「国分寺寄席」誕生のいきさつ

「国分寺寄席」 誕生のいきさつ

  平成25年 国分寺寄席実行委員長 眞宅康博

 「落語と言うものはぁ、チョイトォ持ち上げてストンと落とします。そのチョイト落とす処が面白いんでして」と志ん生が言ったのを末広亭で聞いたのが47年前。初めて落語と巡り合ったのが昭和18年国民学校一年生に上がる時分で、柳家金語楼の「噺家の兵隊」でした。その年に金語楼は落語家の鑑札を警視庁に返納しておりました。当時は鑑札!?
蓄音機で何回も聞いたので、今でもチョットした処は諳んじております。

 川口市大竹と言う所に植木屋の社長が居て、生来の酒好きが高じて自分の屋敷の一角に一棟建てて飲み屋を始めました。そこに友人に連れられて行ったのですが、メニューに“無い酒は無い”と謳っているから「永い間<亀の翁>を探しているのだが・・・・」「あるよ、飲みますか?」 それが“おおたけ苑”荒井英輔氏の出会いで、かれこれ14・5年前の事。
彼はただの呑兵衛ではなかった。生物理学士、しかも極上の粋人で「何か良い趣向はないかいな」と言うので、友人の山本武氏が「落語の席亭にしたら」と提案。知り合いの馬生師に渉りをつけ、月に一度、馬生師匠の弟子でまだ前座の駒丸(馬治)・駒介(馬吉)を交代で隔月に話をさせようと決め、師匠は時折演じてくれる事になりました。それからは毎月二人の上達振り拝聴。

 私が国分寺に越して暫くして、師匠と馬吉が並木町公民館に来演したりしました。また、国分寺稲門会「稲穂祭」の企画として「落語を入れては」と提案。馬生師匠は快諾、馬吉・駒ン奈(萩野アンナ:慶応文学部教授)を連れて三人で出演して盛り上げてもらって大盛会になりました。

 そのうち私は「二つ目に昇格した馬治・馬吉の落語会を国分寺で開催して地域の人々や老人に喜んでもらえれば、国分寺稲門会としての地域活動の一助になる」と考えました。その頃、ある老人会の会長から「落語会を催して欲しい」との話が舞い込みました。ただ難題が一つ。「老人には無料にして・・・?!」 無料はご勘弁被り度候! 無料はお断りして、構想していた名分に合致するのでその船に乗る事に決めました。
「第1回国分寺寄席」です。平成23年、会場手配・出演依頼(馬生師匠自ら出演)、チラシ(下の写真)や入場券の作成、370席を満席にする事。幸い稲門会と老人会の助力を得て当日は満員御礼。下の写真は当日出演者の色紙です。東日本大震災にも幾許かの寄付も出来て大成功でした。その後も「国分寺寄席」は毎年開催されて、お陰様で毎回「満員御礼」を続けています。

 現在、「国分寺寄席」は国分寺稲門会の活動スローガン「早稲田と共に、地域と共に」の事業として位置付けてられています。今後も、更に発展しながら継続される事を願っています。

(以上)