紅茶にまつわる話・続

紅茶にまつわる話・続

  (記)日本紅茶協会 元専務理事 清水元

紅茶にまつわるお話を、9つの話題+αにまとめました。
長文ですが、紅茶でも飲みながらごゆっくりどうぞ。

その1.お茶の歴史と普及
先に触れましたが、茶の起源は伝説的には、紀元前2737年神農伝説に始まる-神農(シェンナン皇帝)生水は万病のもとの考えから、「煮立てて飲むべし」という事で、庭で大きな釜を使い、生水を煮立てていたところ、偶然にも数枚の葉が湯に落ち、その結果、その葉から、優雅な香りと素晴らしい味を発見した、これが野生の茶の発見と言われている。
また、510年頃インドの達磨大師が面壁九年の修行中5年目に眠気をもよおし、そばの木の葉を噛んだ処、眠気が去り不眠の苦行を成し遂げたという伝説もある。この葉が茶であったと云われている。

その2.紅茶の木や緑茶の木があるわけではない。
茶の学名はカメリアシネンシスで中国種とアッサム種の2種になる。
「チャ」は椿や山茶花の仲間で、ツバキ属ツバキ科の永年性の常緑樹で、学名は「カメリア・シネシンス」という。お茶はこの新芽や若葉、および柔らかい茎などを主な原材料とした世界的な飲料である。茶は製茶法からみて、発酵の程度の違いにより、発酵させないもの、『不発酵茶―緑茶』、発酵させているもの『発酵茶―紅茶』、半分程度発酵させているもの『半発酵茶―烏龍茶』の3つに区分される。
現在では1986年にISO3720で紅茶の定義は上記のように国際的に規定されている。
緑茶のISO定義は現在検討中で未だ検討案の段階と聞いている。

その3.世界的飲料としての伝播は
既報の通り、16世紀の大航海時代に入り、ポルトガルなどがキリスト教を世界に広める為とコショーに代表される香辛料の獲得が目的で世界に進出。先発のポルトガル人は15世紀からセイロン、ジャワ、中国へ出入し、且つ茶と茶器を中国人から知らされていたが「茶」については特段の興味を持たなかった。一般的な茶のヨーロッパへの伝来はオランダ人が長崎平戸から日本茶、広東省マカオから中国茶を買い付け本国に送りつけたのが1610年頃、(当時のオランダでは音を立てて茶を綴る習性まで日本から伝えられた事になっている)。17世紀初1,602年にオランダは「連合東インド会社」を設立し東方貿易に力をいれ、1630年フランス、ドイツ、イギリス、アメリカ(ニューアムステルダム)へお茶を売り込んだ。しかしオランダは中国貿易を独占しようとはしなかった。その為に当初はイギリスもオランダ経由で茶を扱っていたが、その後イギリスも設立された「イギリス東インド会社」を通じ貿易に力を注いだ結果、やがてオランダは後発のイギリスに商圏を奪われることになる。
17世紀中頃にはイギリスはオランダにかわり7つの海を支配しアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド等アングロサクソン系の国々、北欧、中近東、アフリカへ茶を普及させた。
ヨーロッパにおけるお茶の普及は17世紀中頃、上流社会の社交場としてロンドンを中心に発展した、コーヒー・ハウス(女人禁制)から始まりティーガーデンズ(喫茶園)を経て普及していった。コーヒーハウスはその後100年大いに流行しましたが、紅茶が一般的な「国民的飲料」となるにはさらに150年くらい後のことになります。従い紅茶が「薬用」としての飲用から人々の社交を円滑にする為の「飲み物」となったのはこの頃からと思われます
イギリスの嗜好は本来の中国茶から製茶行程中に自然にさらに酸化醗酵が進み葉の色が黒っぽく、水色が紅く醗酵臭と酸味が強い茶「ボヒー」(武夷)から「コングー」(工夫)などから紅茶に移行していった。

その4.世界三大嗜好飲料とその普及は
紅茶、コーヒー、ココアの三大嗜好飲料はカフェインを含有しているのが共通である。
原産国は茶が中国、コーヒーはエチオピア、ココアはメキシコ。
需要はコーヒーは中南米生産されEUで,58%,アメリカで30%、ココアは アフリカで 生産され、主として、 オランダ中心にヨーロッパで60%、紅茶は 紅茶、緑茶に分けなければなりませんが、紅茶はインド、スリランカ、ケニア、インドネシアで生産され、ヨーロッパ、中東、アジアで消費、緑茶は中国、日本、台湾で生産され、主に中国、日本で飲まれている。はからずも17世紀に、茶、コーヒー、ココアコの3大嗜好飲料がヨーロュパに伝わり、ココアは南米からスペイン経由で、コーヒーはアラビアからトルコを経て、紅茶はオランダ人がヨーロッパへ、イギリス人の手で世界各国に広まった。

