「国分寺市の鳥」とマンホール

「市の鳥」をご存知でしょうか?
国分寺市は、市制施行50周年「未来へはばたく年」を記念して2014年11月3日に市の鳥として「カワセミ」を制定しました。
カワセミは「飛ぶ宝石箱」 といわれる美しい野鳥で、市内では武蔵国分寺公園池・姿見の池などで頻繁に観察されます。小枝にとまり、狙いをさだめて魚・エビなどを一気に急降下して捕らえます。空中でのホバリングも得意です。
国分寺市では「カワセミを図案化したマンホール蓋」を市内に設置しています。現在、姿見の池、市役所周辺で見ることができます。
ちなみに、市の木は「けやき」、市の花は「さつき」。
国分寺市は「爽やかなケヤキの葉音が聞こえ、サツキの花が咲きほこる小道の先に、カワセミが住む池がある」というイメージでしょうか。

    武蔵国分寺公園 カワセミ   市役所前のマンホール(左の写真を図案化したもの)
  (写真:国分寺バードウオッチングクラブ 国竹  正之氏 撮影)

                      (記)中山斌雄(国分寺稲門会幹事、国分寺バードウオッチングクラブ会長)

東京の重心・へそは「国分寺市」

北海道富良野市は北海道の丁度中央に位置して「へその町」なんて言われていますが、東京の重心・へそは何処でしょうか。
(財)日本数学検定協会が算出した結果、東京都の島嶼部分を除いた本土が1枚の平らな板だとして、この板を指に載せてたった1か所だけバランスがとれる所=東京都の重心・へそに当たるのが、国分寺市富士本3丁目あたりだそうです。
 
 国分寺市立富士本「90度公園」(国分寺市富士本3-19-11)の脇にその旨を記した看板(右の写真)も立っています。住宅街にあるごく普通の公園ですが、直角に曲がる道の角に沿うように公園の形が90度に曲がっているためにつけられた名称とのこと。
国分寺市は東京の重心・おへそです。

国分寺駅(停車場)と中央線の歴史

                                   (記)加藤勝三(昭和29年 商学部卒) 
   明治5年(1872年)新橋~横浜間に鉄道が開通した当時、「駅」を示す日本語が無くて「ステーション」と表現されていた。明治13年頃から「停車場」と言う言葉が用いられるようになる。しかし「駅」は古代以来の宿駅制の用語としての歴史を持っている為、明治22年に町村制が施行されて「旧来の駅の制度が廃止」されるまで、鉄道施設としての呼び名として使う事は出来なかったようである。正式に法令用語として停車場や駅が定義付けられたのは大正10年(1922年)である。
 明治18年3月新宿駅が開設されると、新宿~立川間の路線開設の請願が取り上げられ、甲武鉄道により測量が開始された。
当時、町らしい所は府中・調布・田無くらいしかなく、鉄道も府中の明星学園あたりに駅を作る予定で測量を開始。しかし「貴社の煙で蚕が死ぬ」「汽車の煙突から出る火の粉が沿線の草屋根に降りかかって火事になる」との大反対運動が起きて計画変更し、現在の位置に決定。
停車場については中野~境~小金井~立川の予定だったそうだが「国分寺で駅の敷地を献納してもらえれば国分寺でも良い」との事。そこで本村(東元町)の大地主:小柳九一郎氏が6000坪と言われるほどの土地を犠牲にして敷地を確保・献納。元市会議員:小柳実氏の曽祖父:小柳孫三郎氏が補足献納して「国分寺停車場が誕生」した。
 
