第7回 「セイロン紅茶と日本の紅茶産業小史」

1.「セイロン紅茶の誕生・コーヒーから紅茶へ」

ご承知の通り「セイロン紅茶」は日本の紅茶輸入の50%~67%(最大時)と、永く良質紅茶のスタンダードとして日本人に愛飲されている紅茶です。スリランカは15世紀以降ポルトガル・オランダ・イギリスの植民地支配を受け1948年に独立しました。経済的には永年、ココナッツ・天然ゴムなどの一次産品の生産・輸出に依存してきました。1978年国名は「スリランカ共和国」になりましが、紅茶は国際的にも「セイロン紅茶」と呼称して世界の紅茶産業をリードしています。
「コーヒーと紅茶」は共に薬用から始まり、ヨーロッパへは1650年オックスフォード、翌年ロンドンに開店したコーヒーハウスを通じて広まりました。その後、砂糖やミルクを入れることで世界的な飲料として普及した点が共通しています。
17世紀からのオランダ・イギリスの両東インド会社の競合関係の中で、お茶は「イギリス東インド会社」がオランダを抑え優位に展開しており、一方コーヒーに関してはオランダがインドネシアのジャワ島でのプランテーションの成功で優位でした。オランダは当時の植民地セイロンへもコーヒー栽培を紹介(既にポルトガル人が16世紀初めにコーヒー持ち込んでいた経緯があります)しましたが着手しませんでした。
19世紀セイロンでは、コーヒーはシナモンなどの香辛料と並び海外の投資品目として注目されており、1820年代にジャフナでの綿花やココナツ・ネゴンボ・ゴールなどでのシナモンのプランテーションが既に始まっていました。これら生産物はコーヒーに比較して栽培規模や効率などで見劣りすることから陰りを見せていました。「コーヒー」は初めて1690年オランダ人により紹介されました。1796年にはイギリスの植民地になりましたが1825年までは着手しなかったようです。20年後の1845年に本格的に栽培が始まり、1857年には80,950エーカーに達し、その後急速に発展して行き世界最大のコーヒー産地となり経済を潤して行きました。しかし乍ら繁栄を極めたコーヒー産業も世界のコーヒー史上最大の事件である「サビ病(枯凋病・コーヒーの樹の葉が枯れ落ちる)」が1869年にバドゥラのコーヒー農園で発見され、翌年全島に拡がって187セイロン:ウバ、ハイランズ.jpg9年に最悪の状態となり、そのうちにコーヒー産業は滅びました(現在では銅の殺虫剤が有効であることが判っている)。この事件が起こり、コーヒープランター達はコーヒーに代わる栽培植物を探し、カカオ樹やシンコナなどの栽培・試作をしながら、やがて1867年より紅茶栽培が始まり、本格的な転換をして行くことになります。