その5.お茶の2つの「ティーロード」について
世界中でお茶の呼名は大きく分けて中国から伝来のルートの違い、即ち陸路か海路かで、2つあり、それは「チャ」と「ティー」のいずれかである。概してティーは抽出、チャ、チャイは煮出しで、いれ方はこの2種である。
「陸のティーロード」は(チァー、チァイ、シャー広東語系のチャ、ツァ)で
ロシア(チャイ、シャイ)ルーマニア、トルコ、ポーランド(チャイ)のルートと北方は蒙古、満州、シベリア、東は朝鮮、日本、北はチベット高原、カシミール、アフガニスタン、イラン(ペルシア)、イラク、トルコ又ウクライナ、ロシア、北アフリカのアルジェリア、モロッコへと伝わった。但しポルトガルは海路伝来であるがチャ(マカオなど永年統治していた国の言葉を使用していたためビンナン語で)と呼んでいる。
「海路のティーロード」は(テ、テー、テイー)語源は福建省のアモイやビンナン語といわれる各地の方言に起因する。オランダ人は宿敵である旧教徒のポルトガル人の呼ぶチャではなくテーと呼び海路で伝えた。後に東インド会社を通じイギリスが更に世界に広めた。
オランダ(テー)、イギリス、アメリカ(ティー)ドイツ(テー)、フランス(テ)、フィンランド(テー)、スウェーデン(テ)、デンマーク、スペイン、イタリアなどは(テ)。
余談ですが、カティサーク号(帆船)は茶運搬専用船・ティークリッパーで、1869年進水、中国/ロンドン107日間で航海した快速船。現役引退後はテムズ河畔のグリニッジに係留も近年焼失した。

その6.紅茶の登場、誕生について
肝心の「紅茶」の登場については歴史的には、そんなに古い時代ではない。
福建省の武夷茶が、「紅茶の原形」で、中国国内ではあまり普及することはなかったので、1720年代、イギリスの東インド会社が中国茶を輸入するようになり、その後イギリスへの中国茶の輸入量が急ピッチで増えていくなかで砂糖との相性もよく、緑茶のような刺すような渋みもなく、肉食主体のイギリス人の食生活において、「発酵茶」が脂肪・蛋白質の消化を促進し、口中の油脂分を切ってくれることを体験的に知るようになった為に、イギリス人は「緑茶」からはなれて、「烏龍茶」または「烏龍茶の中でも、より強く発酵した茶(今日の紅茶により近いもの)」に対する興味、関心が増していった。そして「紅茶」は19世紀に大きく広まって今日に至っている。
ビクトリア王朝 の1850年からエドワード7世、ジョウジ5世まで1910年までイギリスの栄光を誇示し英国の紅茶文化を完成した。従い紅茶としの歴史はせいぜい250年くらいである。我が国には1856年・安政3年下田に来たハリスが江戸幕府への手土産に持参したと云われている、鹿鳴館の時代1887年・明治20年に100kgがはじめて輸入された実績がある。また1906年に英国銘柄紅茶『リプトン紅茶』が初めて明治屋から輸入された。 

その7.ティーバッグの始まりと普及
「紅茶の茶殻の処理が手早くできれば」という発想から最初イギリスで考案された。スプーン1杯の紅茶をガーゼに包み、四隅を集めて紐でしばった簡単なもの。丁度出来上がりが丸型になることから、Teaball,Tea Eggと呼ばれた。これがTBの原形で考案者のAVスミス1896年特許を得た。その後アメリカで茶商トーマス.サリバン氏ガーゼの袋に茶を入れ商品化したなどの経緯を経て。
1930年アメリカ デキスター社が濾紙を開発、1945年袋の縫いあわせ部分ヒートシールした、特殊な濾紙所謂フィルターペーパー(未だシングルバッグ)開発した。
第二次大戦後食品のインスタント化の傾向が一般家庭にも普及、「簡便さと美味しさ」の要求に応え 紙やヒートシールの加熱臭のない、W型折り込み式自動製造機械が1953年(昭和28年)西ドイツテーパック社で「コンスタンタティーバッグ自動包装機械」を開発。
日本には8年後の1961年(昭和36年)輸入され急激に需要拡大、紅茶普及の大きな役割を果たした。

