国分寺あれこれ

玉川上水と農地開発

玉川上水と農地開発

国分寺と玉川上水の分水 その1(3回連載) 武蔵国分寺が築かれた天平の時代は、国府は武蔵府中にあって、武蔵国の人口は(埼玉の一部・東京・横浜川崎)15~6万人位と推定する説がある。多摩川沿いには太田、世田谷、狛江、調布、などに小規模の縄文中...
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江戸時代、国分寺は月の名所だった

江戸時代、国分寺は月の名所だった  大久保狭南は元文2年から文化6年(1736~1809)江戸後期の儒学者で幕臣。後年は狭山丘陵、入間郡山口(所沢市山口)に住んで郷土史を研究したという。  大久保狭南が残している『武蔵八景』に「立野月出」と...
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幻の日本初! 旧石器時代の遺跡発見 

幻の日本初! 旧石器時代の遺跡発見                        山岸 信雄(記) 現在の国分寺市域で、人が住み始めたのはいつ頃であろうか。およそ3万5千年前からである。 市内最古の遺跡である「多摩蘭坂(たまらんざか)遺跡」...
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「国分寺寄席」誕生のいきさつ

「国分寺寄席」 誕生のいきさつ   平成25年 国分寺寄席実行委員長 眞宅康博  「落語と言うものはぁ、チョイトォ持ち上げてストンと落とします。そのチョイト落とす処が面白いんでして」と志ん生が言ったのを末広亭で聞いたのが47年前。初めて落語...
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恋ヶ窪恋物語

恋ヶ窪恋物語                          谷田成雄(記)、野部明敬(補記) 皆様ご存知の落語「崇徳院」は、 百人一首「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の割れても末に会わんとぞ思う(崇徳院)」に題材をとった若い男女のめでたしめ...
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『国分寺 と 玉川上水の分水』 その3(最終回)

『国分寺 と 玉川上水の分水』 その3(最終回)           私的見解 眞宅康博 【その後の武蔵野】 享保年間の吉宗によって武蔵野開拓開発が進められたが、その成果は武蔵東部に比べてきわめて乏しいものであった。というのも武蔵野台地は気...
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『国分寺と玉川上水の分水』 その2

『国分寺 と 玉川上水の分水』 その2          私的見解 眞宅康博(記)  【国分寺分水】 玉川上水は、承応2年(1653)4月から11月の間に.開削された。緩やかな武蔵台地を羽村の取水口から砂川村を通り、四谷大木戸まで43㎞にわ...
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国分寺と玉川上水の分水(その1)

国分寺と玉川上水の分水 その1(3回連載) 武蔵国分寺が築かれた天平の時代は、国府は武蔵府中にあって、武蔵国の人口は(埼玉の一部・東京・横浜川崎)15~6万人位と推定する説がある。多摩川沿いには太田、世田谷、狛江、調布、などに小規模の縄文中...
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吉宗の農地開発事業と国分寺(武蔵野の開発)その2(続き)

吉宗の農地開発事業と国分寺(武蔵野の開発)その2(続き)  こうした開発が出来るのは豪農と言われる農民か、村が村の事業として取り組む場合に限られてしまう。前者を百姓請負新田といい、後者を村請新田という。 国分寺の地名として残っているだけでも...
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徳川吉宗の農地開発事業と国分寺(武蔵野の開拓)、その1

国分寺の、北西部にあたる西恋ヶ窪、日吉町、富士本、戸倉、新町、並木町、北町、或いは西の内藤町の住宅街を俯瞰してみると、江戸享保時代が見えてくる。  北町、並木町、新町は五日市街道にほぼ直角に道が通り、戸倉通りに到る。また、戸倉、富士本、西恋...