 2.「ジェームス・テーラー」 「トーマス・J・リプトン」 について

当時スコットランド人のジェームス・テーラーはコーヒー農園で働く傍ら、茶の栽培と製茶に格別の関心を持ち、研究していました。彼は1867年に初めてテスト茶園をプッセラワの東ヘワヘタのルーラコンデラ(Loolcondeella)に開設して紅茶の栽培に関し試行錯誤を続けながら、試作に努めていました。漸く1872年にはルーラコンデラ茶のセイロン紅茶が初めて取引されました。1887年には、彼によりセイロンで初めて採算の取れる商業的規模の茶園がデルト―タ(Deltota)地区に拡張されました。
1880年代は茶の栽培が国の最優先経済課題であったことから、インドアッサムの成功者達からの協力なども得て徐々に成果を上げて行きました。一方ロンドンの茶商達からはアッサムや中国紅茶とは異なる固有のフレーバーが評価されて、プランター達は栽培面積を増やし紅茶事業は更に前進し、産業として大発展して行くことに成ります。
この成功要因としてセイロン特有の天候である南西・北東モンスーンや、東部・中部の地形と特徴ある土壌などが良品質の紅茶栽培に大きな貢献したことも見逃せません。
加えて道路や鉄道・港湾設備の改善もあり、かつてのコーヒー農園が茶園に生まれ変って発展し、今日では世界の紅茶産業をリードする存在になった訳です。
トーマス・J・リプトンはスコットランドの港町グラスゴーの食料品店の息子として生まれ、少年時代にアメリカに渡り広告・宣伝・販売技術を修得して帰国しました。丁度1890年代のイギリスでは急速に紅茶を飲む習慣が広まり、紅茶ブームに湧いていました。彼は茶商達が莫大な利益を享受しているのをみて、薄利多売の考え方で広告宣伝に注力し、良品質紅茶の供給など顧客満足度を更に高めました。また、正確な秤量と品質・鮮度保証を周知する為、それまでの量り売りから包装紅茶販売に変更しました。更に各都市の水質に合ったブレンド紅茶を考案するなどで、一躍進リプトン紅茶の人気は高まりました。やがて彼は自己の茶園での生産と良品質で安価なお茶を大量に供給することを目指して「茶園からティーポット」のスローガンを引っさげて1890年にセイロンに渡りました。
早速コロンボにオフィスを開設し、茶の樹の栽培に適した高地にある優良農地を買収し、広大な茶園を開拓して製茶工場の建設をすすめて17の紅茶のプランテーション経営に乗り出しました。そして、本格的にセイロン紅茶をイギリスはもとよりアメリカや他諸国に売り込み、広く一般大衆の日常飲料に定着させて「世界の紅茶王」と称せられるようになりました。
ジェームス・テラーとトーマス・J・リプトンの両名はともにスコットランド出身であり、夫々「セイロン紅茶の生みの親」「セイロン紅茶の育ての親」 と称されています。

