1.「セイロン紅茶の誕生・コーヒーから紅茶へ」
ご承知の通り「セイロン紅茶」は日本の紅茶輸入の50%~67%(最大時)と、永く良質紅茶のスタンダードとして日本人に愛飲されている紅茶です。スリランカは15世紀以降ポルトガル・オランダ・イギリスの植民地支配を受け1948年に独立しました。経済的には永年、ココナッツ・天然ゴムなどの一次産品の生産・輸出に依存してきました。1978年国名は「スリランカ共和国」になりましが、紅茶は国際的にも「セイロン紅茶」と呼称して世界の紅茶産業をリードしています。
「コーヒーと紅茶」は共に薬用から始まり、ヨーロッパへは1650年オックスフォード、翌年ロンドンに開店したコーヒーハウスを通じて広まりました。その後、砂糖やミルクを入れることで世界的な飲料として普及した点が共通しています。
17世紀からのオランダ・イギリスの両東インド会社の競合関係の中で、お茶は「イギリス東インド会社」がオランダを抑え優位に展開しており、一方コーヒーに関してはオランダがインドネシアのジャワ島でのプランテーションの成功で優位でした。オランダは当時の植民地セイロンへもコーヒー栽培を紹介(既にポルトガル人が16世紀初めにコーヒー持ち込んでいた経緯があります)しましたが着手しませんでした。
19世紀セイロンでは、コーヒーはシナモンなどの香辛料と並び海外の投資品目として注目されており、1820年代にジャフナでの綿花やココナツ・ネゴンボ・ゴールなどでのシナモンのプランテーションが既に始まっていました。これら生産物はコーヒーに比較して栽培規模や効率などで見劣りすることから陰りを見せていました。「コーヒー」は初めて1690年オランダ人により紹介されました。1796年にはイギリスの植民地になりましたが1825年までは着手しなかったようです。20年後の1845年に本格的に栽培が始まり、1857年には80,950エーカーに達し、その後急速に発展して行き世界最大のコーヒー産地となり経済を潤して行きました。しかし乍ら繁栄を極めたコーヒー産業も世界のコーヒー史上最大の事件である「サビ病(枯凋病・コーヒーの樹の葉が枯れ落ちる)」が1869年にバドゥラのコーヒー農園で発見され、翌年全島に拡がって187セイロン:ウバ、ハイランズ.jpg9年に最悪の状態となり、そのうちにコーヒー産業は滅びました(現在では銅の殺虫剤が有効であることが判っている)。この事件が起こり、コーヒープランター達はコーヒーに代わる栽培植物を探し、カカオ樹やシンコナなどの栽培・試作をしながら、やがて1867年より紅茶栽培が始まり、本格的な転換をして行くことになります。
2.「ジェームス・テーラー」 「トーマス・J・リプトン」 について
当時スコットランド人のジェームス・テーラーはコーヒー農園で働く傍ら、茶の栽培と製茶に格別の関心を持ち、研究していました。彼は1867年に初めてテスト茶園をプッセラワの東ヘワヘタのルーラコンデラ(Loolcondeella)に開設して紅茶の栽培に関し試行錯誤を続けながら、試作に努めていました。漸く1872年にはルーラコンデラ茶のセイロン紅茶が初めて取引されました。1887年には、彼によりセイロンで初めて採算の取れる商業的規模の茶園がデルト―タ(Deltota)地区に拡張されました。
1880年代は茶の栽培が国の最優先経済課題であったことから、インドアッサムの成功者達からの協力なども得て徐々に成果を上げて行きました。一方ロンドンの茶商達からはアッサムや中国紅茶とは異なる固有のフレーバーが評価されて、プランター達は栽培面積を増やし紅茶事業は更に前進し、産業として大発展して行くことに成ります。
この成功要因としてセイロン特有の天候である南西・北東モンスーンや、東部・中部の地形と特徴ある土壌などが良品質の紅茶栽培に大きな貢献したことも見逃せません。
加えて道路や鉄道・港湾設備の改善もあり、かつてのコーヒー農園が茶園に生まれ変って発展し、今日では世界の紅茶産業をリードする存在になった訳です。
トーマス・J・リプトンはスコットランドの港町グラスゴーの食料品店の息子として生まれ、少年時代にアメリカに渡り広告・宣伝・販売技術を修得して帰国しました。丁度1890年代のイギリスでは急速に紅茶を飲む習慣が広まり、紅茶ブームに湧いていました。彼は茶商達が莫大な利益を享受しているのをみて、薄利多売の考え方で広告宣伝に注力し、良品質紅茶の供給など顧客満足度を更に高めました。また、正確な秤量と品質・鮮度保証を周知する為、それまでの量り売りから包装紅茶販売に変更しました。更に各都市の水質に合ったブレンド紅茶を考案するなどで、一躍進リプトン紅茶の人気は高まりました。やがて彼は自己の茶園での生産と良品質で安価なお茶を大量に供給することを目指して「茶園からティーポット」のスローガンを引っさげて1890年にセイロンに渡りました。
