『国分寺と玉川上水の分水』 その2

『国分寺 と 玉川上水の分水』 その2

         私的見解 眞宅康博(記)
 【国分寺分水】
玉川上水は、承応2年(1653)4月から11月の間に.開削された。緩やかな武蔵台地を羽村の取水口から砂川村を通り、四谷大木戸まで43㎞にわたる大工事だった。
そのわずか4年後の明暦3年(1657)、国分寺村・恋ヶ窪村・貫井村が玉川上水から水田用水を引水することを願い出て許され、合同の分水口が設けられた。
 この分水は『国分寺村分水』や『国分寺村外二ヶ村組合分水』と呼ばれ、開削当初は上水3丁目(鷹の台水車通り)付近の玉川上水から直接取水し、現在の窪東公園の西側を南下して恋ヶ窪交差点で貫井分水と別れ、東恋ヶ窪5丁目交差点東側で国分寺分水と恋ヶ窪村分水に分かれるルートだった。
このような玉川分水は武蔵野台地の至る所を流れていた。水は昭和45年頃まで流されていたと見られ、恋ヶ窪村の田園風景を構成していた。また、かつて恋ヶ窪交差点の東側一帯は『堀分』という地名だった。

 【恋ヶ窪村分水の開削】
恋ヶ窪村は、中世には鎌倉道が通る交通の要衝に位置しており、近世初頭には村が成立していたと考えられる。恋ヶ窪村分水は村の農業用水の確保が目的であったが、その開削には、さんや谷と恋ヶ窪谷に挟まれた台地を一つ越えなければならず、当時トンネル工法ともいえる胎内掘はまだ技術的に確立されておらず、この段丘を通すために大規模に掘り込む必要があった。
 分水の開削により、恋ヶ窪村は約3斗9升から8斗8升と倍以上の石高となり、次第に高低差を利用して水車経営をする農家など現れた。
 分水跡は、明暦3年の開削から360年にあたる2,017年に市重要史跡に指定している。市内には恋ヶ窪村分水以外にも江戸時代を過ごして多くの分水が設けられていた。五日市街道に並行して通水している南野中新田用水(砂川用水)が現存している。
また西町にはトンネル状の胎内掘が残っている。
 市内には、分水を利用した水車の痕跡、水の祭祀に関係する寺社などの文化財が多く残されている。 (続く)