3.「日本の紅茶産業の生い立ち」について

ご承知の通り、お茶と人の関わりについては大変古く、伝説によれば紀元前2780年頃の中国の「神農」に遡ります。商品としての茶を飲用するようになるのは比較的新しく4,5世紀頃と思われています。日本に関しては、自生の茶が存在したと言う説もありますが、平安時代に中国留学僧がもたらし、鎌倉時代に禅僧栄西が茶の種子を持ち帰り本格的な茶の製造法などを伝えたと言われています。しかしこれらお茶の歴史は緑茶の歴史であり、紅茶については江戸末期・明治以降になります。世界に目を向けると、17世紀にオランダ・イギリスの両東インド会社がお茶を中国からヨーロッパへ広めました。その後、栽培方法や規模・製法などの進化に伴い徐々に今日の紅茶が誕生し、そして全世界に普及拡大していった訳です。
国内の紅茶に関する主な出来事は、1856年に下田に来航した米国使節(ハリス)が江戸幕府に30kgを手土産に献上し、1887年にはバラ茶80kgを輸入し、主に鹿鳴館で使用された。1906年には初の外国銘柄紅茶としてリプトン紅茶が輸入され、1917年には「日本紅茶㈱」が設立されて紅茶を生産・輸出し、1927年には国産銘柄紅茶第一号「日東紅茶」が誕生しました。
遡ってみると、実は政府は明治初期に紅茶が生糸と並び世界の需要が多いことに着目し、日本においても紅茶を輸出しようと未知の紅茶生産に関して種々の施策を講じ輸出に努めていたのです。それを追ってみると、1874年に「紅茶製法書」を作成して府県に布達、1875年には中国から2名の紅茶製造技術者を招き、「紅茶伝習所」を設けて中国式紅茶製法を試製・伝習させ、さらに1876年には多田元吉他2名をインド等に派遣して、著名産地に赴き、紅茶や磚茶の製造方法や栽培方法を視察し、加えて製茶機械や良種の茶種子を購入して帰国しました。1877年には「紅茶製造伝習規則」を発布してインド式紅茶製法を伝習・試製紅茶による海外品評調査を実施しました。その結果、緑茶の生産・輸出に比べれば僅かな数量ではありましたが、国産紅茶の生産量は増加し、当時の農商務省によれば1880年210トン、1882年150トン、あと1895年までに計1,259トンと記録されています。
其の後は国産紅茶の生産は品質問題などでしばらく停滞しましたが、戦後1947年には「国産品種紅茶産業化」事業として30年間研究されてきた「国産優良品種」べにほまれ・はつもみじ・べにかおりなどの国産品種紅茶の育苗・生産の拡大と輸出促進に努めました。その間、1954年の紅茶生産量は7,210トン、輸出は5,568トンを記録したものの、品質・コスト高・国際情勢の変化などのハンデにより国産紅茶の生産は翌年1955年の8,521トンをピークに、1970年には殆んど無くなり、ついに1971年に「紅茶輸入自由化」が行われました。国産紅茶生産終焉の主な要因はコストと品質で、半面需要は1961年(昭和36)年に西独製ティーバッグ自動包装機械「コンスタンタ」が輸入により、ティーバッグの生産・消費が急拡大して行きました。ティーバッグの登場で、紅茶の需要は2,000トンから7,000トンに急速に増加し、又包装紅茶の中に占めるティーバッグの割合が1963の4%から輸入自由化の1971年には45%に増大。1976年に66%となり、その後生活様式の欧米化などで今では約75%に拡大して消費構造は大きく変化して行きました。
自由化前後輸入量は16,000トンから19,000と増加、また紅茶=イギリスのイメージから、輸入先もスリランカ・インド・ケニア・インドネシアに拡大、需要は缶入包装茶・TBに加え紅茶ドリンク・フレーバーティー・インスタントティーなど製品のバラエティ化も進み、健康志向面からもマーケットは活性化しています。
世界のお茶生産量490万トン(内緑茶155万トン)、換算するとざっと紅茶は一日40億杯、緑茶15億杯、コーヒー19億杯になり、世界で一番飲まれている飲料,一番普及している飲料は「紅茶」と云うことになります。
                             (記) 清水 元(前日本紅茶協会 専務理事)

 

鎌倉街道と東山道武蔵路

1、東山道について

東山道は「律令時代に皇居が置かれた五畿内と諸国の国府を結ぶ幹線道路」であり、中路とされたのは近江・美濃・信濃・上野・下野・陸奥の各国国府を通る道であった。30里ごとに駅馬10匹を備えた駅家が置かれていた。陸奥国府・多賀城より北は小路。
奈良時代になり、東山道の枝道として「東山道武蔵路」が設けられた。これは上野国より武蔵国府(現・府中市)に至る道で、武蔵国は、東京湾岸の令制国の中で唯一、東山道に属していた。他の東京湾岸の国や甲斐、駿河、伊豆等は東海道に属していたが、その後相模国から武蔵国を経由して下総国に抜ける陸路が開かれたため、武蔵国は東海道に入れ替わった。当時は大河川に橋を架ける技術は未発達で、渡河困難な大河が続く東海道よりも東山道の方がむしろ安全と考えられていた。
江戸時代になると、江戸を中心とする五街道が整備され、幹線道路としての東山道は、中山道・日光街道・奥州街道などに再編された。泉町1丁目一帯には約340mの直線道路跡が発掘され、側道跡や道路幅をアスファルト上に「東山道武蔵路跡」と表記(下左の写真)されており、また平成18年には南延長上に道路跡、住居跡、祭祀の痕跡がみつかり(下右の写真)歴史公園として解放されておりその広大さなど実感できる。 

