国分寺と玉川上水の分水 その1(3回連載)
武蔵国分寺が築かれた天平の時代は、国府は武蔵府中にあって、武蔵国の人口は(埼玉の一部・東京・横浜川崎)15~6万人位と推定する説がある。多摩川沿いには太田、世田谷、狛江、調布、などに小規模の縄文中期の古蹟が存在していて、古来水のある地域で生活を営んで居たのであろう。
平安時代から室町時代には、武蔵国豊島郡江戸と言われるように江戸氏が治めていた。『みのひとつたになきそかなしき』で有名な太田道灌は、扇谷上杉氏の武将で15世紀のの半ばに江戸城を築いた。室町時代当時の江戸西部はまだ全くの原野であっただろう。
【徳川家康の江戸入り】
時代は下って徳川家康が江戸入府したのは天正18年、1590年の頃、先ず府中に入った。東海道ではなく、東山道が主要道であった。府中に『御殿跡』と伝えられところがある。かつては、多摩川の向こうに多摩の横山、相模の山々を一望し、目の前には、切り下ろすような府中崖線を境にして、水田と茫々たる武蔵野が拡がる風光明媚な所、台地の先端である。手前の道が旧甲州街道で左が大國魂神社、右に高安寺、御殿跡地の左側の道が現府中街道となっている。秀吉に命ぜられ、家康は東山道で下って、このところに最初に居を構えたのであろう。
府中台地の北に国分寺崖線があり、崖線の下には湧水群があり清冽な湧水が流れ出ている。国分寺に『眞姿の池』があり『おたかの道』がある。家康は府中御殿に滞在の頃、このあたりで鷹狩りや、多摩川でアユ釣りを楽しんだのであろうかと想像される。
【国分寺村と水】
さて、現在の国分寺市の殆どは国分寺崖線の上、台地に広がっている。しかし、めぼしい河川らしきものは一切ない。家康が入府した当時の国分寺村は、崖線の下、国分寺跡から東西にのびるところに農家が散在していたと想像される。今の国分寺二小の坂を上って又下り坂になり恋ヶ窪に至るとまた登坂になっている。この道は、元 東山道であり、府中の国衙へゆく道であったので往時から恋ヶ窪辺りは家もかなりあって、恋ヶ窪村があった。恋ヶ窪谷やその東にさんや谷もあり、この辺は可成り起伏にとんだ地形になっている。低地でやや水田があったであろうと思われるが、水は何処から引いてきたのか?
【幕府の治水・用水工事】
江戸の東の見沼代用水は水路を掘削するという大工事であったから、幕府は資金と技術を提供した。それに対し、多摩川左岸の武蔵野の開拓は、幕府は何も施さず民間の手で行われた。
武蔵野は江戸に近いにもかかわらず、台地上の地形のため飲料水にも乏しい土地で、江戸の初め頃は、狭山丘陵とその南の国分寺と府中近辺以外人々は殆ど住んでいなかった。日本列島が形成されて以来、江戸中期頃まで武蔵野は全く人の住まない土地であった。
玉川上水は、承応2年(1653)4月から11月の間に.開削された。緩やかな武蔵台地を羽村の取水口(下:現在の写真)から砂川村を通り、四谷大木戸まで43㎞にわたる大工事だった。 (続く)
眞宅康博(記)(第1回/3回連載)
『国分寺 と 玉川上水の分水』 その2
私的見解 眞宅康博(記)
【国分寺分水】
玉川上水は、承応2年(1653)4月から11月の間に.開削された。緩やかな武蔵台地を羽村の取水口から砂川村を通り、四谷大木戸まで43㎞にわたる大工事だった。
そのわずか4年後の明暦3年(1657)、国分寺村・恋ヶ窪村・貫井村が玉川上水から水田用水を引水することを願い出て許され、合同の分水口が設けられた。
この分水は『国分寺村分水』や『国分寺村外二ヶ村組合分水』と呼ばれ、開削当初は上水3丁目(鷹の台水車通り)付近の玉川上水から直接取水し、現在の窪東公園の西側を南下して恋ヶ窪交差点で貫井分水と別れ、東恋ヶ窪5丁目交差点東側で国分寺分水と恋ヶ窪村分水に分かれるルートだった。
このような玉川分水は武蔵野台地の至る所を流れていた。水は昭和45年頃まで流されていたと見られ、恋ヶ窪村の田園風景を構成していた。また、かつて恋ヶ窪交差点の東側一帯は『堀分』という地名だった。
【恋ヶ窪村分水の開削】
恋ヶ窪村は、中世には鎌倉道が通る交通の要衝に位置しており、近世初頭には村が成立していたと考えられる。恋ヶ窪村分水は村の農業用水の確保が目的であったが、その開削には、さんや谷と恋ヶ窪谷に挟まれた台地を一つ越えなければならず、当時トンネル工法ともいえる胎内掘はまだ技術的に確立されておらず、この段丘を通すために大規模に掘り込む必要があった。
