吉宗の農地開発事業と国分寺(武蔵野の開発)その2(続き)
こうした開発が出来るのは豪農と言われる農民か、村が村の事業として取り組む場合に限られてしまう。前者を百姓請負新田といい、後者を村請新田という。
国分寺の地名として残っているだけでも、本多新田、内藤新田、戸倉新田などあり、野中新田、六左衛門新田などは地名から消えてしまったものもある。
このうち戸倉新田は村請新田である。吉宗が大岡越前守に武蔵野新田の開発を命じた時、戸倉市三郎の祖先渡辺合佐衛門(後戸倉郷佐衛門)という人が(現あきるの市内)の戸倉村から同志を募り新田開拓をして元住んで居た村の名前に因んで村名とした。
百姓請負新田は開発者の営利事業で、開発者は入植者を集めては彼らを小作農民にして自分は地主になり、もしくは入植者に農地を売り利益を得ていた。彼らは村の名主としておさまり、今でもこの地域には大きな屋敷を残していることが見受けられるが、その当時の村名主の子孫であることが想像される。
しかし、村請や百姓請負のいずれにしても、開発には大金が必要で豪農や村が単独では資金の全部を賄うことは出来なかった、そこで多くは江戸の宿場町の豪商に出資を求め共同開発となった。豪商にとっては単に投資であるから出資金の回収を急ぎ或いは出来るだけ早く入植者から金銭、収穫物を得ようとして開発者との間で様々なトラブルを引き起こすことになった。
また、トラブルと言えば、この新田開発では隣村との争い事が絶えず起きていた。既存の村の山林の草木は刈敷など肥料や家畜の飼料、薪炭の採集地となっていた。これを秣場(まぐさば)というが、新田が新しく出来るとこの秣場がなくなってしまい新田村でも秣場は必要で、そのため江戸時代の武蔵野では村と村との争いごとが絶えなかったのである。村請新田には新田を必要としないのに新田開発をする村があったがそれは自分たちの秣場を確保するために開発した村であった。
武蔵野新田は、東の埼玉側では既存の村の反対・排斥運動が激しかったので新田村は比較的に少なく、東京側では反対が弱かったので多くの新田村が生まれた。
こうして見てくると、五日市街道から南に戸倉通りまで伸びる新田は、百姓請負新田のようであり、戸倉通りから南東に開拓したのは村請新田であるように思われる。それとほぼ直角に内藤新田が拡がっているが、この開発者は新宿内藤の藤堂家の開発した村であったのだろう?とは独断思考であるかもしれない・・・。
その後の武蔵野については、また機会があれば調べてみたいと思っている。
(Yahoo!参考) ’18・11・25(眞宅康博 記)