 2、鎌倉街道について

古道としての鎌倉街道は、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網である。
鎌倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道で、鎌倉時代の関東近郊の主要道である。その呼び名が一般的に用いられるようになったのは江戸時代以降で、吾妻鏡や諸文献に「鎌倉街道」の呼び名は見られず、江戸時代の書物である新編武蔵風土記や江戸名所図会などに「鎌倉街道」が散見されている。
府中街道、都道18号府中町田線(下の写真)は通称「鎌倉街道」である。

 
余談ながら能の「鉢の木」(観阿弥・世阿弥作ともいわれるが作者不詳)は武士道を讃えるものとして江戸時代に特に好まれ、「いざ鎌倉」の語源となった。また「質素だが精一杯のもてなし」ということでこの名を冠した飲食店、菓子店(阿佐ヶ谷)などもある。内容は佐野に住む貧しい老武士、佐野源左衛門尉常世の家に、ある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を求める。常世は粟飯を出し、薪がないからといって大事にしていた鉢植えの木を切って焚き、精一杯のもてなしをする。常世は僧を相手に「一族の横領により落ちぶれてはいるが、一旦緩急あらば痩せ馬に鞭を打ちいち早く鎌倉に駆け付け、命懸けで戦う所存である」と語る。その後鎌倉から召集があり、常世も駆け付けるが、あの僧は実は前執権・北条時頼だった ことを知る。時頼は常世に礼を言い、言葉に偽りがなかったのを誉めて恩賞を与える。(Wikipedia)
                                          (記)清水元

「国分寺市の鳥」とマンホール

「市の鳥」をご存知でしょうか?
国分寺市は、市制施行50周年「未来へはばたく年」を記念して2014年11月3日に市の鳥として「カワセミ」を制定しました。
カワセミは「飛ぶ宝石箱」 といわれる美しい野鳥で、市内では武蔵国分寺公園池・姿見の池などで頻繁に観察されます。小枝にとまり、狙いをさだめて魚・エビなどを一気に急降下して捕らえます。空中でのホバリングも得意です。
国分寺市では「カワセミを図案化したマンホール蓋」を市内に設置しています。現在、姿見の池、市役所周辺で見ることができます。
ちなみに、市の木は「けやき」、市の花は「さつき」。
国分寺市は「爽やかなケヤキの葉音が聞こえ、サツキの花が咲きほこる小道の先に、カワセミが住む池がある」というイメージでしょうか。

    武蔵国分寺公園 カワセミ   市役所前のマンホール(左の写真を図案化したもの)
  (写真:国分寺バードウオッチングクラブ 国竹  正之氏 撮影)

                      (記)中山斌雄(国分寺稲門会幹事、国分寺バードウオッチングクラブ会長)

東京の重心・へそは「国分寺市」

北海道富良野市は北海道の丁度中央に位置して「へその町」なんて言われていますが、東京の重心・へそは何処でしょうか。
(財)日本数学検定協会が算出した結果、東京都の島嶼部分を除いた本土が1枚の平らな板だとして、この板を指に載せてたった1か所だけバランスがとれる所=東京都の重心・へそに当たるのが、国分寺市富士本3丁目あたりだそうです。
 
 国分寺市立富士本「90度公園」(国分寺市富士本3-19-11)の脇にその旨を記した看板(右の写真)も立っています。住宅街にあるごく普通の公園ですが、直角に曲がる道の角に沿うように公園の形が90度に曲がっているためにつけられた名称とのこと。
国分寺市は東京の重心・おへそです。