分水の開削により、恋ヶ窪村は約3斗9升から8斗8升と倍以上の石高となり、次第に高低差を利用して水車経営をする農家など現れた。
分水跡は、明暦3年の開削から360年にあたる2,017年に市重要史跡に指定している。市内には恋ヶ窪村分水以外にも江戸時代を過ごして多くの分水が設けられていた。五日市街道に並行して通水している南野中新田用水(砂川用水)が現存している。
また西町にはトンネル状の胎内掘が残っている。
市内には、分水を利用した水車の痕跡、水の祭祀に関係する寺社などの文化財が多く残されている。 (続く)
『国分寺 と 玉川上水の分水』 その3(最終回)
私的見解 眞宅康博
【その後の武蔵野】
享保年間の吉宗によって武蔵野開拓開発が進められたが、その成果は武蔵東部に比べてきわめて乏しいものであった。というのも武蔵野台地は気象的にも地形的にも水田稲作には
不向きであって、更に武蔵野の土地は関東ローム層のやせた土地だから、そのままでは畑作にも不向きであった。この土地が畑として農作物が出来るには水と肥料が必要なのだ。
『水』は玉川上水からなんとか分水が出来たが、肥料は解決されないでいた。
『肥料』は、ハッキリ言えば『人糞』である。
大量の人糞があるのは江戸である。しかし、人糞を江戸から運ぶには舟を使う。
この水運・船運が発達していたのは武蔵東部であった。西部にはこれといった川ない。そのため江戸時代は、東部では江戸の需要を当て込んだ野菜栽培など近郊農業が盛んになっていた。西部の武蔵野では、こういう農業が不可能であった。
この状態が長く続いた武蔵野の村人は、雑木で炭を作ったり、芋を栽培して主食にし、芋だけでは生きてゆけないので、八王子の市で原綿(練り綿)を買ってきて、それを女性たちが木綿布に織って八王子で売って現金を得る、男は焼いた炭を大八車で五日市の市に持っていって売りながら生計を立てていた。炭を江戸に運べば高く売れたが、大量に運ぶには残念ながら水運がなかったので、東の新河岸まで運んで船便を使った。
【近代の武蔵野と都市化】
このような武蔵野が本格的に開発されるのは、明治に入って鉄道が敷設されてからであった。甲武鉄道、のちの中央線がこれである。また国分寺~川越線、後の西武鉄道網などによって都内から人糞を大量に運ぶことが可能となり、武蔵野西部でも近郊農業が発達した。
そして、この武蔵野が現在のように都市化するのは、1964年の東京オリンピックの頃からである。高度経済成長で東京が急膨張すると、武蔵野は勤労者の住宅地として開発され、現在のような閑静な住宅都市になった。国分寺市は周辺都市が人口減に移行しているにも拘らず、今人口増に転じ、12万余に増えている。
なお、現在国分寺市の市民は、生活水を東京都の管理する水道水を利用しているが、そのほとんどは市内の各所にある深井戸の地下水で賄われていることをご存じだろうか。
国分寺は水と緑の豊富な街として、また歴史の街として誇りたい町である。国分寺をこの地に決めた条件は、風水によると言われている。災害も少なく住み易い町、安心・安全の街づくりでは他の自治体の視察の対象となっている。
こういう歴史を見てゆくと、武蔵野の西部地区は日本全体から見廻しても極めて古くて新しい町だと言えるのではなかろうか。
(完)
徳川吉宗の農地開発事業と国分寺(武蔵野の開拓)、その1
国分寺の、北西部にあたる西恋ヶ窪、日吉町、富士本、戸倉、新町、並木町、北町、或いは西の内藤町の住宅街を俯瞰してみると、江戸享保時代が見えてくる。
北町、並木町、新町は五日市街道にほぼ直角に道が通り、戸倉通りに到る。また、戸倉、富士本、西恋ヶ窪は戸倉通りから南東方向へ市役所通りを直角に横切りJR中央線に向かっている。そしてまた、内藤町、日吉町は内藤通りからJR線を挟んで南西に伸びているのが分かる。
此の道筋の違いは、なんだろう? 道筋の違いが、これらの街を複雑にし、住所探しを余計に難しくしている。この原因は享保の新田開発だった⁉ 武蔵野の東部は早くから拓けており、見沼代用水や野火止用水の水路の掘削は大掛りな土木事業で幕府は資金と技術を提供した。それに対し、多摩川左岸の武蔵野台地の開拓では幕府は何もせずもっぱら民間の手に委ねた事業だった。
