶の運搬にはティークリッパー(快速茶運搬船、有名なカティサーク等)の時代を経て海運大国にもなりました。

 

3.日本での紅茶

 日本人として初めて紅茶を飲んだのは大黒屋光太夫で1791年10月、ロシア・サンクト・ペテルブルクで女帝エカテリーナⅡに謁見、お茶会に招かれ、西欧風の本格的なミルクティーを飲んだのとのことです。帰国の際には紅茶を手土産に持参したとの記録もあります。日本紅茶協会はこの史実に基づき、1983年に11月1日を「紅茶の日」に定めています。

 さて、日本への紅茶の登場は1856年ハリスが下田来航時に献上品として30kgを持参したことに始まります。1887年にはバラ茶80kgが輸入され、「鹿鳴館」などで使用されました。製品としては初めて明治屋によって1907年にリプトンの黄缶、青缶が輸入され発売されました。

 他方、明治政府は勧業政策として・即ち絹と紅茶の輸出を推進することで、外貨獲得を目指して大変活発な事業展開をしました。特に紅茶は1874年に「紅茶製法書」を作成して府県に布達、中国から2名の紅茶製造技術者を招いて「紅茶伝習所」を設けて中国式紅茶製法を試製しました。また1877年にはインド式紅茶製法を伝習させました。

 国産紅茶の生産量は農商務省によれば1880年~1895年までに計1,259tトンが記録されています。その後1937年には4655t、1955年には8,625tを生産しましたが、国産紅茶産業は、品質問題、コスト上昇、相対的な価格、為替問題などで徐々に衰退し、緑茶生産の方が有利となり、1971年外国産紅茶輸入自由化になりました。

    (以上)

 

「紅茶の日、11月1日」に関わる物語

 1年365日には○○の日と言うのがたくさんあります。皆さんが良く知っている語呂合わせでは、砂糖の日(3/10)、救急の日(9/9)、豆腐の日(10/2)、虫歯予防デイ(6/4)、などがあります。一方その謂れからは、時の記念日(6/10)、防災の日(9/1)などがあります。最近では11月12日は「いい皮膚の日」、11月26日は「いい風呂の日」、11月22日は「いい夫婦の日」等とアイデァ豊富です。

 さて、「紅茶の日」ですが、11月1日になります。これは1983年に日本紅茶協会が定めた記念日で、謂れにはストリーが有ります。
1782年(天明2年)12月、大黒屋 光太夫・伊勢国白子(鈴鹿市)の船頭一行12名は、紀州藩のお米などを積み江戸へ向かう途中で嵐のため回船が漂流。アリューシャン列島(ロシア領アラスカの一部)のアムチトカ島に漂着。そこで暮らす中で光太夫らはロシア語を習得し、4年後(1787年)に女帝エカテリーナⅡ世に帰国の許可を得るためにシベリアを横断。当時のロシアの首都サンクト・ペテルブルクまで過酷な生活・冒険をしました。ありあわせの材料で造った船でカムチャツカ、オホーツク、ヤクーツクを経由して1789年(寛政元年)イルクーツクに到着。道中、カムチャツカでジャン・レセップス(フランス人探検家・スエズ運河を開削したフェルディナン・ド・レセップスの叔父)に会い、後にレセップスが著した旅行記には光太夫についての記述があります。イルクーツクでは日本に興味を抱いていた博物学者キリル・ラクスマンと出会い、キリルを始めとする協力者に恵まれ、1791年(寛政3年)キリルに随行して彼等の尽力によりサンクト・ペテルブルクに到着しました。

 そして当時ロシアの上流社会に普及しつつあったお茶会に招かれる幸運にも恵まれました。とりわけ1791年11月には女帝エカテリーナⅡ世に接見の栄に浴し、茶会にも招かれ初めて外国での正式の茶会で紅茶を飲んだ最初の日本人して、この日が定められました。
 光太夫一行は漂流から約9年半後の1792年(寛政4年)根室へ上陸、紅茶など貴重品を持参し帰国を果たしました。白子出港時は15人でしたが、磯吉、小市と3人の帰国でした。なお小市はこの地で死亡したために、残る2人が江戸へ送られました。

 他に有名な漂流・冒険物語はジョン万次郎がいます。彼は高知県土佐清水市中浜の出身で、1841年に嵐で漂流。伊豆諸島の鳥島で米国捕鯨船に救助されて米国本土に渡り、成長して1852年に故郷に帰国しました。その後幕府に招聘されての大活躍は良く知られている通りです。

 なお大黒屋 光太夫の漂流記・冒険記は桂川甫周の『北槎聞略に資料として残されており、また井上靖は「おろしや国粋夢譚」を著し、緒方拳の主役で映画化されています。

(記)清水 元