国分寺駅(停車場)と中央線の歴史

                                   (記)加藤勝三(昭和29年 商学部卒) 
   明治5年(1872年)新橋~横浜間に鉄道が開通した当時、「駅」を示す日本語が無くて「ステーション」と表現されていた。明治13年頃から「停車場」と言う言葉が用いられるようになる。しかし「駅」は古代以来の宿駅制の用語としての歴史を持っている為、明治22年に町村制が施行されて「旧来の駅の制度が廃止」されるまで、鉄道施設としての呼び名として使う事は出来なかったようである。正式に法令用語として停車場や駅が定義付けられたのは大正10年(1922年)である。
 明治18年3月新宿駅が開設されると、新宿~立川間の路線開設の請願が取り上げられ、甲武鉄道により測量が開始された。
当時、町らしい所は府中・調布・田無くらいしかなく、鉄道も府中の明星学園あたりに駅を作る予定で測量を開始。しかし「貴社の煙で蚕が死ぬ」「汽車の煙突から出る火の粉が沿線の草屋根に降りかかって火事になる」との大反対運動が起きて計画変更し、現在の位置に決定。
停車場については中野~境~小金井~立川の予定だったそうだが「国分寺で駅の敷地を献納してもらえれば国分寺でも良い」との事。そこで本村(東元町)の大地主:小柳九一郎氏が6000坪と言われるほどの土地を犠牲にして敷地を確保・献納。元市会議員:小柳実氏の曽祖父:小柳孫三郎氏が補足献納して「国分寺停車場が誕生」した。
 
 写真は、(左)当時の国分寺停車場、(右)中央線開業。

かくして武州鉄道により、明治22年(1889年)4月11日新宿~立川間で営業が開始された。これは毎年4月中旬に大勢の人が訪れる玉川上水の桜見物を見込んでの営業でもあった。
・ 明治22年8月、八王子駅開設
・ 明治27年、川越鉄道が国分寺~久米川間を開通。翌年、久米川~川越間も開通し現在の西武新宿線が全線開通。
・ 明治36年(1903年)、八王子~甲府間が国有の官設鉄道中央線として開通。
・ 明治39年、政府の鉄道国有化政策により国に買収され官設鉄道中央線の一部になり、明治44年に甲府~名古屋間が開業して中央線の全線が開通。
・ 明治43年、多摩川の砂利運搬専業の東京砂利鉄道が「国分寺~下河原」間に開通。大正5年(1916年)、軍用鉄道になり大正9年鉄道省に移管。下河原線となる。
・ 昭和9年(1934年)、府中競馬場が出来て「競馬場駅」が開設。競馬開催日に限り国分寺から乗客を輸送するようになった。戦時下の昭和19年、沿線の軍需工場・東芝・日本製鋼などの通勤専用車として運行。昭和24年、一般旅客者の運行を開始。昭和48年、武蔵野線開通により「西国分寺駅」を開設。上記の国分寺への運行が打ち切られた。
中央線の電化は大正11年に新宿~国分寺間、昭和15年12月までに立川まで実施された。
多摩湖鉄道は、昭和3年(1928年)に国分寺~萩山間、昭和5年に萩山~村山貯水池(現、多摩湖)が開業。この鉄道は箱根土地会社が学園都市として開発を始めた「小平学園」への交通路の確保、「村山貯水池」への観光客誘致として施設されたと言われている。駅は現在とは違い、東国分寺~桜堤~商大予科前(一橋大学)~小平学園~青梅街道 であった。
中央線は大正11年に電化されたが、昭和30年頃まで蒸気機関車が走っていた。現在はSLと言われて人気があるが、当時は線路沿いの家では「洗濯物が汽車のススで汚れてしまうので苦労した」と母親がよくこぼしていた。時代が変われば変わるものだと、つくづく思う次第である。
                                           (以上)