早速コロンボにオフィスを開設し、茶の樹の栽培に適した高地にある優良農地を買収し、広大な茶園を開拓して製茶工場の建設をすすめて17の紅茶のプランテーション経営に乗り出しました。そして、本格的にセイロン紅茶をイギリスはもとよりアメリカや他諸国に売り込み、広く一般大衆の日常飲料に定着させて「世界の紅茶王」と称せられるようになりました。
ジェームス・テラーとトーマス・J・リプトンの両名はともにスコットランド出身であり、夫々「セイロン紅茶の生みの親」「セイロン紅茶の育ての親」 と称されています。
3.「日本の紅茶産業の生い立ち」について
ご承知の通り、お茶と人の関わりについては大変古く、伝説によれば紀元前2780年頃の中国の「神農」に遡ります。商品としての茶を飲用するようになるのは比較的新しく4,5世紀頃と思われています。日本に関しては、自生の茶が存在したと言う説もありますが、平安時代に中国留学僧がもたらし、鎌倉時代に禅僧栄西が茶の種子を持ち帰り本格的な茶の製造法などを伝えたと言われています。しかしこれらお茶の歴史は緑茶の歴史であり、紅茶については江戸末期・明治以降になります。世界に目を向けると、17世紀にオランダ・イギリスの両東インド会社がお茶を中国からヨーロッパへ広めました。その後、栽培方法や規模・製法などの進化に伴い徐々に今日の紅茶が誕生し、そして全世界に普及拡大していった訳です。
国内の紅茶に関する主な出来事は、1856年に下田に来航した米国使節(ハリス)が江戸幕府に30kgを手土産に献上し、1887年にはバラ茶80kgを輸入し、主に鹿鳴館で使用された。1906年には初の外国銘柄紅茶としてリプトン紅茶が輸入され、1917年には「日本紅茶㈱」が設立されて紅茶を生産・輸出し、1927年には国産銘柄紅茶第一号「日東紅茶」が誕生しました。
遡ってみると、実は政府は明治初期に紅茶が生糸と並び世界の需要が多いことに着目し、日本においても紅茶を輸出しようと未知の紅茶生産に関して種々の施策を講じ輸出に努めていたのです。それを追ってみると、1874年に「紅茶製法書」を作成して府県に布達、1875年には中国から2名の紅茶製造技術者を招き、「紅茶伝習所」を設けて中国式紅茶製法を試製・伝習させ、さらに1876年には多田元吉他2名をインド等に派遣して、著名産地に赴き、紅茶や磚茶の製造方法や栽培方法を視察し、加えて製茶機械や良種の茶種子を購入して帰国しました。1877年には「紅茶製造伝習規則」を発布してインド式紅茶製法を伝習・試製紅茶による海外品評調査を実施しました。その結果、緑茶の生産・輸出に比べれば僅かな数量ではありましたが、国産紅茶の生産量は増加し、当時の農商務省によれば1880年210トン、1882年150トン、あと1895年までに計1,259トンと記録されています。
其の後は国産紅茶の生産は品質問題などでしばらく停滞しましたが、戦後1947年には「国産品種紅茶産業化」事業として30年間研究されてきた「国産優良品種」べにほまれ・はつもみじ・べにかおりなどの国産品種紅茶の育苗・生産の拡大と輸出促進に努めました。その間、1954年の紅茶生産量は7,210トン、輸出は5,568トンを記録したものの、品質・コスト高・国際情勢の変化などのハンデにより国産紅茶の生産は翌年1955年の8,521トンをピークに、1970年には殆んど無くなり、ついに1971年に「紅茶輸入自由化」が行われました。国産紅茶生産終焉の主な要因はコストと品質で、半面需要は1961年(昭和36)年に西独製ティーバッグ自動包装機械「コンスタンタ」が輸入により、ティーバッグの生産・消費が急拡大して行きました。ティーバッグの登場で、紅茶の需要は2,000トンから7,000トンに急速に増加し、又包装紅茶の中に占めるティーバッグの割合が1963の4%から輸入自由化の1971年には45%に増大。1976年に66%となり、その後生活様式の欧米化などで今では約75%に拡大して消費構造は大きく変化して行きました。
自由化前後輸入量は16,000トンから19,000と増加、また紅茶=イギリスのイメージから、輸入先もスリランカ・インド・ケニア・インドネシアに拡大、需要は缶入包装茶・TBに加え紅茶ドリンク・フレーバーティー・インスタントティーなど製品のバラエティ化も進み、健康志向面からもマーケットは活性化しています。
世界のお茶生産量490万トン(内緑茶155万トン)、換算するとざっと紅茶は一日40億杯、緑茶15億杯、コーヒー19億杯になり、世界で一番飲まれている飲料,一番普及している飲料は「紅茶」と云うことになります。
(記) 清水 元(前日本紅茶協会 専務理事)