 写真は、(左)当時の国分寺停車場、(右)中央線開業。

かくして武州鉄道により、明治22年(1889年)4月11日新宿~立川間で営業が開始された。これは毎年4月中旬に大勢の人が訪れる玉川上水の桜見物を見込んでの営業でもあった。
・ 明治22年8月、八王子駅開設
・ 明治27年、川越鉄道が国分寺~久米川間を開通。翌年、久米川~川越間も開通し現在の西武新宿線が全線開通。
・ 明治36年(1903年)、八王子~甲府間が国有の官設鉄道中央線として開通。
・ 明治39年、政府の鉄道国有化政策により国に買収され官設鉄道中央線の一部になり、明治44年に甲府~名古屋間が開業して中央線の全線が開通。
・ 明治43年、多摩川の砂利運搬専業の東京砂利鉄道が「国分寺~下河原」間に開通。大正5年(1916年)、軍用鉄道になり大正9年鉄道省に移管。下河原線となる。
・ 昭和9年(1934年)、府中競馬場が出来て「競馬場駅」が開設。競馬開催日に限り国分寺から乗客を輸送するようになった。戦時下の昭和19年、沿線の軍需工場・東芝・日本製鋼などの通勤専用車として運行。昭和24年、一般旅客者の運行を開始。昭和48年、武蔵野線開通により「西国分寺駅」を開設。上記の国分寺への運行が打ち切られた。
中央線の電化は大正11年に新宿~国分寺間、昭和15年12月までに立川まで実施された。
多摩湖鉄道は、昭和3年(1928年)に国分寺~萩山間、昭和5年に萩山~村山貯水池(現、多摩湖)が開業。この鉄道は箱根土地会社が学園都市として開発を始めた「小平学園」への交通路の確保、「村山貯水池」への観光客誘致として施設されたと言われている。駅は現在とは違い、東国分寺~桜堤~商大予科前(一橋大学)~小平学園~青梅街道 であった。
中央線は大正11年に電化されたが、昭和30年頃まで蒸気機関車が走っていた。現在はSLと言われて人気があるが、当時は線路沿いの家では「洗濯物が汽車のススで汚れてしまうので苦労した」と母親がよくこぼしていた。時代が変われば変わるものだと、つくづく思う次第である。
                                           (以上)

国分寺の歴史 「電気が供給された日」

電灯(イラスト)1914年(大正3年)10月1日、国分寺村に初めて電灯が灯りました。 
行灯やランプの生活に慣れた村の人達は、その明るさに驚き目を見張りました。
国分寺村に電気が供給されたのは、北多摩郡の中では前年に供給された府中町・調布町・西府村・多磨村に次いで早かったのです。しかし、電気が供給されたからと云って、村の家全てに電灯がついた訳ではなく、だんだんと増えていったのです。
当時、電気の供給は今の東京電力ではなく、京王電気軌道会社(現京王帝都電鉄)でした。京王電気軌道会社は、1913(大正2)年4月、笹塚・調布間に電車運転を始めると同時に、電気供給事業も行いました。つまり、京王電車が開通したおかげで、国分寺村をはじめ、北多摩郡の各町村に電気が供給される様になったのです。けれども、いくら電気が供給されたからと云っても、今の様にラジオ、テレビ、洗濯機、掃除機など家庭用電気製品があろうはずも無く、全て電灯用のものでした。
ところで、当時の電気の供給に当たっては、現在使われているメートル制と定額制のどちらかを選ぶシステムになっていました。電灯の数を多くすれば、電気の使用量の多少によって料金を支払うメートル制で、1~2灯と電灯の数が少なければ、使用量もそう多くならないので毎月一定額の料金を払えばよい定額制となっていました。ですから、メートル制を選んだ家は僅かで、定額制が殆どでした。しかも、電灯のつくのは夕方から朝迄で、昼間はつかず、使用した電球にしても40ワットか20ワットが多く、居間には40ワット、廊下や蚕室などは20ワット電球を使った様です。今の照明から考えれば随分と暗いように思えますが、それでもランプに比べれば遥かに明るかったのです。最初電灯を引かなかった家でも、ランプよりはずっと良いと云うので、その後4年位の間に殆ど全村に引かれる様になりました。

ランプ(イラスト)それでは、ランプを使っていた頃、村の人達の生活はどうだったのでしょうか。 
1897(明治30)年頃迄は、手ランプが使われていましたが、その後、柱などに吊るす事ができる「つるしランプ」が使われました。この頃からランプには石油が使われる様になり、なたね油を使った手ランプとは、比べものにならない程明るくなりました。ランプを使っていて困るのは油切れです。石油が足りないと気付きますと、それを夕暮れ近くになってから一升(1.8リットル)瓶をさげて石油を買いに走らされるのは子供でしたし、ランプを少しでも明るくするために、日暮れになると手をすすで真っ黒にしてランプのほや掃除をするのも、大抵は年寄りか子供の仕事でした。
当時は、火災が怖いので、寝る時はランプの灯りを全て消してしまうので、月のない夜などは村中真っ暗闇で、急用で夜道を行く時、いくら提灯を持ったとしても相当に怖かったようです。今の市内の明るさからみれば、想像もつかない程の暗さだったのです。
                                     (記)田中康義[S-35 政経]
 協力:国分寺市教育委員会、峯岸桂一氏 /参考資料:市の刊行物より