国分寺の歴史 「電気が供給された日」

電灯(イラスト)1914年(大正3年)10月1日、国分寺村に初めて電灯が灯りました。 
行灯やランプの生活に慣れた村の人達は、その明るさに驚き目を見張りました。
国分寺村に電気が供給されたのは、北多摩郡の中では前年に供給された府中町・調布町・西府村・多磨村に次いで早かったのです。しかし、電気が供給されたからと云って、村の家全てに電灯がついた訳ではなく、だんだんと増えていったのです。
当時、電気の供給は今の東京電力ではなく、京王電気軌道会社(現京王帝都電鉄)でした。京王電気軌道会社は、1913(大正2)年4月、笹塚・調布間に電車運転を始めると同時に、電気供給事業も行いました。つまり、京王電車が開通したおかげで、国分寺村をはじめ、北多摩郡の各町村に電気が供給される様になったのです。けれども、いくら電気が供給されたからと云っても、今の様にラジオ、テレビ、洗濯機、掃除機など家庭用電気製品があろうはずも無く、全て電灯用のものでした。
ところで、当時の電気の供給に当たっては、現在使われているメートル制と定額制のどちらかを選ぶシステムになっていました。電灯の数を多くすれば、電気の使用量の多少によって料金を支払うメートル制で、1~2灯と電灯の数が少なければ、使用量もそう多くならないので毎月一定額の料金を払えばよい定額制となっていました。ですから、メートル制を選んだ家は僅かで、定額制が殆どでした。しかも、電灯のつくのは夕方から朝迄で、昼間はつかず、使用した電球にしても40ワットか20ワットが多く、居間には40ワット、廊下や蚕室などは20ワット電球を使った様です。今の照明から考えれば随分と暗いように思えますが、それでもランプに比べれば遥かに明るかったのです。最初電灯を引かなかった家でも、ランプよりはずっと良いと云うので、その後4年位の間に殆ど全村に引かれる様になりました。

ランプ(イラスト)それでは、ランプを使っていた頃、村の人達の生活はどうだったのでしょうか。 
1897(明治30)年頃迄は、手ランプが使われていましたが、その後、柱などに吊るす事ができる「つるしランプ」が使われました。この頃からランプには石油が使われる様になり、なたね油を使った手ランプとは、比べものにならない程明るくなりました。ランプを使っていて困るのは油切れです。石油が足りないと気付きますと、それを夕暮れ近くになってから一升(1.8リットル)瓶をさげて石油を買いに走らされるのは子供でしたし、ランプを少しでも明るくするために、日暮れになると手をすすで真っ黒にしてランプのほや掃除をするのも、大抵は年寄りか子供の仕事でした。
当時は、火災が怖いので、寝る時はランプの灯りを全て消してしまうので、月のない夜などは村中真っ暗闇で、急用で夜道を行く時、いくら提灯を持ったとしても相当に怖かったようです。今の市内の明るさからみれば、想像もつかない程の暗さだったのです。
                                     (記)田中康義[S-35 政経]
 協力:国分寺市教育委員会、峯岸桂一氏 /参考資料:市の刊行物より

第6回 「世界三大嗜好飲料とその普及について」

1、はじめに

紅茶・コーヒー・ココアの三大嗜好飲料は、カフェインを含有している事が共通点です。 お酒・たばこを入れて5大嗜好品と言われています。

世界統計では、お茶はここ5年間で40%upと消費量が大幅に増大しています。お茶の健康面での効能が認められ、またコミュニケーションツール、寛ぎシーンに合う飲料として高く評価されている為だと思います。
お茶の原産国は中国です(19世紀初めにインドでアッサム種が発見)、コーヒーはエチオピアが原産、ココアはメキシコが原産です。
需要の流れ・変遷は下記の通り、
①     コーヒー:中南米生産されEUで58%,アメリカで30%消費、
②     ココア: アフリカで生産され、主として、オランダ中心にヨーロッパで60%消費、
③     お茶: 紅茶、緑茶に分けなければなりませんが、紅茶はインド・スリランカ・ケニア・インドネシアで生産され、ヨーロッパ・中東・アジアで消費。緑茶は中国・日本・台湾で生産され、主に中国・日本で飲まれています。
はからずも17世紀に、茶・コーヒー・ココアの3大嗜好飲料がヨーロュパに伝わり、ココアは南米からスペイン経由で、コーヒーはアラビアからトルコを経て、紅茶はオランダ人がヨーロッパへ、イギリス人の手で世界各国に広まりました。