その8.CTC製法とは
紅茶の製法にはオーソドックス製法(葉っぱ状)とCTC(Crush,Tear Curl・の略で主にTB向け)製法があり、その割合は65:35でCTCが多い。発想は、当初 特に高温多湿の北東インドなどでの「雨季における大量生産」を行う為の考案からスタートしている。長く激しい雨季に生葉の萎凋(陰干し)の為の時間とスペースを節約する必要があった為茶葉の酸化酵素の働きをより効果的に行わせ、茶葉の形状、外観に拘わらず、スピーディに且つ濃厚に茶液を注出させる必要から生まれ特別な機械を使用した製法で。インドドネシア、中国広西省海南省等へも拡大、現在ではインドアッサムなど北インドの93%、ケニアの96%などで、アフリカ、アジアでも採用されCTCが全紅茶の65%を占めている。オーソドックスはスリランカ、トルコ、中国、ベトナムなど。
世界各国のT.Bの飲用率は(推定)イギリス、フランス、ドイツ で 85~90% ケータリングは更に高く90%アメリカ65-70これはインスタントティー及びミックス20%と根強い需要があるロシアは中国からの伝わった独特の茶文化をもっておりTBは未だ小さい、
中東は未だ50%位もTBへシフトしている。日本では、一般家庭用の消費に占める割合では75%位である。

その9.余談・ティーカップの取っ手、マナーなど
①最初のうち、王侯貴族の茶会で使用される中国製の小型茶碗は、我々が今使用している「緑茶用の茶碗」と同じ取っ手がなく、英語でTea-Bowlと呼ばれていた。しかしTeaが次第に普及して行くにつれて、お茶の席で優雅に膝の上に受皿をのせたTea-Bowlを持って上品な会話を楽しみながら、塊になって溶けにくい砂糖をスプーンでかき混ぜる必要が多くなり、1750年頃コーヒーカップと同様Tea-Bowlにも取っ手を付けて売られるようになった。ティーカップ/ソーサーの誕生である。イギリスでは国民飲料のエール(ビール)などはハンドルのついたマグで飲んでいたので東洋のものを西洋のモデルに発展させた意味もある。
②ティーカップには口ひげ専用のカップもあった。19世紀イギリスで作られた「ムスターシュ カップ」。カップノ内側に「カイゼルひげの紳士」用に、口ひげを置く台があった。ポマードを付けた口ひげに湯気があたらず、形が崩れないようなっていた。(フジTV・トリビアの泉で
 高い得点(評価)を得た。)
③「コーヒー、紅茶の正しい飲み方」(マナー)では主人役が受け皿にのせたカップの取っ手を左側ににして出し、お客は先ず左指でカップの取っ手をつまみ固定して、スプーンを使って砂糖やミルクをいれてかき回し、スプーンをカップの向こうに置き、今度は取っ手を右指でつまみ、ぐるりと180度回転してから、おもむろに口に運ぶ、これが西洋風正式作法だと思っている方もあるが、これは日本のオリジナル発想。イギリスを中心に欧米では、カップの取っ手は右側、(お茶は右手、お菓子は左手)、カップの花柄や風景は取っ手が右に来たときに、絵が客の目から正面になるように制作されている。

付録
その1.ミルクが先か後か
 一大論争である。ミルクインファーストはお茶が貴重品でありミルクが先であった。熱い茶液を先に注ぐと、薄での茶椀がひび割れするとか茶渋が茶椀の底などにへばりつくなどという理由もあった。後にヨーロッパの上流社会で、お茶にミルクを加えて茶の味を調整して楽しむという文化が18世紀後半に定着した。丁度ティーボウルから現在のハンドルつきのティーカップへの移行期でもあった。(イギリスでは農地の囲い込みが進み日常生活用のミルクが不足し茶を特別な条件で提供した時期もあった)
永い論争を楽しんだが、ここ6,7年前にイギリス(王立科学アカデミー?)では「熱いお茶にミルクを加えるとミルクが変化するので、ミルクインファーストが好ましい」との永い論争の結末らしき説を発表した。
今はモーニングカップ、マグカップなど大型のカップで沢山飲むことも多く、茶碗も多種になったので「ミルクが後、先は自由に好みでお飲み頂く」のがお勧め。

その2. 紅茶のカフェインと瀬古選手
カフェイン含有量は単位当り、紅茶3%、コーヒー1.5%と紅茶のほうが多いが、紅茶はカテキン、アミノ酸を含み、これらとの相乗的な働きで中和され、胃へ刺激が緩和される。従いコーヒーよりもやさしく、一杯あたりの使用量が紅茶(2~3g)、コーヒー(8~10g)であるからコーヒーの1/2以下のカフェイン摂取となる。
カフェインは体内の脂肪を燃焼させるので紅茶を飲んでから運動すると、先に体内の脂肪を燃焼させるのでマラソンランナーのスペシャルドリンクには紅茶ベースが多く採用されている。 アフリカの強豪ランナーも使用、中村監督のすすめで瀬古選手も東京国際マラソンでスペシャルドリンクとして採用、優勝した。

(以上)