第6回 「世界三大嗜好飲料とその普及について」

1、はじめに

紅茶・コーヒー・ココアの三大嗜好飲料は、カフェインを含有している事が共通点です。 お酒・たばこを入れて5大嗜好品と言われています。

世界統計では、お茶はここ5年間で40%upと消費量が大幅に増大しています。お茶の健康面での効能が認められ、またコミュニケーションツール、寛ぎシーンに合う飲料として高く評価されている為だと思います。
お茶の原産国は中国です(19世紀初めにインドでアッサム種が発見)、コーヒーはエチオピアが原産、ココアはメキシコが原産です。
需要の流れ・変遷は下記の通り、
①     コーヒー:中南米生産されEUで58%,アメリカで30%消費、
②     ココア: アフリカで生産され、主として、オランダ中心にヨーロッパで60%消費、
③     お茶: 紅茶、緑茶に分けなければなりませんが、紅茶はインド・スリランカ・ケニア・インドネシアで生産され、ヨーロッパ・中東・アジアで消費。緑茶は中国・日本・台湾で生産され、主に中国・日本で飲まれています。
はからずも17世紀に、茶・コーヒー・ココアの3大嗜好飲料がヨーロュパに伝わり、ココアは南米からスペイン経由で、コーヒーはアラビアからトルコを経て、紅茶はオランダ人がヨーロッパへ、イギリス人の手で世界各国に広まりました。

2、砂糖と紅茶について

両者とも当時は一般の人々にはあまりにも高価で、上流の市民や貴族のものでしかありませんでした。17世紀の初め頃、砂糖も茶も薬屋で扱われる貴重な「薬品」でした。紅茶に砂糖をいれれば二重の効果が期待できるわけで、茶や砂糖は、貴族やジェントルマンといった高貴な身分の人々には文句なしの「ステイタス・シンボル」になったのです。多分その頃にロンドンを中心に普及したコーヒー・ハウスでは、紅茶に砂糖が入れられるようになったと思われます。
この時代にはアジアやアメリカ、アフリカなどの珍しい商品が輸入されはじめましたから、貴族やジェントルマン、豊かな人達は競ってこうした「舶来品」を買っていたのです。特にアジアやアメリカから来たものは高価だっただけに何でも「ステイタス・シンボル」になりやすかったのです。茶や砂糖はその典型でした。タバコでさえはじめは上流階級のシンボルとして利用されたくらいです。今日では砂糖はお茶やコーヒーには欠かせない必需品になりましたが、この時代、お茶・コーヒーの普及に比例して、砂糖の輸入増大が急務になり、亜熱帯の国・島では競って「さとうキビの栽培」が始まることのなります。
砂糖の原産地はインドですが、地中海・中央アジアのルートに加え、ポルトガル・スペインの世界進出にあわせて栽培に適したカリブ海域・亜熱帯の植民地へそのルートが拡大されて行きました。即ちポルトガルはブラジル、スペインはカリブ海域、英国がキューバで砂糖を栽培するなど需要に対応しました。その後キューバの帰属は2,3転することになりますが。
今日カリブ海の諸島はイギリス・オランダ・フランスの領土になっています、これこそお茶やコーヒーの消費の拡大ともに、必需品である砂糖の供給地であったことを物語っています。現在砂糖の供給先はインド・ブラジル・中国・北アメリカで、キューバは10番目です。

(参考)
イギリスの宮廷貴族に最初にお茶の習慣を広めたクイーンとして有名なキャサリンについて、お茶と砂糖の興味深い話があります、それは1662年、王制復古を成し遂げた国王チャールズ2世の許にポルトガルのプラガンサ家出身のキャサリンが王妃として迎えられました。彼女は当時すでにポルトガルの貴族や上流階級の間で既にできていた「喫茶の習慣」を身につけていて、嫁入り道具には、中国製の茶器や茶箱ごとの中国茶が含まれていました。又持参金として英王室が求めた銀塊の代わりに、当時これと同じ位貴重であったブラジル産の砂糖(当時砂糖と銀はグラム当たり同価格)を持ってきました。インドのボンベイと北アフリカのタンジールの土地も、持参金としてイギリスにもたらしたことで知られています。そしてイギリス王室でお茶を飲む習慣を広め、普及させました。