2、砂糖と紅茶について

両者とも当時は一般の人々にはあまりにも高価で、上流の市民や貴族のものでしかありませんでした。17世紀の初め頃、砂糖も茶も薬屋で扱われる貴重な「薬品」でした。紅茶に砂糖をいれれば二重の効果が期待できるわけで、茶や砂糖は、貴族やジェントルマンといった高貴な身分の人々には文句なしの「ステイタス・シンボル」になったのです。多分その頃にロンドンを中心に普及したコーヒー・ハウスでは、紅茶に砂糖が入れられるようになったと思われます。
この時代にはアジアやアメリカ、アフリカなどの珍しい商品が輸入されはじめましたから、貴族やジェントルマン、豊かな人達は競ってこうした「舶来品」を買っていたのです。特にアジアやアメリカから来たものは高価だっただけに何でも「ステイタス・シンボル」になりやすかったのです。茶や砂糖はその典型でした。タバコでさえはじめは上流階級のシンボルとして利用されたくらいです。今日では砂糖はお茶やコーヒーには欠かせない必需品になりましたが、この時代、お茶・コーヒーの普及に比例して、砂糖の輸入増大が急務になり、亜熱帯の国・島では競って「さとうキビの栽培」が始まることのなります。
砂糖の原産地はインドですが、地中海・中央アジアのルートに加え、ポルトガル・スペインの世界進出にあわせて栽培に適したカリブ海域・亜熱帯の植民地へそのルートが拡大されて行きました。即ちポルトガルはブラジル、スペインはカリブ海域、英国がキューバで砂糖を栽培するなど需要に対応しました。その後キューバの帰属は2,3転することになりますが。
今日カリブ海の諸島はイギリス・オランダ・フランスの領土になっています、これこそお茶やコーヒーの消費の拡大ともに、必需品である砂糖の供給地であったことを物語っています。現在砂糖の供給先はインド・ブラジル・中国・北アメリカで、キューバは10番目です。

(参考)
イギリスの宮廷貴族に最初にお茶の習慣を広めたクイーンとして有名なキャサリンについて、お茶と砂糖の興味深い話があります、それは1662年、王制復古を成し遂げた国王チャールズ2世の許にポルトガルのプラガンサ家出身のキャサリンが王妃として迎えられました。彼女は当時すでにポルトガルの貴族や上流階級の間で既にできていた「喫茶の習慣」を身につけていて、嫁入り道具には、中国製の茶器や茶箱ごとの中国茶が含まれていました。又持参金として英王室が求めた銀塊の代わりに、当時これと同じ位貴重であったブラジル産の砂糖(当時砂糖と銀はグラム当たり同価格)を持ってきました。インドのボンベイと北アフリカのタンジールの土地も、持参金としてイギリスにもたらしたことで知られています。そしてイギリス王室でお茶を飲む習慣を広め、普及させました。

3、アメリカの独立とお茶

アメリカ独立戦争の導火線なった、ボストンティーパーティ(騒乱事件)の背景はイギリス東インド会社がお茶の輸入権を独占し、植民地アメリカには重税を課していました。そのためアメリカはオランダから密輸して対応、イギリス東インド会社のお茶は買わない“ノーティー運動”などで対抗しました。常々英本国議会におけるでたらめな課税政策に対し、「英国製品ボイコット運動」など、植民地政策に不満をつのらせていました。そんな折、東インド会社の持つ中国茶の過剰在庫分をアメリカ市場で特価処分してもよいとの認可がされたのをきっかけに、1773年12月16日にボストン市民の抗議が頂点に達し「ジョウジ3世のティーパーティだ」とし、急進派の市民の面々が、手や顔にランプの煤やペンキをぬり、毛布を肩に巻き、モホークインディアンと間違える扮装で、ボストン港に停泊中のダートマス号、エリーナ号、ビーバー号の積み荷のお茶を海中に投げ込みました。そのお茶は中国産の武夷茶342箱で「ボストン港が茶色に染まった」と云われていますが、そんな訳はないでしょう。その後チャールストン、フィラデルフィア、ニューヨーク、アナポリスなどで同様な騒乱を起こし、これがきっかけで独立運動に突き進みます。ヘンリーパトリックの「我に自由を与えよ、然らずんば死を」という有名な演説を経て、1775年4月独立戦争に突入しました。
1776年に米国は独立し、その後1784年には「エンブレス オブ チャイナ号」が中国から直接茶を輸入するためニューヨークを出帆、茶を満載して帰国。アメリカ国民は歓呼してこれを迎えたと云われています。