武蔵野は江戸に近いにもかかわらず、台地状の地形のため飲料水にも乏しい土地で、それまで人々は殆ど住んで居なかった。ここは日本列島が形成されて以来、この時代になるまで全く人の住まない土地であった。江戸時代の初めの頃を見ると、ここで生活出来たのは狭山丘陵とその南の、今の国分寺と府中だけであった。狭山丘陵から湧き出る水と、国分寺崖線という湧水河川があったからである。
しかし、日本の気象は高温多湿であり、水田稲作はともかく畑作だけなら天水で十分農耕は出来る。そこで、吉宗が取った政策は、この武蔵野台地に移住して新田村を作る者には「玉川上水を飲料水として開放する」ということであった。玉川上水は1653年には完成していて江戸市中の上水を供給していた。分水については完成後翌々年には川越藩松平信綱が野火止用水を開削して埼玉県南部に供給したのが始まりで、その後千川や神田上水に分水して江戸の町を潤した。
1772年、吉宗は日本橋に高札を立て、新田開発の希望者には土地を払い下げるというもので、吉宗の新田開発政策は武蔵野台地に限らず、実際にはこの開拓政策で最も成果が上がったのは新潟で、武蔵野台地の開拓で得られた農地は1万石、新潟では10万石の成果であった。
武蔵野台地の開拓者には、玉川上水をさらに細かく分水して新しい農村を作ろうという事が吉宗の狙いであった。開発を願い出る者から出願料は取れるし、年貢も取れるというのが吉宗の目論見であった。開発後3~5年は年貢を取らない(鍬下年期)という恩恵があったが100両単位の出願料と鍬下年期の間は1反辺り12文の役錢か役米を払う必要があった。
また払い下げの土地は1㌶程度ではなく、何十町の広い土地を一括して払い下げるというものであったから農家の次三男が独力で開拓できるものではなかった。
‘18・9・25 (眞宅康博 記)
吉宗の農地開発事業と国分寺(武蔵野の開発)その2(続き)
こうした開発が出来るのは豪農と言われる農民か、村が村の事業として取り組む場合に限られてしまう。前者を百姓請負新田といい、後者を村請新田という。
国分寺の地名として残っているだけでも、本多新田、内藤新田、戸倉新田などあり、野中新田、六左衛門新田などは地名から消えてしまったものもある。
このうち戸倉新田は村請新田である。吉宗が大岡越前守に武蔵野新田の開発を命じた時、戸倉市三郎の祖先渡辺合佐衛門(後戸倉郷佐衛門)という人が(現あきるの市内)の戸倉村から同志を募り新田開拓をして元住んで居た村の名前に因んで村名とした。
百姓請負新田は開発者の営利事業で、開発者は入植者を集めては彼らを小作農民にして自分は地主になり、もしくは入植者に農地を売り利益を得ていた。彼らは村の名主としておさまり、今でもこの地域には大きな屋敷を残していることが見受けられるが、その当時の村名主の子孫であることが想像される。
しかし、村請や百姓請負のいずれにしても、開発には大金が必要で豪農や村が単独では資金の全部を賄うことは出来なかった、そこで多くは江戸の宿場町の豪商に出資を求め共同開発となった。豪商にとっては単に投資であるから出資金の回収を急ぎ或いは出来るだけ早く入植者から金銭、収穫物を得ようとして開発者との間で様々なトラブルを引き起こすことになった。
また、トラブルと言えば、この新田開発では隣村との争い事が絶えず起きていた。既存の村の山林の草木は刈敷など肥料や家畜の飼料、薪炭の採集地となっていた。これを秣場(まぐさば)というが、新田が新しく出来るとこの秣場がなくなってしまい新田村でも秣場は必要で、そのため江戸時代の武蔵野では村と村との争いごとが絶えなかったのである。村請新田には新田を必要としないのに新田開発をする村があったがそれは自分たちの秣場を確保するために開発した村であった。
武蔵野新田は、東の埼玉側では既存の村の反対・排斥運動が激しかったので新田村は比較的に少なく、東京側では反対が弱かったので多くの新田村が生まれた。
こうして見てくると、五日市街道から南に戸倉通りまで伸びる新田は、百姓請負新田のようであり、戸倉通りから南東に開拓したのは村請新田であるように思われる。それとほぼ直角に内藤新田が拡がっているが、この開発者は新宿内藤の藤堂家の開発した村であったのだろう?とは独断思考であるかもしれない・・・。
その後の武蔵野については、また機会があれば調べてみたいと思っている。
(Yahoo!参考) ’18・11・25(眞宅康博 記)