3、アメリカの独立とお茶

アメリカ独立戦争の導火線なった、ボストンティーパーティ(騒乱事件)の背景はイギリス東インド会社がお茶の輸入権を独占し、植民地アメリカには重税を課していました。そのためアメリカはオランダから密輸して対応、イギリス東インド会社のお茶は買わない“ノーティー運動”などで対抗しました。常々英本国議会におけるでたらめな課税政策に対し、「英国製品ボイコット運動」など、植民地政策に不満をつのらせていました。そんな折、東インド会社の持つ中国茶の過剰在庫分をアメリカ市場で特価処分してもよいとの認可がされたのをきっかけに、1773年12月16日にボストン市民の抗議が頂点に達し「ジョウジ3世のティーパーティだ」とし、急進派の市民の面々が、手や顔にランプの煤やペンキをぬり、毛布を肩に巻き、モホークインディアンと間違える扮装で、ボストン港に停泊中のダートマス号、エリーナ号、ビーバー号の積み荷のお茶を海中に投げ込みました。そのお茶は中国産の武夷茶342箱で「ボストン港が茶色に染まった」と云われていますが、そんな訳はないでしょう。その後チャールストン、フィラデルフィア、ニューヨーク、アナポリスなどで同様な騒乱を起こし、これがきっかけで独立運動に突き進みます。ヘンリーパトリックの「我に自由を与えよ、然らずんば死を」という有名な演説を経て、1775年4月独立戦争に突入しました。
1776年に米国は独立し、その後1784年には「エンブレス オブ チャイナ号」が中国から直接茶を輸入するためニューヨークを出帆、茶を満載して帰国。アメリカ国民は歓呼してこれを迎えたと云われています。

4、アヘン戦争とお茶

16・17世紀はスペイン・ポルトガル・オランダの時代、18・19世紀はイギリスの時代、20世紀はアメリカ、21世紀はどうなるかBRICs? リーダーなき国際化が進むのか? 南北、東西、宗教、人種問題など複雑化する中でますます混沌として行くようです。
さて18世紀になりイギリスは中国からのお茶の輸入で優位にありましたが、イギリス国内ではお茶の需要が急増し、輸入量も増大し、併せて高価な絹の輸入も増大したため。当時国際間の決済に使う銀が不足となりました。当初中国で医薬品として輸入していたアヘンの独占販売権を手にし、インドで栽培したアヘンを中国に売り、その代金をお茶代金の支払いに充てました。
これにつれ中国の銀が流出し、風紀も悪化するなどで社会的に弊害の大きいアヘンを中国は輸入禁止にします。その報復措置として始まったのが「アヘン戦争」です。中国が敗戦し、1842年南京条約により中国は香港を割譲させられました。1997年7月に返還。マカオは1557年からポルトガル人が移住。ポルトガルの植民地で、遅れて返還されています。
                                         (以上)

お鷹の道 湧水園

湧水園は「お鷹の道」沿いにあり、国分寺崖線の豊かな自然を残しています。園内は、崖線の下から流れ出た湧水が池を作り、欅などの大木が生い茂るなど季節ごとに地域の原風景が楽しめます。
園の入口には、江戸時代後期の弘化5年(1848年)に建てられた旧国分寺村の名主の長屋門があります。また、園内の北には、自然のままの湧水源を観察できる場所もあります。
  「お鷹の道」は江戸時代、尾張徳川家の御鷹場だったことに由来して、名づけられた散策道です。国分寺市を代表する名所として親しまれ、四季折々の自然が楽しめます。湧水群の清流には、アブラハヤなどの小魚や、スジエビなどが生息し、ホタルの繁殖にも取り組んで」いる団体もあります。

 

真姿の池湧水群(東京都指定名勝、全国名水百選(昭和60年)、都名水57選)

 嘉祥元年(848)、絶世の美女・玉造小町が重い病気に苦しみ、国分寺の薬師如来に祈ると、一人の童子があらわれ池の水で清めるように言いました。
小町が身体を洗うとたちまち病気が治癒し、元の美しい姿に戻ったという伝承から、この池を「真姿の池」と呼ぶようになりました。この真姿の池湧水群などの国分寺市内の湧水は「野川」の源流です。「野川」は世田谷区の二子玉川で多摩川に合流しています。

姿見の池 (都名湧水57選)