4、アヘン戦争とお茶

16・17世紀はスペイン・ポルトガル・オランダの時代、18・19世紀はイギリスの時代、20世紀はアメリカ、21世紀はどうなるかBRICs? リーダーなき国際化が進むのか? 南北、東西、宗教、人種問題など複雑化する中でますます混沌として行くようです。
さて18世紀になりイギリスは中国からのお茶の輸入で優位にありましたが、イギリス国内ではお茶の需要が急増し、輸入量も増大し、併せて高価な絹の輸入も増大したため。当時国際間の決済に使う銀が不足となりました。当初中国で医薬品として輸入していたアヘンの独占販売権を手にし、インドで栽培したアヘンを中国に売り、その代金をお茶代金の支払いに充てました。
これにつれ中国の銀が流出し、風紀も悪化するなどで社会的に弊害の大きいアヘンを中国は輸入禁止にします。その報復措置として始まったのが「アヘン戦争」です。中国が敗戦し、1842年南京条約により中国は香港を割譲させられました。1997年7月に返還。マカオは1557年からポルトガル人が移住。ポルトガルの植民地で、遅れて返還されています。
                                         (以上)

お鷹の道 湧水園

湧水園は「お鷹の道」沿いにあり、国分寺崖線の豊かな自然を残しています。園内は、崖線の下から流れ出た湧水が池を作り、欅などの大木が生い茂るなど季節ごとに地域の原風景が楽しめます。
園の入口には、江戸時代後期の弘化5年(1848年)に建てられた旧国分寺村の名主の長屋門があります。また、園内の北には、自然のままの湧水源を観察できる場所もあります。
  「お鷹の道」は江戸時代、尾張徳川家の御鷹場だったことに由来して、名づけられた散策道です。国分寺市を代表する名所として親しまれ、四季折々の自然が楽しめます。湧水群の清流には、アブラハヤなどの小魚や、スジエビなどが生息し、ホタルの繁殖にも取り組んで」いる団体もあります。

 

真姿の池湧水群(東京都指定名勝、全国名水百選(昭和60年)、都名水57選)

 嘉祥元年(848)、絶世の美女・玉造小町が重い病気に苦しみ、国分寺の薬師如来に祈ると、一人の童子があらわれ池の水で清めるように言いました。
小町が身体を洗うとたちまち病気が治癒し、元の美しい姿に戻ったという伝承から、この池を「真姿の池」と呼ぶようになりました。この真姿の池湧水群などの国分寺市内の湧水は「野川」の源流です。「野川」は世田谷区の二子玉川で多摩川に合流しています。

姿見の池 (都名湧水57選)

鎌倉時代、恋ヶ窪は宿場町として栄え、遊女たちが池で朝な夕なに自らの姿 を映していたことから「姿見の池」と呼ばれるようになったと伝えられています。恋ヶ窪と言う地名の由来の一つとも言われています。
昭和に入り一度埋め立てられましたが、現在は緑地保全地区として整備され、かつての武蔵野の里山風景を見ることが出来ます。「武蔵野夫人」(大岡昇平著)に登場したほか、野鳥が観察できるスポットとしても人気の名所です。