鎌倉時代、恋ヶ窪は宿場町として栄え、遊女たちが池で朝な夕なに自らの姿 を映していたことから「姿見の池」と呼ばれるようになったと伝えられています。恋ヶ窪と言う地名の由来の一つとも言われています。
昭和に入り一度埋め立てられましたが、現在は緑地保全地区として整備され、かつての武蔵野の里山風景を見ることが出来ます。「武蔵野夫人」(大岡昇平著)に登場したほか、野鳥が観察できるスポットとしても人気の名所です。

「姿見の池」にまつわる「恋ヶ窪」伝説

 鎌倉の源頼朝に仕えた秩父の庄司:畠山重忠は鎌倉街道の恋ヶ窪宿で遊女:夙妻太夫と出会い、深く結ばれる仲となりました。 
重忠が平家追討のため西国へ旅立つ際に、夙妻太夫は重忠の身を案じ、一諸に連れて行って欲しいと頼みましたが、戦いに女性を連れてゆくことが出来ないため、重忠は一人で出征し、残された夙妻太夫は、毎日重忠の身を案じて暮らしていました。夙妻太夫に思いを寄せる男が、この二人の仲を裂こうと「重忠が戦いで討ち死にした」と嘘を告げると、夙妻太夫は悲しみにくれて、姿見の池に入水自殺をしてしまいました。
夙妻太夫の死を憐れんだ村人が手厚く葬り、墓印として松を植えると、その松は夙妻太夫の悲しみのために一葉になっていました。その後、戻った重忠が夙妻太夫の死を知り、供養のために、無量山道成寺を建立して、阿弥陀如来立像を安置しました。
(国分寺市観光協会・国分寺歴史・観光マップより)

第5回 「ティーパーティー雑感」

今回は、第3回でご紹介した「3つのティーパーティー」について詳しくお話し致します。
 お茶(緑茶)の歴史は伝説を含めると約4,800年でありますが、「紅茶」の登場については歴史的には、そんなに古い時代ではなく、せいぜい300年位です。
 皆様は「ティーパーティー」と言えば英国紅茶文化から生まれたものを頭に浮かべると思います。ここでは3つの「ティーパーティー」を紹介致します。

その1.「アフタヌーンティー」などのティーパーティー 

 「ティーパーティー」ですが本来はイギリスにおいて、17世紀中頃から東洋の珍品・貴重品であるお茶が普及して行く過程で、有産階級においてティーとティーフーズで親密な会話を楽しむ社交・親睦のためにお茶を飲む習慣が英国の伝統的な生活文化としてライフスタイルに定着、発展したものです。一般にティーパーティーといえば「アフタヌーンティー(午後のお茶会)」を意味しますが、これはビクトリア時代の1840年頃のことです。
 「アフタヌーンティー」は1840年頃に、第7代ベッドフォード侯爵夫人のアンナ・マリアが発案者といわれ、社交のための中食としての習慣です。豪華な朝食と夜遅い夕食の間、午後5時に空腹をしのぐため、お茶とバター付のパンをとったことが始まりで、これが貴婦人の間に広まったといわれています。ビクトリア王朝の1850年からエドワード7世、ジョウジ5世まで1910年までにすべての階層に定着、お茶は国民飲料になりました。まさにイギリスの栄光を誇示する英国の紅茶文化が完成した訳です。
 なかでも公式のアフタヌーンティー(ビクトリアンティー)にはマナーやエチケットとは別に、少し条件があり、それは「優雅なテーブルセッティング」「多種類でたっぷりのティーフーズ」「主にインド、セイロン紅茶をミルクティーで正しくいれて楽しむ」もので、これこそイギリスの紅茶文化を象徴するものです。
現在日本でも、略式ですがホテルやレストラン、紅茶専門店などで楽しむことができます。

その2.「アメリカの独立」と「ボストンティーパーティー」

 アメリカ独立戦争の導火線なったのがボストンティーパーティー(騒乱事件)です。
当時イギリス東インド会社がお茶の輸入権を独占しており、植民地であるアメリカはイギリス本国の茶の重税に対抗し、オランダから密輸するなどで対応していました。常々英本国の課税政策に対し、「英国製品ボイコット運動」など、不満をつのらせていた折に、英政府の東インド会社の持つ中国茶の過剰在庫分をアメリカ市場で特価処分してもよいとの認可が出されたことに反発し、1773年12月16日にボストン市急進派の市民が正体を見破られないように、手や顔にランプの煤やペンキをぬり、毛布を肩に巻き、モホークインディアンと間違える扮装で、ボストン港に停泊中のダートマス号・エリーナ号・ビーバー号の積み荷のお茶を海中に投げ込み、ボストン港を紅茶色に染めたと言われている騒乱事件です。そのお茶は中国産の武夷茶342箱でありました。
 その後チャールストン・フィラデルフィア・ニューヨーク・アナポリスなどで同様な騒乱が起き、これがきっかけで独立運動に拡大。1774年には2回目のボストンティーパーティーが起こるなど騒乱が続き、1775年4月にボストン郊外レキシントンで英軍隊と武力衝突が勃発。独立戦争に突入し、1776年に独立を成し遂げました。
 独立後、1784年には「エンブレス オブ チャイナ号」が中国から直接茶を輸入するためニューヨークを出帆。茶を満載して帰国し、アメリカ国民は歓呼してこれを迎えたとのことです。アメリカ独立戦争の導火線なったのはこのボストンティーパーティーです。

その3.アメリカのティーパーティー運動

 昨年11月、アメリカでは大統領選挙が行われ、現オバマ大統領が再選されました。
共和党のロムニー前マサチューセッツ州知事は惜しくも落選。一時、共和党・保守派の強力な運動母体にティーパーティー運動があります。これは2010年のマサチューセッツ州知事の補欠選挙や中間選挙で一大旋風を巻き起こしました。
 遡れば2007年12月に共和党ロン・ポー下院議員が記念集会で初めて使った言葉で、反オバマ運動として、また税金の無駄遣いを廃止し、小さな政府を目指す保守的な運動です。2010年の中間選挙では共和党の躍進に大いに寄与し、今以て保守派の政治運動として大きな力をもっており、躍進が急であります。その名から一時T.Bを手紙で送っていたので、ティーバッガーとも呼ばれたようであり、対抗して民主党のリベラル派でコーヒーパーティーを立ち上げたとのこと。まさにこのティーパーティーという呼称は、1773年のボストン茶会事件という歴史的な言葉を蘇らせたものです。
 共和党の目指すところは保守の復権で、政府の役割をスリムにし、古き良き米国の自由と独立を目指すものです。この民主・共和の二大政党の対立軸は社会保障分野では国民皆保険を目指すオバマ(民主)、国の干渉は不要とのロムニー(共和)、財政再建では公共事業・景気刺激の民主、大幅な歳出削減の共和、エネルギー政策ではクリーンエネルギー重視の民主、エネルギーの自給・ガスや石油の採掘促進の共和と論点が鮮明でした。日本も暮れの総選挙では、民主、自民二大政党の争いが熱を帯びましたが、自民の独り勝ち、民主の惨敗で幕を閉じました。しかし、争点はどうも政局や顔の違いを争点にしているようで、米国のように明確な国家観を背景にした政策の争いとはほど遠いように思えました。これでは国民の期待を失い、政治不信を招き、盛り上がりを欠く政治ショーです。
 さて、肝心の米国のティーパーティー運動の状況ですが、共和党指導部との対立やら、力も各地に分散し、政策の確立も弱く指導者不在など課題が多いことで、やや輝きも薄らいではいますが、今後の運動の行方が注目されています。

エピローグ. 英国式の「ティータイム」

 最後にイギリス人の喫茶習慣について概要を紹介します。
 これらは「日常の生活の中に習慣的に定着したティータイム」と日常生活とは別のイベントとして「特別なお茶会を楽しむティータイム」の2通りに区分できます。
 前者には①ベッドティー:朝起きぬけのティー、②ブレックファストティー:朝食時のティー、③モーニングティーブレーク(イレヴンジイズ):10時~11時の休憩時のティー、④ティ・アット・ランチ:昼食時のティー⑤アフターヌーンティーブレーク:15時~16時の休憩時のティー⑥就寝前のティー:元来は正餐(ディナー)の後で応接間などで団欒と社交目的に楽しんだティーの概ね6つがあります。
 後者には①アフターヌーンティー:特定な日の午後に、サロンや応接間にて親密な交際を目的とし開くもの、②ハイティー:労働者階級発信の文化として、有産階級が楽しむアフターヌーンティーにあやかって午後6時頃に子供たちとともにとった夕食のティー、③クリームティー:アフターヌーンティーほどの伝統や儀式にとらわれない「田舎風のティータイム」でティーとスコンのおやつで、イチゴジャムとクロテッドクリームで食べ、ティーを楽しむティータイムです。以上の概ね3つがあります。
                      (資料提供日本紅茶協会)
                        清水 元(前日本紅茶協会 専務理事)(記)